• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大正7年シベリア出兵の「非戦闘員」とは。)

大正7年シベリア出兵の「非戦闘員」とは

Why-J-peopleの回答

回答No.3

No.2でのURL二つは苦肉の策でした。 一つは外交文書の一部とは言え、何しろ、その中味と言えば、 ●コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%9D%9E%E6%88%A6%E9%97%98%E5%93%A1-119915 と同等の内容に過ぎず、残念ながら一般論の域を出ません・・・ 「1918年11月当時の個別具体的な人数内訳を示すべし」との 御言葉が聞こえてきそうです・・・(笑) 実は<アジア歴史資料センター>内の当初の派遣軍(概ね陸軍第12師団、 第3師団、第7師団等に隷属)の一覧表、人員表等があれば 「非戦闘員一六、四〇〇名(あるいは二七、七〇〇名)」の内訳が 概ね判明するのではないかと安易に考えていましたが、 バラバラの一部の断片情報はあれど事は上手く運びません。 例えば「衛生部員」に着目してみましても、 下記から「4836名(=衛生部員4688名+薬剤官・磨工長・磨工卒148名)」 が浮かびますが標題の「大正9年11月以後」が示すとおり、 どうやらこれは、撤兵に至るまでの数値なのか、 残念ながら「1918年11月当時」には直結しません。 ○[標題]西伯利出兵衛生史(続篇)第1巻 衛生勤務 大正9年11月以後 [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>戦役>西伯利出兵 [レファレンスコード]C13110186400 上記のうち ●[件名]第9篇 衛生部ノ人事及行賞 [レファレンスコード]C13110187600[画像数]24 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C13110187600?IS_KIND=summary_normal&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=iFi&IS_KEY_S1=F2013112711514763118& [1-2/24] 第九篇 衛生部ノ人事及行賞 第一章 人事 第一 人員 西伯利事變ノ爲西伯利、北滿州、北部沿海州及薩哈嗹州ニ派遣シタル衞生 部員ハ四千八百三十六名ニシテ動員 ─<中略>─ 衞生部人員表 ─<中略>─ 派遣 計 四、六八八(一四八) [※4688+148=4836]  ─<中略>─ 備考 五、本表外補充兵役輜重輸卒及歩兵ニシテ看護學ノ教育ヲ行ヒ出征      部隊ノ衞生勤務ニ服セルモノ二七九名アリ  ─<中略>─ 七、()ハ藥劑官、磨工長、磨工卒ヲ示ス そこで全体ではなく一部に限定してみました。 >例えば、看護婦がそうですか。 もちろん、看護婦は非戦闘員に相違ありませんが、 当時は外地勤務の看護婦は稀な時代のはず。 ○「欧州に派遣された「女の軍人さん」: 日赤救護班と第一次世界大戦/荒木映子」 『人文研究:大阪市立大学大学院文学研究科紀要 64/2013.3』(p.5-35) http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il4/meta_pub/G0000007repository_KJ00008388279 シベリア出兵に際し「1918年11月当時」外地勤務の「看護婦」の有無に 関し、僅かですが、下記から手懸かりが浮かびました。 ●「1910年代における日本赤十字社の救護看護人: 近代看護史のなかの男性看護者(6)/山崎裕二」 『日本赤十字武蔵野短期大学紀要 12/ 日本赤十字看護大学/1999』(p.92-122) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000033878 [19/31](110頁表5・表6を別にして左側12-16行目) (※1918年7月)22日陸軍より救護班派遣の認可と指令を得て、 ただちに救護員の召集を行い、26日救護班勤務心得を医長に交付し班員 一同に社長諭告がなされた。ただちに救護員の一部(医長ほか10名)は先発 し、残りは8月2日に出発した(『社史続稿・下巻』p.486-p.501.)。 [19/31](110頁表5・表6を別にして右側4-10行目)  東部シベリア派遣臨時救護班の編成は、医長1名、医員6名、調剤員3名、 理事1名、書記6名、看護人長6名、看護人61名(うち1名は磨工)、通訳3名、 厨夫10名、雑役夫9名の合計106名であった(通訳・厨夫・雑役夫は必要に 応じ派遣先で雇用することができた)。この編成は、患者300名を収容する 病院を設立することを目的としたものであった。 [20/31](111頁右側35-38行目)  このように第1次派遣臨時救護班の業務が多忙になったため、 日赤は第1看護婦組織臨時救護班と第2同班を増派することにした。 そのウラジオ到着は9月30日とlO月末であった。 上記「東部シベリア派遣臨時救護班」の内訳数は明記されていますが、 (「東部シベリア派遣臨時救護班」を含め) 「第1看護婦組織臨時救護班」「第2同班」の内訳数は下記官報で確認出来 ます。 ●『官報.1918年08月02日/大蔵省印刷局[編]/日本マイクロ写真』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953913/7 [7/27](37頁上段27?-32?行目) ◎日本赤十字社錄事 救護員派遣 日本赤十字社ハ今般露領東部西伯利ニ於ケル聯合與國傷病者 救護ノタメ左ノ如ク救護員ヲ派遣スルコトヽ爲リ一行ノ内一部ハ去月二十 六日東京出發同二十七日敦賀ヨリ乘船シ殘餘ハ今二日東京出發明三日敦賀 ヨリ乘船ス(陸軍省、海軍省) 一 救護醫長一人/一 救護醫員六/一 救護調劑員三/一 救護理事一/ 一 救護書記六/一 救護看護人長六/一 救護看護人六一/一 通譯三/ 一 厨夫一〇/一 雜役夫九/計 一〇六 ●『官報.1918年10月03日/同前/同前』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953965/4 [4/18](63頁下段34?-39?行目) ◎日本赤十字社錄事 臨時救護班增派 曩ニ露領東部西伯利ヘ派遣シタル日本赤十字社臨時救護 班ハ目下浦潮ニ病院ヲ開設シ其一部ハ哈爾賓及海拉爾ヘ分派シテ傷病者救 護ニ從事中ナルカ戰況ノ發展ニ伴ヒ漸次患者增加ノ狀況ナルヲ以テ今囘增 援トシテ救護醫員一人、救護看護婦長二人、救護看護婦二十人、計二十三 人外ニ使丁一人ヲ以テ編成セル第一看護婦組織臨時救護班ヲ浦潮ヘ向ケ增 派スルコトヽ爲リ一行ハ去月二十七日東京出發同二十八日敦賀ヨリ乘船シ 任地ニ赴ケリ(陸軍省、海軍省) ●『官報.1918年11月01日/同前/同前』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953988/5 [5/18](8頁上段4-8行目) ◎日本赤十字社錄事 臨時救護班增派 日本赤十字社ハ今囘更ニ在浦潮日本赤十字社救護班病院 勤務ノタメ救護醫員二人(内班長一人)、救護看護婦長二人、救護看護婦 二十人、計二十四人、外ニ使丁一人ヲ以テ編成セル第二看護婦組織臨時救 護班ヲ增派スルコトヽ爲リ而シテ本班長一人ハ先發トシテ去月十八日東京 ヲ出發シ他ノ救護員一同ハ同二十五日東京出發同二十六日敦賀ヨリ乘船任 地ニ赴ケリ(陸軍省、海軍省) ただ、時期的には間に合うタイミング(11/4)ですが、 果たして上記看護婦が「非戦闘員一六、四〇〇名」に含まれるか否かは 残念ながら裏付けが取れません。 これだけでは僅かの例で中途半端ではありますが 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答真にありがとうございます。 お礼が遅くなってすみません。 読めば読むほど分からない箇所が出てきて、なかなか理解できません。 「西伯利出兵衛生史(続篇)第1巻(大正9年11月以降)」の目次を見ますと、派遣した師団は、第13師団、第11師団、第9師団、第8師団、第15師団、そして「薩哈嗹軍」となっています。 ただし、これらの師団が同時期に全てシベリアの地にいたわけではないですね。 大正7年、当初派遣したのは、第12師団、第3師団、第7師団ですから、2年間に全て入れ替わっています。 およそ1年間ごとに交替したのだそうです。 また、戦時編成の1個師団は約2万人だそうです。 この人数のおおまかな内訳が分かればよいのですが、今のところ不明です。 しかし、出兵期間を通しての最大兵員数は72400人で、この数字は短期間のものですから、 58600人を基準にして考えています。 「非戦闘員即チ衛生、輸送補給、通信等ノ勤務ニ従事スル者」ということなので、 衛生部員4836名 (内訳 衛生部員4688名+薬剤官・磨工長・磨工卒148名)の数は、期間・時期がどうであれ多いに参考になります。 「他人の褌で相撲をとる」という俗諺がありますが、まさに今の私がそうで、Why-j-people様のご回答だけを頼りにし、自分では何も調べずにいる状況です。 まだまだ、理解できそうになく、続々と疑問噴出で、纏めるのに時間が必要です。 とりあえず近況をお知らせしました。

関連するQ&A

  • 第一次大戦時の日本とヨーロッパ諸国の陸軍師団数

    第一次大戦当初、ヨーロッパ諸国に比べて陸軍師団数がかなり少なかったのではないでしょうか。またそうだとしたらなぜなんでしょうか。師団というよりも、兵員数といったほうがいいかもしれません。それが第2次大戦時には、日本は100を超える師団を作れたのはなぜなんでしょうか?

  • 太平洋戦争末期の師団長について

     太平洋戦争末期、日本は根こそぎ動員によって200近い師団を編成しました。ただ、兵器が圧倒的に不足していたため、ほとんどが戦闘能力を有していなかったことが知られています。  しかし、いかに兵器が無くても兵員は徴兵で引っ張ってこられるため、丸腰でも人数はそろえられるかもしれません。しかし、師団長はどうなのでしょう。師団長は普通中将であり、親補職です。戦争末期の日本には200人を超える現役中将がいたということなのでしょうか。また、いちいち親補式を行っていたのでしょうか。  200人も中将が必要となれば、陸大出身者以外の登用、少将クラスの特別昇進、さらに予備役編入されて長いロートルも引っ張ってこないと間に合わない気がしますが、そのあたりの実態について教えてください。なるべく具体例を教えていただけるとうれしいです。

  • 近衛兵とフィリッピンでの戦闘について教えてください。 妻の父は近衛兵で

    近衛兵とフィリッピンでの戦闘について教えてください。 妻の父は近衛兵でフィリッピンに出征して名誉の戦死をしたと聞いています。妻は65歳昭和20年1月生まれです。19年の3月に休暇で帰宅してすぐ出征しました。戦死の連絡はありましたが詳細は判りません。母も亡くなり当時のことを知っている人はおりません。せめて我々が元気なうちに現地を訪れ、花など手向けたいのですが何も分かりません。ネットで調べてみましたら近衛兵は外地に出兵していますが19年にフィリッピンに出兵したとの記述はありません。第一師団はフィリッピンで戦っていたのでそれに合流したのか、戦死した場所はどこなのか、またこれらのことを調べるのにはどこの役所に行けばいいのか。どうぞよろしくお教え下さい。 五十嵐拝

  • 本土における陸軍軍人軍属の死没者数

    厚生省援護局が、昭和39年に作成した「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数」によれば、 陸軍軍人軍属の死没者数は、日本本土(含周辺)で58,100人、沖縄諸島では67,900人となっています。 本土では地上戦は無かったはずですが、なぜ激戦地の沖縄に匹敵する死者が出たのか、分かりません。 軍需工場や師団の兵舎が空襲されたのですか。 一度に大量の犠牲者が出た例があれば教えて下さい。 よろしくお願いします。 大東亜戦争に於ける地域別兵員数及び戦没者概数 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/siryo/siryo16.html

  • 帝国海軍の軍縮。

    ネットの情報によれば、陸軍は、「三次にわたる軍備整理の結果、将兵約10万人(平時兵力の約3分の1)を削減した」また、「山梨・宇垣軍縮による陸軍省予算の削減の効果は、軍縮実施前と比較して1割減程度にとどまった」そうです。 海軍軍縮に関しては、艦艇の数やトン数を英米に比べて何割にするとかの話はよく聞きましたが、大正から昭和初期にかけて、海軍も兵員数や予算を削減したのでしょうか。 教えてください。 よろしくお願いいたします。

  • シベリア出兵について

    1918年から24年にかけての日本軍のシベリア出兵についての質問です。 日本はシベリアという広大な大地に7年もの間(第二次大戦より長いです)大軍を送り込み、東シベリアの広大な地域を占領していますが、なぜ 1 その戦いを記した資料が少ないのでしょうか。あったとしても世間に知られていないのでしょうか。 2 意味のない出兵だったとされているとはいえ、大規模かつ長期に渡るものだったと思います。それなのになぜ世界史における扱いが極端に小さいのでしょうか。 3 日露戦争や第二次世界大戦の戦史マニアは多いですが、戦史マニアにとってシベリア出兵は魅力がないのでしょうか。 4 日本軍は占領に際し、どういう兵器を使用したのでしょうか。また占領政策はどのようなものだったのでしょうか。 5 ロシアとの戦争において気をつけるべきことは冬対策だと思いますが、ナポレオンやヒトラーと違って日本軍は冬将軍にどう耐えていたのでしょうか。 わかるところだけで結構です。個人的には第二次日露戦争、もしくは第一次日ソ戦に位置付けられるべき大事件だと思うのですが。

  • アメリカの赤字削減について

    アメリカでは赤字を減らすために様々な政策が模索されたり採用されていますが、その中の一つで ・国防総省の人件費の削減 ・海軍の艦船の数を減らす という案があるそうです。 具体的には、「陸軍の兵員数を5万人ほど減らし、戦闘には関わらない支援要員を一般市民から構成する。」と、「艦船を40隻ほど減らす」 ということです。 これをしてしまうと、国の防御力や戦闘力が怠ってしまうと思うのですが、長期スパンで見たとき(約10年後)、$130Billionも削減できるそうです。 国民を守るために、防衛対策は必要だと思います。しかし赤字は大きな問題となっています。 赤字を減らすために何かを犠牲にしなければならないと考えた時、この政策に賛成でしょうか? ご意見を聞かせて欲しいです。 よろしくお願いします。

  • 艦隊が壊滅したのに海軍兵の数が増えてる件

    http://d.hatena.ne.jp/nyankosensee/20070708/1183879352  上のサイトに第二次大戦中の日本海軍兵員数が載っています。  それによると開戦時の昭和16年に31万人だったものが、終戦の昭和20年には169万人と5倍以上にまで激増しています。昭和20年なら連合艦隊は殆ど壊滅しているはずなのに・・・  本土決戦に向けての陸上兵力を増やしたいのなら、海軍陸戦隊でなく本職の陸軍の方を増やせば良いと思うのですが、なぜ乗る船もないのに海軍はこんなに兵員数を増やしたのでしょう?

  • 本野一郎の経歴

    「本野一郎」という人物の経歴について調べております が、以下のことしかわかりません。彼の経歴について詳細 をご教示くださいませ。 (これまで自分で調べることができたこと) *生没年月日不明(是非ご教示ください) *第18代寺内内閣において大正5年11月21日より大正7年4月23日 まで外相を務める。 *1918年3月にアメリカのシベリア出兵反対についての対日 覚え書きが通告されたとき、アメリカの反対を押して出兵決行を主張。 *1901(明治34)年から1906(明治39)年の時期に駐仏大使 *少なくとも1907年から1916年まで駐露大使で、日露協約結ぶ当事者 *子爵の爵位をもっている。 ************************* 彼のことについて詳細が載っている参考文献をご紹介いただければ助かります。 どうぞよろしくお願い申し上げます。

  • 支那事変中の装備増強

    日本陸軍が、大陸で常設師団、特設師団が多く戦場にいた時に、30代師団と第一次独立混成旅団が内地で編成されました。 この時に装備は、完璧にそろえられたのでしょうか? それだけの、生産能力があったのでしょうか? どんな兵器が、装備されたのでしょうか? 同時期に、関東軍の国境守備隊も配置されたのにです。 国境守備隊の装備兵器も、教えて下さい。 2年前の特設師団出征時には、一昔前の旧式兵器を倉庫から引っ張り出して、頭数だけ揃えた様な状態だったのに・・・。日露戦争時代兵器まで動員しているのにです。 戦史叢書シリーズは読みました。 防衛研究所行きは、お断り。 詳しい方、お願い致します。