• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学において、賢人であること自体が自己犠牲だ)

哲学において賢人であることは自己犠牲なのか

sirousa3の回答

  • ベストアンサー
  • sirousa3
  • ベストアンサー率50% (6/12)
回答No.4

これは ひょっとして ポチ君へのラブレターか?! 何を神としているのか さっぱりわからないんじゃよ。 身に覚えはないけれど … 私は あくまでも人間の親から生まれた子なので 今現在は人間を自覚している この世を作ったのを神とするのは人間だけの勝手であり 思い込みが作ってるんじゃよ ここは正直 哲学カテとは言い難い、カテ違いな質問が多い 言葉足らずやカテゴリーをよく考えていない人がいたりする 哲学ならではの問答を楽しみたいし 人の回答も楽しみたいところ 何を哲学としているかは人によって違うのだろうけど… 個人的にはドリル番長の考察をもっと出して面白い疑問を投げかけて貰いたい

Flareon
質問者

お礼

まあ、好意的にありがとう。 前半の哲学の目標だけでいいんだ。 後半は救いを求めるタイプをいじめてるだけだ。 ところで観音力の一つに「プリキュア声優さん魔法」というのがある。 書道などで見識のある人は、筆者の精神に感応する。 ワープロでも同じでね。 観音(精神の声)で君の精神を写し取って、その精神性の状態で、自分の書いた質問主文を読み返すと、君がどのように反応したか類推できるんだ。 まじない師の便利技だ。 なるほどわからんようだね。 しかしそれは日本の風土でよくみられることで批判的には応答しないよ。 仏教主流の習慣では神に先入観を持たない保留状態を維持するものだからね。 私にもむやみに神を語るものは、社会の裏切り行為に見えるよ。 これは私の哲学姿勢の一つなんだけどね、 学問といえば文明発祥の初原ではおおむね神学が最も注目される課題で、神学から早いうちに分化して独立した学問の一つが哲学だろう。歴史とかもそうだね。 この哲学の教科書が洋書の翻訳だから、日本人は西洋と和解できた歴史がある一方で、独自の信仰心や神学を哲学と言えるものにまで発達させていない。仏教哲学は人間を考察する哲学だ。 その誰もやっていないことに取り組んでいるんだ。

関連するQ&A

  • シャカの行った悪事について説明しよう。

    シャカの行った悪事について説明しよう。 死の燎原とは、立ちすくす者には真実であり、いかなる苦難も歩み乗り越える者にはぼろしだ。 私は世界は苦に満ちているといったシャカに背き、私は世界に幸福を見ると立ちはだかる。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 う~んっ、プリキュア仕事が長く続いたが、久しぶりの男仕事だ。 シャカが仏陀であることとは、彼が人間存在の中心になるだけの資質があったからこそで、人々の群れの中で特別に仏陀の称号を獲得した。 彼の教えの中心は「無」だ。 人が自らの存在に完全な自覚を持つと迷いはない。 それは自己の境地なので、他者に直接語る(悟らせる)「言葉は無い」 神の存在証明という哲学の命題は有名だが、仏陀型の賢人の特徴は、「自己の存在証明」ともいえるだろう。 証言をすると、仏陀に到達すると意図していなくても神様とお友達になれる。 人格神を地上に降臨させる強力なシャーマンの一人になるのだ。 文明勃興の熱気に満ちたバラモン僧たちは、神について多くを語る。 それは社会に秩序をもたらす効果があり、職務上の必然だ。 人間としての完成を成立させ、神と直通対話可能な仏陀の立場では、「バラモンらは何も語っていない」だ。 したがって、 君たちは何も語っていない。 私は何も語らない。 ならどっちにしろ無だという事にしましょうや。 そして、仏陀である幸福を語りながら、「あ~ら、かわいそうね~、君たちは虫けら以下ではいつくばって、何をするの苦しそう」「美しい世界すらも、苦痛がゆがめるのね~ン」(だからこそ地面を這いつくばる虫けらを人間にあてはめむやみに踏みつぶさないように配慮することが美徳だ。)ここにしかりと答えるものあれば「じゃあ、世界って全て苦痛なのね~ン、でも私は幸せよ!だってブッダだも~ン」このようにやらかした。 このように娑婆世界観というのが形成した。 そして、仏陀を所詮理解していない者たちだけが、シャカの伝承を語り継いだ。 そして、救いを祈願するという習慣が宗教に取り込まれる。 そして、無の論理が完全に喪失して、仏教の経典の編纂時期には実質的に信仰信への到達を意味する「空」に変容していた。 さてと、物語は今回以上です。 研究要素について検証のために質問していまして、基本的な募集回答は「読書感想文」ですが、ここは変人のたまり場で、ほぼ制限なしに好きな落書きをしてくれてかまいませんよ。

  • 自己が人間である事に異論が挟まらない現状の考察

    自己の人格を人間と定義する事と、 自己の人格を仏陀と定義した過去との差異を研究するための題材集めです。 自らが人間である事に異論がはさまれる事は乏しい。 この人間と言う概念はおそらく西洋に発祥し、神が人間をお告げしたから私は神から人間を与えられたのだとでも言う感じの定義で、現代においてこの人間と言う概念は自己を表す事となっている。 私は仏と言う言葉を現代語訳すると人間と言う言葉になると考えていて、すなわち仏陀は人間を意味すると考える。 神から人間と言う自己を与えられたという西洋流と違って、東洋の仏陀と言う言葉には、自らの意思で人間を自覚するという意味合いがあるのではないかと類推しています。その人間としての意思が確信と自覚に似まで昇華されたのが、自らの信仰にたどりつく目覚めたもの仏陀であると考えます。 ただしこの私の持論は、個人の考えであって裏打ちが乏しい。 その点で題材提供としてご協力を仰ぎます。 おもに求めるのは、人間と言う自己の自覚の歴史的経緯です。 そのほかにも自説を発表してみたい方も、サル踊り扱いですが私なりの歓迎をします。

  • アホvs哲学者

    愚か者にとっては屁でもないのです。......恥だの、不名誉だの、侮辱だの、悪口だのといつたものは、それを感じる人間にだけ痛みをもたらすもので、感じない者にとっては不幸でもなんでもないのですから。......でも、どうやら哲学者のお歴々が異を唱える声が聞こえるようです。痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものである、とおっしゃっているようですね。とんでもない、それが人間であるってことですよ。 (エラスムス『痴愚神礼賛』31,32 沓掛良彦訳 中公文庫82ページ) *** *** *** *** *** 痴愚の女神が、アホの効能について語つてゐる文章です。 アホと哲学者は、どちらが幸福ですか。

  • 新たなる悪の陰謀団を構想中です。

    仮面ライダーの活躍を通して人の愚かさをうち払おうかと言ういつもの哲学的取り組みの最新章を構想中です。 悪の軍団 ショッカーの総帥募集中。 http://okwave.jp/qa/q7270230.html 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 http://okwave.jp/qa/q7348861.html 悪との決定的決別はコレ ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2 http://okwave.jp/qa/q7412460.html 君達のように同じ人を人間と受け入れられないで神のごとく拝み仏陀と呼ぶ錯誤をこねくり回すつもりです。 簡単だ。 人と人がお互いに理解しあえるなら、そこに信頼と言う信じる行為があり、それを達成したからこそ初めて人間だ。 それが社会生活の基盤で、信仰の輪が人と人を結ぶ。 ここで優れた人としての資質から仏陀として阻害され、誤解を含めた一方的信仰を集めたのが仏陀だ。 人の完成が仏陀であるが、人間と言う後世の言葉は同じ意味だ。 君達は人間を名乗るにはあまりにもお粗末だ。 君達が歴史や文化で学んだ、仏陀のみが住む楽土の理想社会は天国でなく、人間社会の理想に当てはめ、その理想を携えるべきだ。 君達はそれを達成不可能だと言うだろう。 その通りだ。 しかし君達にとっては達成不可能なだけだ。 私は、遠く涅槃を憧憬しなくても、優れた人間本来の資質によって、世界の全てに幸福を観る。 すなわち仮面ライダーの私は簡単に君達の理想を実現しているのだよ。 そんな私は仏陀では無くあくまでも人間だ。 そんな私の人間としての自覚が深まるほど、君たちこそが娑婆世界と言う過去の地獄を這いつくばる亡者だと判る。 君達は人間であると自覚するだけで2500年前の過去には困難だった娑婆からの解脱があるのだ。 仏教は単純に人が人間を自覚しなかった過去の供養だ。 お釈迦様を唯一の人間としての完成形として例示する。 このような強迫観念にとらわれた君達は、仏陀と言う過去の理想が人間と言う自覚で完成している事に気がつかない。 何故なら君達は滅びの定めを背負った偽物の人間であり自らが悪を背負っている。 色々と言いたい事はあるが今回はこの辺にしておこう。 今回は陰謀団構想で、君達に無の悟りをしらしめ、君達が望んでやまない救いをもたらす、新たな悪の結社についてアイデアをください。 構想がまとまればその次はいつものように総帥募集です。 私はあくまでも仮面ライダーです。

  • 仏教・老子の哲学について良書を教えてください。

    最近仏教や老子の哲学に惹かれ、NETなどの記事を見て 勉強しているのですが、なかなか知りたい事について 的確に書いてある記事を探すのが難しく、その思想的中立性も よく分からないので、もうちょっとちゃんとした専門書で 勉強したいと考えるようになりました。 そこで、仏教や老子の哲学について詳しい方に、 良書を紹介して頂けたら…と思い、書きこませていただきました。 仏教は特に仏陀や釈迦といった「初期仏教」の中でも、 特に「人間が苦しみから逃れるには煩悩や執着を捨て去らねばならない」 というテーマにすごく惹かれ、そのテーマを中心に実践的な 哲学を学びたいです。 老子に惹かれるのも、似たような理由です。 書籍の選択に当たっては、まず入門的なもの、新書や岩波文庫の ような価格が安くお手軽なものが読みたいと思っています。 皆さんよろしくお願いいたします。

  • 大日如来とは何でしょうか?

    密教で大日如来というものがあります。 その概念がよくわからないので教えてください。 まず仏像として存在してますが、人間(かつて人間として生きたことがある)なのでしょうか? それとも神や創造主に近い存在でしょうか? 宇宙の中心にある存在だと聞いております。 仏陀との関係はどうなっていますか? 仏陀の師匠筋にあたるものでしょうか、それとも仏陀を創造した創造主でしょうか? よろしくお願いします。

  • 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • 誰か私に金ください

    やあ、みなさん。 今回はいつもの挨拶ぬきです。 実在する妖精の捕まえ方は置いておいて、社会人として自活するための検討課題です。 今回は弥勒菩薩商法の復活の余地について質問です。 私はお釈迦様の言った涅槃と同じく、自らの本質に到達し、そこに新たな世界を見いだした現代の仏陀です。 そこは、古くに研究されたイデア界でもあり、永遠の生にいきる神の世です。 貴方達は死後、それとは別の死者の国で死にっぱなしになります。 それに耐えられないで、生を求め転生します。 しかしそうして生きることも又、耐えられない。 そのように苦しみぬきます。 そしてまた死にたくなるのです。 この死のループが輪廻であり、解脱すれば天国で永遠に生きます。 それは個人の認識のみで自覚できる事で教えはありません。 すなわち悟りが大切です。 私の言葉を信じても意味ありません。 自覚のみが到達するのです。 すなわち教えとは君達の望み通り輪廻することで正解で、お釈迦様は正しかった。 それは神と離れた異常な状態で、仏陀は皆さんの懇願と、それに答える慈悲により、あなた方を天界から遠ざけ地上に縛り続けています。 全てあなた方の願いに仏陀として答えたからです。 感謝してください。 だからお金ちょーだい。 古来の宗教と同じような形で、貴方がたに判り易く救いを説いたつもりです。 大うけの自信があります。 喜んでもらえるでしょう。 でも私は世間知らずで、どうやったらこの救いの言葉がお金になるのか判りません。 大人の皆さん。 教えてください。 今回は事業に関する質問です。

  • これは「哲学」ではなんと云われる主義になるのですか

    「選民思想」と似てそうで似てない考えをもってるのですが、 これは「哲学」という学問のなかではなんと云われる主義(思想)になるのか知りたく 質問させていただきます よろしくお願い致します。 特徴は、 (1)周囲の人々(生命体)を「人間(=同種族)」とは見てない、見れてない。  ただし、見下しているわけではない。   (一般人、周囲からしてみれば) 物質としての”ヒト”はそこにいるが、 こちらからは そこに”ヒト”がいるとは思えない  (空気のような、無視するレベルの、言ってみれば「どうでもいい」、気にしないようなかんじ) 言い方はアレですが、こういう場面もあります。 ・そもそも知的レベルが低い→話が通じない→相手にする必要がない ・相手が言う前に、言いたいことがすべてわかってしまう→話を聞く時間が無駄→相手する意味がわからない ・ RPGでいえば、NPCや(常に同じ発言をする)街のキャラ、みたいな そういう目で、他人を見てます。 白人が黒人を奴隷扱いしていた時代に、 白人女性が「黒人の前でハダカになってもなんとも思わない」といわれたりしてますが、 まさにそういうかんじです。 「人間として見ていない」という具合に。 しかし、一見「見下してる」かんじなのかと思い、色々しらべてみたら 「選民思想」「エリート思想」なる単語にたどりついたのですが、 これらは、「他人と比較してる」という前提があります。 私の場合は「他人と比較」することはなく、それ以前に 「比較の対象となるような、同次元にはいない」と思っているので ここで質問することすらも、 「他の惑星の生命体は、どのように考えているのか」 といった感覚です。 別次元、 別惑星、にいるような 「相手とじぶんは まったく違う種族」という考えは ”哲学”という学問において、なんという言葉で表現されるのですか?  または、 今まで歴史上ではそういった体系化はまだなされていないのでしょうか ※自分と他人を比較するわけでも、見下すわけでもないので 「選民思想」ではないと思っての質問です よろしくお願いします。

  • イデアの開眼は哲学の目標だ

    私は心やさしき聖霊のプリンス、栄光の初代男子プリキュア、キュアブルームだ。 何故、BLOOMだか解説しておくと、私が「しげちゃん」だからだ。 私には「実在する妖精の捕まえ方」という、独自の哲学研究がある。 これについてまとめてみた。 西洋の哲学的考察で、思考とは突き詰めると言語であるという考え方が主流になっている。 それが真かと問う内容でもある。 自らの思考法が、人間誰にでも共通するかは不明で、だからこそ哲学が必要なのだろうが、思考を明かす時、一般的に、ビジョン、イメージ、という言葉が引用されるね。これは映像を内観していると言う事だ。 私はこの映像による内観の達人で、非言語で映像を思考にまで発展させている。 たとえばメモが取りたくてボールペンを探そうとするだろう。 ボールペンの映像が見える。 いつもの鉛筆立てが見える。 前回ボールペンを使った場所が見える。 どっちにしようかと思いながらも足が前回ボールペンを使った場所に向かう。 足を進める間、ボールペンを片づけておけばよかったなと、ボールペンを片づける映像が見える。 そしてボールペンをみつける。 ちょっとそこら辺をかたずける。 こうした映像を内観する間、言語による思考がない。 無音の無だ。 それでいて映像だけで思考が成立している。 別に、いわゆるテレパシーで、このような内観の映像を、他者と共有することも実践している。 そうなると、単なる内観に収まらず、世界の共有となる。 そして、ボールペンを探すような個人的な事柄以外に、誰か他者を内観で鑑定することが、霊能力者の霊視だ。 そのように内観する精神世界は世界に解放され、観念世界を形成している。 これがイデアであり。 自らを語らないと言った、釈迦独自の哲学に現れる涅槃だ。 この観念世界は、誰もが知らぬはずもない、「夢」という言葉で言い表される。 夢であれば、君たちは垣間見るだけであろうが、私は、童心を携えたまま成熟した男子プリキュアなので、その観念世界に、地に足を踏みしめ、そこで生きている事を自覚する。 これは映像による思考能力が、君達には追従出来ないほど高い、霊能力者と言われる特殊知性だからである。 私は聖霊セレビィとして観念世界の住人だ。 人間であるとともに、生きながら神の世の住人なのだ。 いつか私も肉体を失う日が来るだろう。 それは単なる変化であり、私にとって死ではない。 これで不死という文言は説明できる。 開眼者である事は、心眼を持つことだ。 すなわち思考とは言語であると言う哲学は間違いで、思考とは多様な側面を持ち、開眼することによって、神に接見し、常世の住人となる。 まあ、そんなところだ。 ところで、実在する妖精の捕まえ方と言えば、幼馴染の聖霊ジラーチちゃんとの初恋物語がメインだが、死を超克した私は、君たちが野たれ死ぬのを、何とも思っていない。 したがって、アマテラスの聖霊であるジラーチちゃんが、君たち領民にどのような真心を手向けるか聞かせてやろうとは思わない。 君たちは、開眼できない旧人類として、滅びにあがらう事はむなしく、ただ滅びるままに朽ち果てるとよい。 男子プリキュアとして私の戦いは、精霊の開放だ。 悪魔として封印された、旧人類の捨て去った英知を復活させ、君たちに対して勝利しようともくろんでいる。 君たちが敗北から逃れようとすることは、神の意志に逆らい、自らの死から逃れようとすることだ。 君たちは私と違って死から逃れられないだろう。 私は神の神秘に対する人間の無知を代表し、死から逃れず、死と向き合ったのだ。 それが悪魔を愛すると言う事で、死を理解し、観念世界に自らを発見した。 君たちは、私と愛を誓った悪魔たちが、君達すらも愛することに溺れ、滅びの宴に酔いしれる。 観念世界において、君たち自身は不在で、神の記憶する君自身が、記憶の墓標として並ぶばかりだ。 死者の墓標だよ。 それが君たちの運命だ。 君たちは死という形で、死後に転生することは無い。 墓標がすでに出来上がっている。 以上はイデアという哲学的言い回しに関する私の見解です。 研究のためご意見募集です。