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臨済禅について
臨済禅で「無」とか、「隻手音声」とかの公案というのがありますが、 こういう物を理解というか、突破するのには、 事前にそれなりの知識は必要なんですか? 仏教はキリスト教に比べて知的な面が強い気がしますし、 知識なしに考えても全く意味が分からない気がします。
- kirakiraaruku
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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理、知識での到達。でも臨済禅の問答って単なる理、知識ではないのですね。 ぎょっと驚かす意表突く表現。 個性、個としての到達達成のを示す。 只管打座とどこが違うか。私はどちらも両方があるのではないかと存じます。 ぎょっとする自己達し。これは相当の人でなければ思考や思索だけでは無理だろうし、只管打座だって、心にあるものをグイッと据えての事でしょう。 私たちヨーガの精進者もヨーガでの瞑想ヨーギと知者の知による賢人の道を教えられます。 いずれにしろ、ぐぅんとした自己が主眼ですからね。だれでもこれでいいとはいかない。 仏教は確かに知と理論がありますが、それで済むわけではないでしょう。 なくてもいいというにはそういう人にはなくてもいい。しかし知を持ち知を超える人が殆どではないかなぁ。
- 加藤(@hayyuji9401010)
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事前に知識は必要ない。 事前に知識がないと 学んではいけないルールなど存在ない 知らないならば、学べばよい ただそれだけ。 知識は必要に応じて、 ネットなり、書籍なり、人なりに聞けば 全て解決、 ある程度知識が溜まったらば、 それを発表するのまた、 自分の為にもなるし、 知らない人間も教えられるし、 自分の知らない場所(盲点)が見つかるので オススメ。
お礼
ありがとうございます。
- 加藤(@hayyuji9401010)
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お礼
貴重な引用をありがとうございます。 読んでみます。
- 加藤(@hayyuji9401010)
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http://www.hikari-k.ed.jp/zenchoji/houwa/houwa2302.htm 「隻手音声」 「両手を打つと、音が響きます。しかし、片手では、どんな音がするでしょう」。 江戸時代中期の禅僧、白隠和尚が修行僧に問いかけます。 「両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)に何の音声かある」と。 隻手とは、片手のことです。片手では、打つことが出来ません。音も響かないでしょう。その片手の音をどう聴くのでしょう。 白隠和尚は、修行者を日常的な判断や思考、思慮分別を超えた世界に導いているのです。いくら耳で聴こうとしても、不可能です。頭で考えても答えは出ません。「隻手(せきしゅ)音声(おんじょう)」に、何か意味ある答えは無いのです。理屈や分別に固執しているうちはダメだと示しているのです。言葉を超えたところに、体現できることがあります。 世の中には、言葉では説明できないことがたくさんあります。自分に向かって、声や音にならないが、無言で何かを訴えることもあります。声なき声、音の無い音、耳では聴き取れない音声があります。音や声は耳で聴くものと云う固定観念を捨て去り、音声を目や鼻や肌、全身全霊で受け止めることが大切なのだと、示してくれています。 「隻手音声」は、常識とか当たり前に、こだわりながらそれが正しいと凝り固まって生活している自分に向かう、一喝言です。
お礼
ありがとうございます。
- 加藤(@hayyuji9401010)
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座禅とはヨガを日本風にカッコ良く言った言葉 臨済宗は壁に対して座り、、
お礼
ありがとうございます。
- koosaka
- ベストアンサー率43% (78/179)
昔、若いときですが、禅の修業をしたことがあります。 師家は故・安谷白雲老師、鎌倉の禅宗寺院、浄妙寺の老師の主催する座禅会に参加して、半年間でしたが、参禅しました。 老師は、大正・昭和の名僧、原田祖岳の遺鉢を引き継いだ人で、曹洞宗と臨済宗の折衷という感じで、座るときは曹洞宗と同じ面壁、そして「公案」を用いるところは臨済宗と同じでした。 私の場合、中国の趙州禅師の「無字の公案」をいただき、参究しました。 「無字の公案」というのは、姿・形のない文字を見て来なさい、という問題です。 それが解けたら、「悟り」だと言われました。 で、毎日、朝から晩まで座禅しました。 途中、昼食を挟んで、老師から提唱があり、その時は臨済禅師の「臨済録」をテキストに講義を受けました。 それから、午後3時頃から老師と一対一で、いわゆる禅問答をしました。 禅問答と言っても、初心者だったので、座禅の仕方とか、その種の疑問を教えていただくだけでしたが。 当時は鈴木大拙の英文の禅の本が世界的に「禅ブーム」を起こしている頃で、各国から修行者が参集し、国際色豊かな坐禅会でした。 公案としては、このほかに日本の白隠禅師の「隻手音声」というのが知られています。 片手で鳴る音を聞いてきなさいという問題です。 禅の「公案」というのは、無理難題ばっかりです。 合理的・理性的に考えたのでは、ぜんぜん解けないもので、禅は「知を乗り越えて非・知に至るもの」「分別を捨て、無分別に至るもの」。 従って、余計な知識は禅にとって、利得なんかぜんぜんないばかりか、却って障害になります。 すべて捨てるべきです。 禅は「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」がモットーです。 文字によらず、経典によらず、人の心と心で直接伝え、しかる後、自性を知り、成仏する、というもの。 そのためには、「仏を殺せ!」と臨済は言っています。
お礼
貴重な体験談をありがとうございます。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
>事前にそれなりの知識は必要なんですか? 必要ないと思います。 >知識なしに考えても全く意味が分からない気がします。 それでよいと思います。 ロゴスで理性的な理解・回答が求められているわけでなく、座禅をすることが目的ですから、、、。
お礼
そうなんですね、ありがとうございます。
- nekosuke16
- ベストアンサー率24% (903/3667)
臨済禅ですか。 「無」「隻手音声」などの用語など、日常的な言葉ではありませんし、あえて、事前学習の必要はないと思いますよ。 公案、問答といっても、一般的な物事の理解とは別次元のやり取り。 両手を打つと音がするが、片手ならば如何に?として、無音の音を聞く。 仏教の基本原理の解脱や輪廻の世界にしても、あくまでも、観念的、感覚的なものであり、理解を飛び越えたところに答があるようなもの。 あまり深く考える必要はないと思いますよ。 ちなみに、私は「曹洞禅」が好きですね。 「只管打坐」。 ただ、ひたすら座る。 もっとも、近頃のお寺さんが、やたらと説法を好むという点では、曹洞禅も同じかもしれない。 何れにしても、禅に関しては、習い事ではなく、あくまでも、体験の範疇ですから、特段、事前の学習など、必要ないですね。 ただ、仏教の中にある宇宙、世界観は、たしかに面白いですから、個人的な立場で色々と紐解くと面白いと思いますよ。
お礼
ありがとうございます。
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お礼
ありがとうございます。