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西郷隆盛の金玉が大きくて首から紐でキンタマを布で支
西郷隆盛の金玉が大きくて首から紐でキンタマを布で支えて吊っていたって本当ですか? しかも金玉の大きさが赤ちゃんの頭くらいあったそうです。 で、なんでこんな巨大化したかというと2度の島流しにあって、無人島の沖永良部島で寄生虫に金玉にフィラリア感染症を起こしたという。 金玉が赤ちゃんの頭まで膨れ上がっていてセックスして子孫を産めた種付けが出来たと思えないし、金玉が赤ちゃんの頭サイズだと歩けなかったと思います。 色々おかしくないですか? 本当ですか?
- gasshop2017
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質問者が選んだベストアンサー
象皮病ってやつですね。「象皮病」で検索すれば、いっぱい画像が出てきます。ついでにいうと、キンタマがスゴイことになっている画像も出てきます。 寄生虫や風土病などは、日本ではつい半世紀くらい前までは身近な存在でした。今の70代くらい以上の人は、どこかで飼っていたものでしたよ。だからそのくらいの世代の人には花粉症やアレルギーが少ないのです。
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- 4017B
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首に掛けていたってのは嘘ですね。ただし陰嚢(いわゆる玉袋)が異常に肥大化していたと言うのは本当の話で、当時の西郷に近い親しい人々の回顧録や日記などにも記されています。西南戦争の際に側近が介錯して首が無く人相が分からなかった死体を、政府側が西郷本人だと確認した決め手もこの「肥大化した陰嚢」が特徴となっていたためです。 この陰嚢肥大化の原因と考えられるリンパ系フィラリア症ですが、非常に潜伏期間が長いのが特徴の1つで。今も東南アジア一帯では猛威を奮っている風土病の一種ですが、これらの多くは子供の頃に感染し陰嚢肥大化などの目に見える症状が現れて来るのは数年後の成人してからです。 西郷もいわゆる "島流し" になった際に病気に感染したと思われますが、その症状に苦しめられるのは10年以上経った後だったと思われます。ですので大河ドラマ等でも登場する有名な島妻のトマさんとの間にも普通に子供が出来ても不思議ではありません。 P.S. 晩年は巨大な陰嚢のせいで武人にも関わらず馬に乗る事が出来ず、移動にはもっぱら籠を使っていたと伝わっています。
お礼
有難う御座いました
- hue2011
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嘘でしょう。 あの銅像を見て信楽焼の狸を思いだして連想しただけだと思いますよ。 確かに陰嚢巨大症みたいな人は世の中にいて、射精量がバケツ何杯分もあるとかそういう噂のあるブツの持ち主はあるようですけど、もしそんなものだったらおっしゃるように歩けません。しかもほとんど見世物状態ですから日常的に社会生活が営めないと思います。ブリーフやトランクスじゃなく六尺ふんどしだとしても収納だけで日が暮れます。 そんなものをぶらさげながら江戸におしかけて海舟と直談判をした上無血開城に持っていくなんていう、一歩間違えたら斬り合いになるような修羅場にでていくことなんかできないでしょう。
お礼
有難う御座いました
そんな話はありません。
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お礼
有難う御座いました