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一国一城令について
tabaccosenの回答
- tabaccosen
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思うところを述べます。 徳川幕府の政策遂行の常として、幕閣の「裁量権」を、最大限に保とうとする傾向がある。これは、「法治主義」という厳密な体系性をもった政策でなく、個別対応、相手の特殊性を認めるところで、周辺との「区別」「差別」の階層性をつくることになる。大体、「城」自体が、徳川体制下では、特に「大阪」以後では、経済をベースにした「平城」になっている。戦国期に多数在った「砦」、それが集結したところ、拠点が「城化」したものだが、平和期への移行は、「山城」自体が無駄なものと化している。たとえば、仙台藩の伊達も、青葉城という一応「山城」をつくるが、それ以上のモノをもとめてはいない。しかし、城下の防御体制は、求められている。「付置」、防御拠点の配置ということだ。東に、政宗の「隠居所(城)」を、北に「東照宮、」、西に、「八幡神社」を設けている。こんなところでしょうか。 つまりここにある「考え」は、武家のたしなみとしての、付置的、都市計画。その延長としての「拠点」。それらもすべて「幕閣」との協議により、決められている、と考えるのが妥当だろう、ということです。これで、「回答」になっているでしょうか。
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ありがとう御座いました