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イエス運動について…

イエスが布教活動においてしてきた事をしりたいのです。 その運動に『共食』が含まれますよね。徴税人や罪人と一緒になって食事をしたり、癒したり。少ないパンを大勢の人々で食べたり。 そこから人々は何を得たのか、よく理解できません。イエスの言葉はどこか禅問答じみていて、勉強を初めて日が浅い自分には荷が重いです。 イエス運動の本質と併せて、何卒よろしくお願いします…。

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  • anaguma99
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回答No.3

当時のユダヤ社会においては、食事の儀礼的な意味は大きいものでした。 特にファリサイ派は、不浄な民と食事をともにすることを禁じていて、 その不浄な民が、徴税人であったり罪人であったり病人であったりしたわけです。 そこで、逆転的に食事を共にするという行為は、 「不浄な民」への救いであるともに 無意味な戒律とそれに無意識に従っている人々に対する 強い異議申し立てとなったことと思われます。

sou-atmosphere
質問者

お礼

ありがとうございました!ユダヤ社会への理解がなかったから巧く掴めなかったんですね。勉強になります。色々と焦っていたので、本当に助かりました。ユダヤに関する資料を探してみます!

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回答No.2

#1です。 誤字がありました。すいません。 間違い>また、協会に出向いて 訂正>また、教会へ出向いて

sou-atmosphere
質問者

お礼

大丈夫です、ありがとうございました。

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回答No.1

イエスの行いを理解するのなら、新約聖書を読むと良いでしょう。 また、協会に出向いて話を聞いてみるのも良いかもしれません。 イエスの本質は博愛主義だと私は思いますが、なにぶん文学書でしかそう言うことは読んだことがないので、専門家に怒られてしまうかもしれません。

参考URL:
http://www.cozoh.org/denmo/
sou-atmosphere
質問者

お礼

あ!そうか!教会に行くというのは考えていませんでした!ありがとうございます~。新約聖書を読んでもなかなか理解に苦しむのは、やっぱり自分のオツムがついていかないんでしょうか(泣) 私もイエスは博愛主義だと思っていたんですが、聖書を読んでいるとどうにも性格があまり宜しくな…(以下略)やはり、聖書の読み込は必要ですね。日曜に近くの教会に出張してみます。本当にありがとうございました。

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    こんにちは。迷える子羊です。暴れ羊です。 以前、深夜テンションで頭がカーッと熱くなり、以下のような宗教に対する攻撃を加えそうになりました。 以下その質問文です。 -------------------------------------------------------------------- 牧師先生に質問です。 まず、イエス様と神が教えのリソースの大本です。             ↓ その出来事を、その場で体験した人間が『当時の自分たちの言葉で』書き記しました。             ↓ イエス様がおそらく天に昇られた後、書き記した書物を訂正する本人がいないので、書き写しを繰り返して人々の間に広まりました。             ↓ ですが、当然多様な国に属する人々が理解するには、自前の言葉で理解する必要が出てきます。ですから、「翻訳」をしました。             ↓ そして神様の教えが素晴らしいと思う人は今も昔もたくさんいたことでしょう。ですから、「翻訳ミス」だけでなく、本来の神の教えを「誇張」して伝えた大バカ者がいるはずです。長い歴史の間で、一度もなかったと考えるのは現実的ではありません。             ↓ さらに教条を勝手にでっち上げ、偽典を作ったものもいます。そのうえ、今は亡き正典を勝手に「改ざん」して欠陥のある教典にしたものもあるはずです。             ↓ さらにここに拍車をかけるように、歪んで伝わった神の教えを究極至高のモノと大勘違いした当時の聖職者たちが、ニケ―ア公会議でイエスキリストを神とする「ことにした」ことは、ご存知の通りだと思います。              ここで突っ込みが入ります。 あるキリスト教徒の方に、ニケ―ア公会議のことについて教えていただいたことがありました。 説明曰く、「キリスト教を司る偉い方々がイエス様を神様だと判断したんだよ」といいます。 オイオイ、エライ奴というのは権力に首までどっぷりだろ。聖職者やっているからって、罪人でしかない、しかも聖書の原典に従って生きているわけでもない奴らが勝手に決めちゃダメだろ!! 別宗教の方に言わせれば、「そのほうが宗教としてやりやすかったんだろうね」とのこと。罪びとがやりそうなことです。 先に述べた「ニュアンスや言語性の違いによる翻訳ミス」や、「書写の繰り返しによる記述ミス」や、「聖書至上主義者による誇張」や、「異端者による教条の捏造」で、原始教会時代は様々な写本が流布していたそうですね。 その混沌に終止符を打つために、キリスト教の定義を定めた人がいます。 さて、ここで質問です。 「その定義、どこから来ました?」 神学だって、一介の罪びとたちが頭を突き合わせて勝手に「今伝わっている聖書」から「勝手に解釈したもの」でしょ? 聖書が本来どのような内容だったかも怪しいのに、「聖書に書かれていることは神のみ言葉だから完全無欠だ」なんて、笑止千万です。 そんなの、「神様やイエス様はこうあってほしい」という妄想じゃないですか。 オリジナルをどこまで追っても、一例をあげればせいぜい死海文書どまりです。それだって写本ですし、どうして完璧だなんて言えるのですか? そもそも西洋の歴史は、キリスト教が支配する世界から脱却するための歩みでした。 聖書原理主義者。彼ら、今でもテロ行為やって社会問題起こしてますよね? あと今までには見られなかった記述があったのではないかと噂される死海文書だって、バチカン大図書館の禁書庫に秘密裏に隔離されているって噂じゃないですか。あの市国の周りには、憶測とはいえ黒いゴシップが絶えないんですよ? カトリックが腐敗している以上、その総本山がどうかなんて、言わずとも知れたことですよね? それに、原始教会時代に焚書された写本の中に、正伝が混じっていないと本当に言えますか? たとえ焚書されるような内容だったとしても、それらの原典が本当に正伝ではないといえますか? であるならば、聖書やイスラエル民族史単体の視点で神のみ心にかなおうとするのは、いささか盲目的とは言えませんか? その愚昧さで、どれだけのものを踏みにじり続ければ気が済むのですか? いいですよね。身内から売国奴が出ようが戦犯者が出ようが思想犯が出ようが、悪魔にそそのかされたそいつと自分は関係ないって言い張れますものね? 何なら、キリスト教がもとで起きた災いを列挙しましょうか? キリスト教がもとで、何回宗教戦争が起きて人が死にましたか? 本当に隣人愛を実行するなら、神道の「自分が一番だけど、その分リーダーとしてボク頑張る!ほかのみんなも一緒にがんばろ!」という謙虚さを見習ったらどうですか? どうもその辺りが傲慢だと思うのです。 未だに教会は、仏教や中国哲学を邪で、かつ宗教と勘違いしてますものね? 何が偶像崇拝に傾倒している愚か者ですか。思い上がりも甚だしい。 こんな調子じゃ、神の恵みの初穂に預かりたくても信じられないじゃないですか。 「原罪だから仕方ない」でごまかさず、きちんとお答えください。 ------------------------------------------ 見るに堪えなくてすみません……。 クリスチャンにはなりたいのですが、教会への不信感と教会史の血なまぐささと、聖書に対して硬直的な向き合い方をしている福音主義の方が嫌で、どうしても信じられないんです。 あと、聖書の歴史的文献としての信ぴょう性が、どう理性的に考えてもどれも怪しいものばかりで、素直に受け入れたくないのです。 この葛藤を乗り越えるにはどうしたらいいですか?

  • 現代の偽預言者とは?あてはまるのは誰だと思います

    アポカリプス──文字通り真実の啓示の時代──が、預言通りに到来しました。 そしてその時代が到来すると、大勢の偽預言者たちが現れると云いわれています。 偽預言者とは、新聞などに溢れている占星図などを書く人たちのことでり、そして古書、つまり古代の未開人のためにお与えになったメッセージを、 一字一句、後生大事に踏襲し、科学の恩恵を拒否する人たちのことです。 そのような偽預言者たちは、心の狭い原始人たちが古代から恐る恐る複写してきた記録を信じることを好み、空から飛来したというだけで神々と思い込んだ人々の言葉に耳を傾けます。 空から飛来するすべてのものに、今やもうバカみたいに 跪くことはない人たちのために与えられたメッセージを 信じる代わりに、偽預言者たちは古代の記録を信じているのです。 現代の人たちは宇宙を理解しようとしており、大人として位置づけることができます。 しかし、周囲を見回してみて下さい。狂信的で蒙昧主義的な多くの 宗教・宗派があるでしょう。 真理に飢えた感じやすい若者たちにとっては、それらは魅惑的な存在です。 ある哲学者が言っています。「イエスは道を示すためにおいでになったが、 人々はイエスの指先だけを見つめていた」。この言葉の意味をよく考えてみましょう。 重要なのはメッセンジャーではなく、メッセージを送った人であり、メ ッセージそのものなのです。 東洋の宗派に惹かれて道を踏み誤ってはなりません。真理は、ヒマラヤの頂上に存在するのでもなければ、ペルーやその他の場所に存在するのでもなく、 あなた自身の中にこそ存在するのです。 しかし、異国的なものが好きで、旅行をしたいと思うのであれば、それら遠くの国々のすべてに行って見るのもよいでしょう。 そうすれば無駄に時間を費いやしたことや、求めていたものがあなた自身の中に在あったことを、行ったあとで理解することができるでしょう。 自分自身の内面を旅行することです。そうしないとあなたは、自身の中に真 理を見いだそうとしている他人を見つめるだけで真理を発見できると考えてい る、ただの旅行者にすぎなくなってしまいます。 その人たちは恐らく真理を発見できるでしょうが、その人たちを見つめているだけの人は、真理を見いだせ ないのです。 それに、自分自身の内面を旅行するだけなら、飛行機に乗る必要もありません。 『英知と精神の覚醒の面』では、東洋は西洋に教えるものを何ひとつ持っていません。 むしろ、その反対です。〝聖なる牛〟の群れが通り過ぎるのを見ながら餓死する人々から、英知を見いだすことがどうしてあり得ましょうか? その逆で、原始的で多くの人命を奪う信仰に閉じ込められた人々を、その精神と科学とで助け出すのは西洋です。 西洋が、第三世界の人々と同じような問題に直面せずに済んだのは偶然ではありません。 精神が支配しているところには、肉体の飢えは存在しないのです。 蒙昧主義が支配しているところでは、肉体は生き続けることができません。 原始的な人々が世界の飢餓の問題を解決し、飢えた人々に食物を与えることが できるでしょうか? 現状では、彼らは自分たちの食物を入手するだけで精一 杯なのです。そんなところに、英知を見いだすことが期待できるでしょうか? 地球上の人類はすべて、最初は同じチャンスを与えられていました。 そして、 ある人たちは問題を解決して必要以上のものを作り出しましたが、ある人たち は、生き残るための手段さえも見いだせてはいないのです。 あなたの見解では、 どちらがどちらを助けることができると考えますか? 西洋の人々も、広い心を持つようになるには、まだ遠い道を歩まなければな りませんが、東洋人は、西洋人の成し得たことの10分の 1もまだ、成し遂げてはいないません。