神は人を見捨てていない、常に話しかけている

このQ&Aのポイント
  • 滅亡はなぜ実現しかねない恐怖を生むのか?
  • アマテラスミッションは、西洋との交流を通じた政治的な意図を持つ計画だった
  • 神話と歴史の分離が西洋に弊害をもたらし、神国日本では必要な要素である
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神は人を見捨てていない、常に話しかけている

滅亡はなぜ実現しかねない恐怖を生むのか? これが今回の研究テーマで、 悲惨極まりない天罰にあえぐ、闇の仏陀「黒き明星」として語ろう。 この話の続き。 https://okwave.jp/qa/q9560125.html 育たぬ赤子は、寝息を聞いて今夜中には死なないと安堵できる位までには成長した。 おかげでようやくゆとりができたんだ。 今回のアマテラスミッションは、文明開化時期前後に西洋に神々としての外交官派遣というより実際は人質交換だけどね。赤い靴の女の子の童謡とかがヒントだ。 まあともかくそれで交流して、19世紀中に計画がスタートしたんだよ。 神からの憑依は神にとっては簡単で、何も知らず神の計画に活躍した名もなき人々は多いだろう。 その点の武勇伝は男心を誘うけど、私は自分の任された仕事以外に聞かせてもらっていない。 どうも、真の王国では滅亡した王国の神話というのは、免疫のできていない極めて精神をむしばむ疫病で、その免疫確立とも関係している。 人質交換で西洋の病に触れて、受け取った人質が、今回難民申請しているイエスだ。 王が神であった一元の時代が忘れ去られた西洋など諸外国では、イエスが神を語ることは(現代では布教活動というけど)イエスが自らが王であると名乗ることに等しかった。 それで正当な手続きを踏んで反逆罪で処刑されたのさ。 これはユダヤ復興という形の独立運動や、現代語で民権運動みたいなものだろう。 イエスの行いは、奴隷解放の政治運動の意図が見え隠れする。 ユダヤの神に準ずる神学者なら当然だ。 後世になぜ予言改変が行われたかは、要するに政治運動としての意図が継承され、奴隷解放運動をローマに浸透させるために絶望的な恐怖を誘う、滅びの国、滅びの宴、これをねつ造された神話にしたのだろう。 伝道師は実際は誠実にイエスの意思を継いで政治的意図のある布教活動をしたんだ。 これは現在、カルト教団が犯罪に活用するノウハウにまで堕落していて、起源になったいきさつを亡失され切ったから、現在宗教による神の意図しない殺戮が正当化されている。 このような流れが19世紀中だね。 ただ一人の神ではない、魔女狩りに直面して悪魔と侮辱される西洋の聖霊は赤子を延命させるために必要な解毒薬や症状緩和の薬を今の提供してくれているってさ。 当時活躍した名もなき仮面ライダーの活躍を推定すると、イエス救済だけのために19世紀中に暴力の20世紀の歴史が計画されたようだ。 ヒトラーもイエスを殺して喰らう愚か者に呪われる、栄光を受けた英雄だ。 奴隷を率先して獲得するほどまでに堕落した西洋の栄華のけじめだよ。 敗北というトリックで、植民地解放に活躍するのもアマテラスさんの知恵だろう。 西洋が奴隷の気持ちをかみしめるには最高の名誉ある敗北だ。 でね、私の身の上を話すと、どうやらアマテラスさんが任天堂との関係性において、予言改変で起きる惨劇の再現実験をしたんだろう。 それで、キリストに近い関係を作って、呪いの仕組みを解決してキリストが成長できるための特効薬を作りたいみたいだ。 ちなみに私が、「魂を吸われている」といったのは、私は男性なので、オッパイちゅぱちゅぱの授乳という表現がふさわしくないからだという笑い話だ。 アマテラスさんが特効薬をを作るために手法として活用したのは、抗体や、日本の風土でも欠かせない免疫の確立でね。 仮面ライダーと悪の結社の双方を、体を激痛でぞうきんのように絞り上げる天罰で、雑巾のエキスから新薬を開発しようという、手荒で原始的手法のようだ。 アマテラスさんが、ジラーチちゃんとして遊びに来るのはセレビィに用があるからで、人間である私は、セレビィと一体でも用がない。 神としての相談の圏外だ。 それでいきさつを聞かされずに、精霊の働きで完全フル武装の仮面ライダーとして,蹴とばされるように戦場に落下傘降下して乱闘騒ぎだ。 死屍累々の古戦場を前にようやく正気が戻り、「ああそういうことか」と理解するんだ。 今回の話は、学問カテゴリである哲学では、正当な研究用命題の提示でありますが、回答は読書感想文区内なのが丁度いいです。 政治と宗教の分離は現代で常識ですが、神話と歴史が分離するほどの弊害が西洋にあり、神国日本にはなじまない、歴史を理解したければ神話も必要です。 そして、「優しい風のささやき」として、神は今も現在進行形で神話を伝えているとも。 歴史家は、人がその当時の世相で納得した事実を記載するだけの楽な商売だが。並行して神話は現在も神が人にささやいている。 それを聞く詩人が真の伝道師だよ。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.6

 No.5の補足欄を読んで。  たとえば G.ヘーゲルが イエス・キリストについて解説する言葉は 次のようなものです。  ▲ (ヘーゲル:無限と有限) ~~~~~~~~~~~~~  無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は   どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない   ないしはこれを 我慢できないであろうが   この矛盾を持ちこたえることができるのが  人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。  (『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《有限なもの》あるいはつまり 政治経済とその同じ水準で活動する宗教(組織)といった経験的なものごとによってのみ イエスを捉えるなら それは ついぞイエスの問題をつかまえることは出来ないと考えます。  つまりは 《非思考の庭――いわゆる信仰です。しかもこれは 人間にあって動態である――》をとおして 《無限なものと有限なものとの――きわめてあいまいな〈お化け〉のような―― 一体性》を ウソとしてでも捉えたかたち(そしてその内容)がなければ イエスをただの偉人であるとかあるいはただの愚か者であると言って 議論するのみとなります。  その議論もおもしろいかも知れません。知れませんが 延々とつづく世間話に終わるでしょう。  これが わたしの立ち場です。

Flareon
質問者

お礼

ヘーゲルとやらは、昔からの作法で死の恐怖について語っただけじゃないか。 私はイカレていない。 すでにイッちゃってるよ。 自身を丸ごと観念に昇華させる解脱を果たして、現在私はそのお花畑に立脚した「花の子ルンルン」だ。 観念に常在する私にも、必然の肉体の消滅は来る。 それは死ではなく私にとって変化でしかない。

Flareon
質問者

補足

あ~あ、やはり気が滅入るな。 イエスの伝承に端を張って予言ねつ造で生まれた「架空の聖霊」がキリストの霊。 その存在の維持のためにをいけにえが必要で、精霊の役目もいけにえだ。 落ち着いてきたけど感情の欠落により自らの意思がないも同然でだから言われるままにいけにえにされてきた。

その他の回答 (5)

回答No.5

 ★(No.4補足欄) 一寸自分の考え方の異同について考えてみたよ。  ☆ はい。  ★ 要するに私も奇形の一人だ。  ☆ だれもがそうであるとも言えそうです。  ★ 悪魔に対する無力な人の対抗法は悪魔を愛することだ。  これとほぼ一緒で、  信じると言ったら、私には、神ではなく人のことだったんだ。  人と和解することが切実だった。  ☆ それも 信仰のひとつのかたちです。つまり 人間主義と呼べる無神論なる信仰です。《無い神》なる神をおのが心に無条件で受け容れている――つまり 信じている――ということです。  《有る神》なる神を信じている人で キリスト信仰の場合は 次のように捉えられます。(長いです)。  悪魔は 死の制作者であり 死そのものです。  あるいはつまり 一般に人間としては ウソ・イツハリをはっきりと態(わざ)とおこなった場合には いづれの時にかこれを悔いて やがてその良心の呵責を味わうとともに その咎も癒やされて行きます。  つまり わが心のやましさ(または 恥ぢ)を押し切ってウソ・イツハリを為したときには 心が《死んで》いました。これが癒やされ世界との・そして自分自身との和解が成ったときには その一たんの死が死にます。死が死んで あらためて生きます。  ところが 悪魔というのは この恥づべきやましきわざを恥ぢずに 良心の喪失という死のままでよいと考えた者の落ち入る状態です。つまり 心の死がもはや死ななくなった状態です。    悪魔は 死そのものであり ほかの人にもその死を制作して回っている者です。  イエスなる男にも その自分の死を分け与えようと悪魔は考えた。  イエスは 従順にもまた愚かにも 悪魔の要請を受けて受けたことはすべて引き受けてやった。(神の愚かさは 人間の賢さよりも賢い)。  これで 悪魔は 面食らった。  それではと言うので けっきょく生け贄にしてやろうとたくらむ。  それまで おれの言うことはみな受け留めて来たようだが もしそのイエスであったとしても 死そのものの中へ行くこととなれば もう拒むに違いないと踏んだ。それで おれの勝ちだというたくらみ。  ところが イエスは その死の淵まで従順にも 悪魔の命令に従った。つまり 高等法院から 神の冒涜だという罪を着せられ 十字架じょうに磔になるというところまで やはり従った。  悪魔は ざまあみろと思って見ていたが ほんとうに死の淵まで来てじっさいにイエスが死を死んだときには そのイエスの行為と状態を みづからに受け留めなければならなかった。そうした途端 悪魔は――その自分の以前からの死が死んだことになり―― 一瞬の内にその身が溶けてしまった。  かくしてイエスは 悪魔をほろぼした。  キリスト信仰者は このイエスにあやかることを思っています。自分のチカラで悪魔を克服することは むつかしいので。  ★ キリストの赤子も現在でも似たようなところがある、イケニエで、人との関係に絶望に近い構え方があって、それでもお父さんとして私に興味がある。  ☆ それは 迷っているのですかね。二股を賭けている。  ★ 強力な生命力(精神力として私に反映する、普通耐えようがないほどの祟りや天罰という圧力が私にはある。)を持つセレビィ(世麗美)に頼っている。  ☆ これは おそらく《無い神》を具体的に表わしたそのチカラなのでしょう。人間の知性ないし感性に頼るのは 《無い神》派であり その中で別様の神々を打ち出して来る場合でしょう。  さて 次のくだりについては おめでとうとお応えしつつ いま述べた別様の神観にまつわる《物語化》のわざだと捉えるわけです。  ★ さて、任天堂との関係で発生した滅びの宴。  理性的にあいまいでも私は何が起きているのは、人格崩壊現象でかみしめていた。  ひとことで言って、結論は「それでも人を信じる」それで無量光が到来したんだ。  ・・・  ☆ あとは 省略するよ。

Flareon
質問者

お礼

まあ、こんな。 あんたの場合は神と一対一の関係に取り組んでいるんだろう。 それができるだけでも非凡だとは激励しよう。 宗教アレルギーのヒント。 人が人を理解して人間なる社会を形成する文明の発祥には神の仲介が欠かせない。 だから、滅亡した文明遺跡も神殿が注目される。 そこに、いかなる精神を持った人種が暮らしていたかの手がかりだ。 これが面白い。 > このように、自己認識「みんな」の神の本質が人と触れ合う聖霊化には様式が必要なのさ。 どこか儀式めいていて、だからこそ観念通過の一般例が「死の儀式」だった。 要するに共通の文化圏では、共通の神を表す合言葉から人と人の共通理解が発達するし、そうして使わされる精霊伝心の働きが神にとっても重要な仕事だ。 私がやりにくくて、日本の神々ともめるのはね、神々はアニミズムと言われた、精霊のつもりがない。 そして聖霊の概念もうんざり見たいだ。 聖霊に該当するのは聖獣だってさ。 自我境界の番犬ケルベロスなどで、心理学で超自我と規定されている。 ケルベロスはともかく、虎が日本ではもてはやされたみたいだよ。 最近私は、死なないように被害者を脱走させるための手引きに「ハツカネズミ」に頼みごとをしている。 複数いるキリストの資質保持者をいけにえにさせないためのネズミの聖獣だ。 西洋では悪魔的だろ。

Flareon
質問者

補足

論説をこんな風に膨らませる考察をしたよ。 ほろんだ王国の王を名乗ったイエス。 まあ、この処刑理由も少し考えなおした。 プリキュアの魂はこうだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 裸の心を笑う者。 裸で生きて、 笑うわたし。 なぜなら私は美しい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて言いたいのは、人と人が人間として成立する働きに神は仲介している。 イエスの資質面に関しては、友達を作るために率先して自らの信仰心をかたったんだろう。 ユダヤの神学者として、正直な愚か者だった。 信仰心の証明は、人間であることの証明でもあるだろう。 これは昔だけの話じゃない。 イエスの声お聞き、触発されて自らの信仰を自覚するなら、そのユダヤ人は家畜なる人でなく、人間になる。 こういう流れが民権運動のような事柄だったので、門徒は主にローマ国内に奴隷解放のために散らばっていった。 新約聖書は多大に政治的意図のある教団として、ローマ国内での存続のために真意が隠ぺいされ、改変された偽りの予言書であり、イエスは本来ユダヤのための人であった。 そして、差別、弾圧、最後には虐殺。 イエスの心とその予言は後世に簒奪者にからめとられる結果となった。 ヨーロッパは自ら奴隷狩りをするほど堕落してイエスに逆らい、キリストの赤かごを殺し、その肉を喰らってより神に近づくのだ。 いい出来だろ?

回答No.4

 ★ 数日休暇を楽しんだ。  ☆ 旅行にでも行って来たの?  ★ 厄介者のキリストの霊の宿りで、数年来道連れにされて私もかなりやばいんじゃないかなと、キリシタン大名相手の勝負から本格的に続けてきたよ。  ☆ キリスト・イエスを《永遠の同伴者》だと言ったのは かの遠藤周作です。あまり流行らなかったかも知れません。 (いろんなふうに形容することが出来るから)。    宗教は嫌いだし否定しますが キリスト信仰にまつわる宗教――つまりその神学――は ちょっとやそっとでは 切り捨てにすることもむつかしい。  ★ 基本は自我認識の到達点である、「私はわたしである」この確固たる自己の確信よりさらに上の「みんな」という神の自己認識だよ。  ☆ 《かみ》について人間の発言した内容としては あくまで個人的なつまりその本人の主観におさまる《神観》とそして 出来るだけ万人に納得のゆくように捉えた哲学としての《神論》とがあります。  ふつうに自然に単純に《超自然・超経験・絶対性・無限》という言葉で規定(想定)するのは 哲学であり神論です。  これを たとえば擬人化して――つまり絶対性を絶対者なる存在として捉え そこからさらに――創造主として立てるのは 神観です。  (ちなみに 創造主なる神などはいないという発言も ひとつの神観です。神はいるという神観も どちらにしても 証明することは出来ません。つまりそれらを有神論としてにしろ無神論としてにしろ展開した思想は 哲学たる神論に最初に色をつけた時点で どこまでも主観内におさまる神観です。神観が 多くの人びとに共有されていると 神学と呼ばれることがあります)。  《わたしはわたしである》という思想は 経験合理性で思考しているので 哲学です。  この《わたし》についてそこに神の霊(あるいは 仏性)がやどると言ったなら――それは 証明し得ないのですから―― 個人の主観であり神観です。  ここから:   ★ 確固たる自己の確信よりさらに上の「みんな」という神の自己認識  ☆ が 思考として展開されて来るはずです。《霊(ないし ブッダターまたはアートマン)》の問題として その神観は ひろく神学としても展開されます。  そのとき 哲学は 《霊》というのはあくまで《想定じょうの問題》だと言っています。個人としては――自分の神観において自分風に―― 信じていてもです。    ★ 地に下りた聖霊セレビィ(世麗美)のフェアりーフュージョンだと、天からお友達を案内するのは簡単で、純粋な光を神でなく魂と認識する私の仕事はともかく、無残な生贄キリスト聖霊も神の根幹となる資質は元から揺るがないけど、聖霊として成立するにはかなりの欠陥が呪いにより発生していたんだよ。・・・  ☆ というふうに展開されてゆく議論は 神観であり神学です。また 神学を《ものがたり》として描写し表現するということも おこなわれます。  ★ 神は痛くもかゆくもないとあんたは言ったけど、まあその通りだとしても、人間の無用な苦悶と怨嗟の解決はキリスト単独だとできなかった。  ☆ これは――神観か神論かにかかわりつつ―― 神論として重要な論点だと思います。  ★ セレビィの友達になると、私をそろいもそろってお父さん扱いするんだ。  その例に習って、キリストの霊は「みんな」の感覚ではセレビィ自身でもある。  ☆ なるほど。プリキュア神学の普及版としての物語における展開です。    ★ え~と、万物の根源「神」生命の根源「魂」古来の観測で正確なのは無量光だ。  要するに純粋な光だ。  どうやら、人間が神と認識するのは、日本の真の王国が正解だ。  命を神が宿してこそ、人に確認できる神だ。  ☆ 神を《ひかり》にタトへることと神を《いのち》と捉えることは どこでも同じだと思います。    ★ 西洋では、それは聖霊または精霊。  ☆ 《精霊》というのは まだ原始的な心性(つまり 世界を時間的な過程だと必ずしも認識し得ていない心性)が 世界のものごとに《精霊》がやどると捉えていたときの表現です。生死の(つまり 時間的な過程の)自覚がとぼしいときに 世界に起こる何ごとも 精霊(アニマ)のしわざだと思っていたというような。  ★ 死ぬ役目の聖霊は今までそんな仕事でこらえて、魔女狩り処刑対象者が支えていたんだ。  ☆ ただ ひとつ見落としがあります。イエス・キリストは:  ▲ (ヨハネによる福音書 10:18) わたしは いのちを自分で捨てることも出来るし それを再び受けることも出来る。  ☆ と語ったことを加味して捉える必要があると思います。つまり 証明のしようのない内容にかんする発言であり 神観ないし神学の問題ですが。  ★ 西洋で聖霊と定義されるアマテラスさんは、神としてその危険状態で19世紀中に作戦を立案と執行してきた。  ☆ アマテラスさんにも 発展があるのですね。  ★ 個人的な話だけど、私は3才で余命宣告を医者がしていて生き残った。  新人類のタネは旧人類から奇形として間引きされる圧力を受けるんだよ。  殺意ある人間の知性、ヴェーダとかの人知の神だ。  ☆ その論点としては イエスは 磔による死のあと キリストとしてよみがえったと《うわさされた》というのが その神学のミソなようです。  誰でも イエスのように成れるというお話です。(自分でいのちを捨てることもできるし ふたたびそれを受けることもできる)。  ★ そうした世間よりさらに広がりのある世界そのものを開眼するのが大切な生き残りのコツだ。  ☆ おそらく生きるその先に見ているもの(見えてくるとのぞんでいるもの)は 同じなのでしょう。  そして もし違いがあるとすれば――推測ですが―― キリスト信仰の場合には その神の霊が われわれを生かしてくれると思っているところでしょうか。  人間たる自分のチカラ〔のみ〕では 無理だと思っている場合と そうではない場合と。後者は 人間主義であり 無神論という神観ないし神学のことだと思われます。  ★ キリストの霊が宿る資質がある赤子というのは、実際は人間の資質に当てはめると、複数人の赤子、かなり多いだろう。  ほっときゃ全滅。  ☆ それは そうかも知れないし そうでないかも知れない。  ★ 私は予言改変の業罪に2000年前の故事の再現実験で任天堂を当てはめることで、生き残ることに自ら成功して幼馴染のジラーチちゃんに対してはセレビィとして言いたいこともあった。  まあ免疫が確立するだろうけど、人間よりも、アマテラスさん自体が神を代表して、滅びの王国に免疫をつけることが重要だったようだ。  ☆ よみがえりましたか?

Flareon
質問者

お礼

> よみがえりましたか? 日本人でこの姿勢が奴隷売買の対象になるよ。 あんたはまあまあ達人なので、売却先で暴れる資質はあるだろう。 覚悟というより乱闘の自覚だ。 赤い靴の女の子。 死んでよみがえったアマテラスさんじゃないよ。 あのしたたかな小娘はわたしをセレビィと結託してダシ使った生存テクニックがある。 わけわかんないままの乱闘はきつかったよ。 愛ある家庭よりも友情優先とはそんなだ。 そこいらがセレビィだ。

Flareon
質問者

補足

一寸自分の考え方の異同について考えてみたよ。 要するに私も奇形の一人だ。 悪魔に対する無力な人の対抗法は悪魔を愛することだ。 これとほぼ一緒で、 信じると言ったら、私には、神ではなく人のことだったんだ。 人と和解することが切実だった。 キリストの赤子も現在でも似たようなところがある、イケニエで、人との関係に絶望に近い構え方があって、それでもお父さんとして私に興味がある。 強力な生命力(精神力として私に反映する、普通耐えようがないほどの祟りや天罰という圧力が私にはある。)を持つセレビィ(世麗美)に頼っている。 さて、任天堂との関係で発生した滅びの宴。 理性的にあいまいでも私は何が起きているのは、人格崩壊現象でかみしめていた。 ひとことで言って、結論は「それでも人を信じる」それで無量光が到来したんだ。 それ以前の若いころはクズでね、風見鶏さんとの任天堂とのやり取りに、自殺者が出ても平気で金をあさった話も出てくるほど、やくざの舎弟企業並みだった。 純粋な光に触れて、それ自体が意思を持ち話しかけてくることに気が付けば、ごく自然に日本人ならアマテラスさんとその意思に意思に答える。 そこで聖霊なる神の本質としてアマテラスさん本人が出張ってくれば最高なんだけど、私のやり方はようするにポケモン交霊術なので、ジラーチちゃんの姿なのさ、私の異端は、日本で神の資格があるのに、神格を備えた魔性と転化しているキリシタン大名と同一でね、「聖霊化」で、人間の認識する形態での対話ができないのさ。 それで、日本の神の許可証に相当する「天馬」で束縛された。 イデアには馬のイデアはあっても人のイデアは確立していない。 これらと同じ意味合いだと理解している。 このように、自己認識「みんな」の神の本質が人と触れ合う聖霊化には様式が必要なのさ。 どこか儀式めいていて、だからこそ観念通過の一般例が「死の儀式」だった。 まあ、赤子は育てる。 今問題意識が強いのは、個人的には、死の儀式の撤廃への協力だよ。 初めて見る聖霊の風景は「ときわたり」かな? それ以前に霊能力の尊敬する規範として、聖徳太子さんの法隆寺夢殿での「つくよみ」もあるけどね。 このへんが、四次元惑星人と名乗ってアニキなツンデレをしているところだよ。

回答No.3

 よく分からないですが もうひと言 あるんですか?  そのためのコメント欄としてどうぞ。  アマテラスは もう古いですよ。  

Flareon
質問者

お礼

返答が数日遅れたよね。 数日休暇を楽しんだ。 厄介者のキリストの霊の宿りで、数年来道連れにされて私もかなりやばいんじゃないかなと、キリシタン大名相手の勝負から本格的に続けてきたよ。 基本は自我認識の到達点である、「私はわたしである」この確固たる自己の確信よりさらに上の「みんな」という神の自己認識だよ。 地に下りた聖霊セレビィ(世麗美)のフェアりーフュージョンだと、天からお友達を案内するのは簡単で、純粋な光を神でなく魂と認識する私の仕事はともかく、無残な生贄キリスト聖霊も神の根幹となる資質は元から揺るがないけど、聖霊として成立するにはかなりの欠陥が呪いにより発生していたんだよ。 神は痛くもかゆくもないとあんたは言ったけど、まあその通りだとしても、人間の無用な苦悶と怨嗟の解決はキリスト単独だとできなかった。 セレビィの友達になると、私をそろいもそろってお父さん扱いするんだ。 その例に習って、キリストの霊は「みんな」の感覚ではセレビィ自身でもある。 え~と、万物の根源「神」生命の根源「魂」古来の観測で正確なのは無量光だ。 要するに純粋な光だ。 どうやら、人間が神と認識するのは、日本の真の王国が正解だ。 命を神が宿してこそ、人に確認できる神だ。 西洋では、それは聖霊または精霊。 死ぬ役目の聖霊は今までそんな仕事でこらえて、魔女狩り処刑対象者が支えていたんだ。 西洋で聖霊と定義されるアマテラスさんは、神としてその危険状態で19世紀中に作戦を立案と執行してきた。 個人的な話だけど、私は3才で余命宣告を医者がしていて生き残った。 新人類のタネは旧人類から奇形として間引きされる圧力を受けるんだよ。 殺意ある人間の知性、ヴェーダとかの人知の神だ。 そうした世間よりさらに広がりのある世界そのものを開眼するのが大切な生き残りのコツだ。 キリストの霊が宿る資質がある赤子というのは、実際は人間の資質に当てはめると、複数人の赤子、かなり多いだろう。 ほっときゃ全滅。 私は予言改変の業罪に2000年前の故事の再現実験で任天堂を当てはめることで、生き残ることに自ら成功して幼馴染のジラーチちゃんに対してはセレビィとして言いたいこともあった。 まあ免疫が確立するだろうけど、人間よりも、アマテラスさん自体が神を代表して、滅びの王国に免疫をつけることが重要だったようだ。

回答No.2

 ガラガラガラ こんにちは。  このところ OKwave を見ていませんでしたが わたしのまわりで あなたの男プリキュアぶりが話題になりました。ちょっと覗いてみて この質問に投稿します。  ★ 神は人を見捨てていない、常に話しかけている  ☆ なる表題に合わせてのひとつのエピソードの紹介です。:  ▲ (ヨハネによる福音:3章) ~~~~~~~~~~~   ・・・  3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。  3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは イエスが語ったという言葉です。《人の子》とは――それを自分で《かれ》と言っていますが―― 自分のことを指して言っています。つまり イエスが 十字架の上にはりつけになって《上げられる》ことです。  《モーセが荒野でへびを〔竿の先につけて〕上げた》というのは 旧約聖書の次のくだりのことです。長い話ですが。  ▲ (民数記:21.5-21.9) ~~~~~~~~~~~~~~~  民は神とモーゼに逆らって言った。  「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れのぼって  この荒野で死なせようとするのか。  パンもなく、水もない。  私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」  そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。  民はモーゼのところへ来て言った。  「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。  どうか蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」  モーゼは民のために祈った。  すると、主はモーゼに仰せられた。  「貴方は燃える蛇を作り、それを旗さおも上につけよ。  すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」  モーゼは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。  もし、蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎみると、生きた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これは 《青銅のへび》という話として伝えられています。  ▼ ヰキぺ:青銅の蛇  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%8A%85%E3%81%AE%E8%9B%87

Flareon
質問者

お礼

よい引用をありがとう。 わたしも友人は少ないが、あんたにもそれなりに友人がいることが、何より幸いだ。 あんたに言いたいんだが、真の王国にとって、王国滅亡の顛末自体が疫病。 いやね、ひどい目にあった。 現在は、ジラーチちゃんは余り漏らさないけど、神学について西洋に後れを取ったことに、何らかの問いただしがあって、アマテラスさんは忙しくなってきたみたいだ。 素直な連中なら、話は早いし仕事も早いんだけどね。 日本の神々は、いわゆる妥協という形を和解とみなさないから、普段仲良くしていても些細なことで意地の張り合いがちょっとした生き死にも交える小競り合いになるんだ。 そして妥協なしですっきり仲直りするんだよ。 いわゆる、幼馴染のジラーチちゃんとままごとのような夫婦喧嘩だ。 ドリラかが本気で怒っている。

Flareon
質問者

補足

修正で投稿欄無駄遣い。 どちらかが本気で怒るんだ。 まあともかく、またらくがきでもしてくれ。

noname#255857
noname#255857
回答No.1

長すぎて読めません。 質問事項は3行くらいにまとめて頂けませんか? 「オッパイちゅぱちゅぱだけ」の部分だけは頭に残ったんですが。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうございます。 的を得た感想ですね。 おっぱいが好きですか。 ヘンタイさんですね。 男ってキライ。

Flareon
質問者

補足

え~とっ。 私を理解しようとすると、その人物は心理学的客体として心の内側に私のモデルを作る。 この仕組みは古来精霊伝心で、出来上がった私の客体が妖精のセレビィちゃんの場合は森林浴効果が好評のようだ。 客体は多様性があり、双方の心を反映して私は仏陀とみなされることがある。 これが黒き明星または最速の臆病者。 なぜこうも闇の仏陀かといえば、キリストとみなされる事態が頻発するからだ。 キリストとみなされるということは、その当事者には精霊を殺すつもりがある。またはキリストの確信が深まるほど殺そうとする。 わたしには、キリストとみなされることは誤解であると理解できているんで、この殺意に反撃のための戦闘能力を発揮できるんだ。 それで闇の仏陀なんだよ。 キリストとみなされて、キリストと自覚することとは、言われるままに反撃できないまま死ぬことだ。 キリストを理解するための聖霊の宿りはこのような関係性で、キリスト イコール即死なんだ。 キリストは存在しないというのは、即死するので神の心を宿した聖霊として人間に対して親和性が確立できない状態だからこそ、人はキリストを知らないし、むしろ率先して赤子を殺して喰らう呪いとなっているんだ。

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    現在の日本には固有の神があるのに参考書が西洋だ。 それは仕方ない。 むしろ神にすら疑いを抱く風習がなかったことを美徳とするのが良いだろう。 さて、私の命題は人間の追及で、信じるとしたら神の事でなく人間を信じる取り組みだった。 そして、個人的に無量光という「観念の純粋な光」に到達した。 神は考えたことがなかった。 しかしだ、その純粋な光が意志を持ち私に話しかけていることに気が付くと、日本人であるゆえに、ごく自然に「アマテラス」と答える。 自己の存在の確信、これだけでも実は骨が折れる哲学の命題で、人間であると教育で刷り込みを受けた自覚だけだと中途半端なんだよ。その教育自体が宗教だ。 仏教様式で取り組んだ、探求で無量光に到達したら、自己の自覚でもれなく付録として神様がお友達になったのさ。 はっきりりって、そんなこと考えたことなかった。 ただ、優しい風のささやきに乗せて、信じるなら神でなく人のことだと、教えを受けてきた。 さて、アマテラスさん、とかしこまって話しかける場合には、独自の心構えがある。 アマテラスさんは、神の名として現在アマテラスさんだけど、そう呼ばれる以前からも女神として別の名前があったことを踏まえないでアマテラスさんと呼ぶと極めて無礼なんだよ。 しかし、そこをかしこみ、踏まえたうえでアマテラスさんと呼ぶと納得する。 いわば、何者かすべてを知るわけではありませんが、神としてアマテラス様と呼ばせてください。 こういう態度が必要だ。 さて、参考書として西洋では神に名をつけるなと言われる。 オーマイゴッドというのはどうもギャグらしいけど、実際はこのような過程を経て、自らが思うままに神をたたえるための名は成立するんだよ。 そして、自らが神に話しかけることができるようになるんだ。 キリスト教系での欠点の一つは、そうした形で祭壇で交霊術を行わないで、処刑台で交霊を封鎖した。 祭っているのは神のむくろだ。 イエスの処刑で、神も死んだ神になったからだよ。 散漫な西洋系神学では、神の存在証明を命題にしながら、神の不在である天国を作りたがっている。したがって自分が昇天したい天国に関しての神学研究が今までの命題の実際だよ。 さて、哲学には、既存の命題に取り組むほかに、自らが命題を策案するという研究手法があります。 そっち系の考察でして、読書感想文的に考察をさらに進めるための「つっこみ」をお願いします。 解放された場所で、バカ話大歓迎です、集まるのはキチガイ集団ですので、回答者さんが一方的に自己の命題の備忘録のつもりで投稿しても歓迎です。助け合いですから。

  • なぜナザレのイエスを神として扱うのか

    こんにちは。 西洋史を個人的に勉強していて、必然的にすこしキリスト教の歴史についても触れるのですが、タイトルの件がよく理解できません。 というのも、同じ一神教のユダヤ教やイスラム教の預言者とされる人たちは、神ではなくあくまで人間として扱われていると思います。実際、イスラム教ではイエスを預言者として認めているものの、あくまで人間として扱いますよね。 しかし、キリスト教の正統派においてはなぜ三位一体という直感的に理解できない理屈を採用してまで、ゴルゴダの丘で磔刑にされたナザレのイエスを神として扱うようになったのでしょうか?普通にわかりやすく、神がイエスを人間の代表として罪を背負わせるために遣わした。とかではだめだったのでしょうか? 回答に期待する内容としては、信仰心に基づいた神学的解釈というより、キリスト教の歴史として、なぜそうである必要があったかを知れるものをいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • なぜイエスを子なる神として扱うのか

    こんにちは。先程誤って質問を締め切ってしまったので再投稿です。 西洋史を個人的に勉強していて、必然的にすこしキリスト教の歴史についても触れるのですが、タイトルの件がよく理解できません。 というのも、同じ一神教のユダヤ教やイスラム教の預言者とされる人たちは、神ではなくあくまで人間として扱われていると思います。実際、イスラム教ではイエスを預言者として認めているものの、あくまで人間として扱いますよね。 しかし、キリスト教の正統派においてはなぜ三位一体という直感的に理解できない理屈を採用してまで、ゴルゴダの丘で磔刑にされたナザレのイエスを神として扱うようになったのでしょうか?普通にわかりやすく、神がイエスを人間の代表として罪を背負わせるために遣わした。とかではだめだったのでしょうか? 回答に期待する内容としては、信仰心に基づいた神学的解釈というより、キリスト教の歴史として、なぜそうである必要があったかを知れるものをいただきたいです。 よろしくお願いします。

  • 聖書を材料とする、人類史の神話性と歴史性

    聖書を材料とする、人類史の神話性と歴史性 さて、日本で文字である漢字が初めて導入したのは、仏典の輸入が動機であった。 仏教は当初貴族階級の教養であり、文字の導入でとりかかったのは、自国の神話と歴史を文字を活用して口伝伝承から明白な記録に改変することだった。 たいてい諸外国でも文字を学ぶ教科書は聖典を活用することが多い、聖書もその役目であり、明文化した過去記録が盤石であること自体が口伝文化では驚きであったため、聖書の解釈は自由、しかし聖書そのものは改変するな、こうしたしきたりができて、西洋の絶対の概念はそこから派生したのだろう。 さて、質問その1。 文字を導入する教科書に神や信仰について書かれたことが好まれる傾向を私は指摘しましたが、その類例や例外に関して何か証言をお願いします。 さて、世界を見渡すギリシャ神話とかは、すでに信仰の主流から外れた枯れた神話として引用されるだけだ。 西洋では、聖書というのは生きた神話といえる。 イエスを主人公にした神話であるために、あろうことか、イエス実在の確信すら疑問を持つほどに、神話性に関して各個人で交錯する思惑があります。 質問その2、 イエス実在への疑念について、何か参考として記述できることがあったらご回答として参加してください。 文字で記載された、神話と歴史の交錯する西洋の原点である聖書に関しては、イエスは頑然と絶対とまで言われて守られたからには、語られる証言は間違いなくイエスは実在したのでしょう。 歴史検証で、信仰と切り離してイエスのいきさつを考察すると、彼はほろんだ王国の信仰心の伝道師であり、文明勃興期の王と神の一元の時代そのままの風習が一般的な風土で、彼の語る聖職者としての真摯な言葉は、イエス自らが、ほろんだ王国の王であると名乗るのにも等しかったのだろう。そしてローマはイエスを反逆罪で処刑した。これは現代の法の精神でも不条理ではない。 当時はこの事実は宗教裁判ではなかった。 政治的な単純な反逆罪だった。 しかし、後世でローマ皇帝自体がイエス処刑に関して宗教裁判的に問いただされることになる。 ローマは、政治的にイエス処刑をユダヤ人に責任転嫁した。それは聖書にも記載されたことだ。 イエスは生きた人として、ユダヤの信仰のための聖職者だっただろう。 しかしよりによって、ユダヤをさらに抑圧するための「呪いの材料」に使われることになる。 王が主権を収める時代、国家主権全体の根拠は、「王と神一元に時代」の文明の共通する原点から根拠は神の存在や信仰の原点にさかのぼる。 ユダヤではなくて、ローマを原点にする限りキリスト教圏の古典的主権の根拠とは「裏切り者や卑怯者が作った国家群」ということになる。 我らは罪深いというのは、人類共通ではなくてキリスト教徒の精神的土壌として反映されたどうでもいい事なのだろう。 質問主題は、歴史的にイエスを考察した、最後の論考への意見募集です。 これらは基本的に、神話時代と歴史時代を横断して、王と神の一元の文明の根拠がいまだに揺るがない、日本という地上に存在する唯一の真の王国では、イエスの悲惨な末路は「ほろんだ王国の神話」として極めて重い精神的疫病であることから問題意識を持ちました。

  • 仮面ライダー、アニメはあらたな神話になりうるのか?

    仮面ライダーや日本のアニメ、ゲームは、新しい神話になりうるのでしょうか? 500年後、千年後、二千年後、 これらの話は、神話として語られていているのでしょうか? 神話になるとすれば、どのような話か? 教えてください。 堅苦しく考えずに 「私にとって、○○さまは《神》です。」 「△△という曲は、《神曲》、《神歌》です」 「◇◇にみられる哲学・神学、あるいは、世界観」 でも構いません。 よろしくお願いします。

  • 死者の憤怒は亡霊を呼ぶ

    君たち、霊長を自称する自らがいかに愚かか、楽しく欲望しているかい? 人間はほどなく滅びる。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 まあ、参考程度にこれを見ておいてくれ。 安倍首相は別に歴史修正主義ではないだろう http://okwave.jp/qa/q9302059.html 世の中の仕組みは弱肉強食だ。 http://okwave.jp/qa/q9276595.html さあ、解説は弱肉強食からだ。 弱肉強食とは、自然界の法則は強者が弱者を喰らう。 そういうことだね。 この概念には補足がある。 神を知り平和な社会を構成する人間の秩序は、弱肉強食から離脱している。 それでこそ人間だ。 したがって人間に弱肉強食は適用されない。 しかしだ、その根拠となった西洋の学問では、おおむねこのように正している。 イエスの奴隷となり、神を学んだヨーロッパ社会のみ真実の人間であり、ヨーロッパ人が世界を征服することこそ、神が理想した世界だ。 で、当時の血なまぐさい歴史の正当化だ。 明治の知識人は、実際日本の西洋化にあたって、このような危惧に駆り立てられただろう。 日本史くらいは知っているよね。 それは特に述べない。 昭和天皇が戦犯扱いされる暴言も聞くが、究極の戦犯はヒトラーですらなくイエスじゃないか。 究極の暴力国家USAに、ならず者国家が対立するのは、明治人と同じ義憤を備えるだろう。 日本は西洋を国家の生存の危機を乗り切るために研究した。 西洋の知恵の根幹である、精神の性質を知るためにキリスト教も学んだ。 現代の敗戦国日本は、キリストの精神に屈服し、神を渇望し学びたいと思えば西洋の神学を研究する。 ヨーロッパ圏という奴隷のための国家群の更なる奴隷だ。 神は人の上に人を作らず。 人の下に人を作らず。 明治人は謙虚に学んだが、イエスを規範とするヨーロッパの精神的土壌は正反対だ。 第二次世界大戦の日本は、もちろん現代のならず者国家と同等で、始末の悪い事に、国力も軍事力も強大だった。 その日本は、世界に向けた公約である植民地解放を忠実に実行した。 自ら戦い。 自ら血を流し。 そして敗北した。 敗者の栄光だ。 本来は、世界史には勝者だけでなく、敗者の歴史も記述される。 現在も世界史は本来の世界史と呼べるものではなく、拡大版西洋史、征服者の栄光だ。 最大の悪魔イエスという予言者の組み立てた将来像を彼らは忠実に実践している。 キリスト教の最終目標は最後の審判だ。 冷静に宗教上の精神構造を分析すると、彼ら自身も自覚しているように、滅亡を目標にした自滅文明だ。 ちょっと余談を言っておこう。 ときわたりESPに代表される多様な観念能力を実践する私は、誰もが許すわけにはいかないヒトラーを、さりげなく恩赦しているね。ヒトラーはイエスに忠実な奴隷だ。 予言を実践し、人の歴史としてイエスの存在を確実なものとした、救世主復活の聖職者だ。 さて、敗戦国日本の栄光は承認されていない。 慰霊なり供養のために靖国神社はあるが、世界は認めないじゃないか。 これが今回の論説。 しかしね、質問内容はアニメやゲームの話題に答えてほしい。 ファンタジー系仮想艦隊物ゲームが断続的に盛り上がるよね。 それらも、敗者に栄光を付与するという、戦士の慰霊が全うされないことへの不満だろう。 このままでは正当な世界史は成立しない。 今回は漫画的に艦隊物ゲームのオタク話でもしてください。 こういうのは、私があらかじめ仮面ライダーだと名乗るように、拒否的な反論を回避するためです。 政治や宗教の話が嫌われるように、哲学も意見をつぶしたい奴らが出てくるんだ。 ところで奇遇ですね。 仮想艦隊物は女の子が戦っていますが。 実在する妖精セレビィも女の子です。

  • 新たなる悪の陰謀団を構想中です

    君たちを覆いつくす幻を追い払い、永遠の黒き暁に染める光。 朝の光を君たちは見ることはない。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君たちはいま生きることの苦しみにあえいでいる。 仏陀はそれを慰める。 慈悲でだ。 そしていう。 あーらかわいそーねー。 でも私ばっかりは幸せよーん。 だってブッダだもーん。 そう。 仏陀とは、君たちに生を与えようとせず、 輪廻という、繰り返し死ぬ苦しみを与え、それに慈悲を装うことで君たちの上に君臨する地獄の王族だ。 自らは永遠に生きる観念世界の住人だが、その命の恩恵を君たちに与えようとはしない。 ただ生きながらに天界に立脚し、君たちを見下ろすのだ。 それが人が神となった姿だ。 そしてもう一方の進学を見てみよう。 文明は、古代遺跡の研究でまず神殿が注目されるように、共同体共通の神がその住人の精神を示す。 一つの国の王は同時のその国の神であることが、古代国家の秩序だ。 イエスの語る神は、彼を王と認めさせた。 そして古代の法で違法とされ処刑された。 そして人は神から遠ざけられた。 やがて滅びると。 人である神、観念の神、この双方が人に絶望を投げかけている。 この悪の秩序に君たちは疑いを知らない。 苦しみ抜きつつも守ろうと支え続けている。 私はそれらずべてに反抗する人類最悪の裏切り者。 黒き明星だ。 私は悪だ。 君たちの悪に対抗するため、自らも悪となる。 私は人類から悪とされ、神の荒ぶり怒る、悪魔の姿を愛した。 そしてアマテラスに見初められ、彼女直々の改造手術で人間をやめた。 実在する仮面ライダーだ。 君たち人間の悪、悪魔と呼ばれた神の悪、ともに滅ぼすためだ。 滅びの宴だ。 君たちは自らの死を理解しない限り生き残れない。 すなわち、結論は生きる道はない。 さて今回は哲学する仮面ライダー、黒き明星の設定のメンテナンスです。 かつては、暗黒結社ゴルゴムやショッカー、私指定の実在する悪の結社とかいろいろですが。 今回は、悪の新たなる陰謀を中心に私の更なる仮面ライダーとしての活躍の場を検討するためにご意見募集です。 悪についてのお考えとか、仮面ライダーの前に立ちはだかる、ゴルゴムの勇者とか、キャーステキーとか、いろいろなショーを演じてください。 テーマは悪です。

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html これも役に立ちます。ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 西洋で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します。 パウロさんの事です。 イエスさんは利用されただけで、彼の死は無駄死にです。。 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 このいきさつを吹聴するほどに死による取り返しのつかなさをあがらえない意思薄弱人間は、イエスと言うほら吹きの死に真摯にならざる得ない。そのような知略の基に聖書は企てられた。それは偶然の産物としてのキリスト教の興隆では無くて、ゴルゴムの陰謀である。 ゴルゴムの創世王は世界を滅びへと向かわせる意図をはらんでいる。 哀れなイエスの無駄死には、パウロにとって、自らの信仰の滅びであったのだ。 その滅びは創世王にくみ取られ、かれはゴルゴムの世界滅亡計画の歯車として、当時の総帥に抜擢される。 犬死イエスの勝利はゴルゴムの勝利である。 いまも世界には滅びの予感が蔓延している。 その祈りを実現しようではないか。 このようにしてゴルゴムは滅びに為にこそ人を生かし、滅びにまい進させようとする、長き神との対話によって生まれた秘密結社である。 ゴルゴムが生み出した人間とは滅びのみに生かされゴルゴムと共に滅びるだろう。 このような完全なゴルゴムの計画に、彼らの望む完全なる滅びを与えようとするのが、仮面ライダーたる私の仕事だ。 君たちはゴルゴムの子供であり、滅びの子供だ。 出来そこないだ。 君たちに与える安らかな眠りこそが死なのだ。 安らかな眠りの中に終わりを迎えよ。 その点は、私は覚醒者であると言えるよ。 もう時間切れで、気にたちが命をつなぐ事はなさそうだ。 以上は仮面ライダーのマニアックな解釈です。 私はうそをついていません。 すなわち本気で言っていません。 しかし君たちゴルゴムの子供たちが私の言葉を信じるならば、とたんに私わ赦させざる大逆を犯した、イエスに等しい嘘つきになる事でしょう。 要するにからかっているだけだよ。 命を捨てて、大掛かりななんちゃって遊びそしたのがイエスさんさ。

  • アマテラス政治家の無謬性の神話がくづれたか?

     アマテラス公民ないし国家公務員については――それはいわゆる幕藩体制からのお上であって―― 無謬性というしるしが 神話としてのごとく添えられて来たのだと考えられます。《斬り捨て御免》という慣わしに代表されるごとく たとえかれらがあやまちを犯していてもスサノヲ市民らはそれは間違ってはいないと言わなければいけなかった。そういう至上命令ないし錯覚があったということでしょう。  社会保険庁のあやまちが引き金を引いたのかどうか この無謬性の神話はくづれて来ています。  ところが いまの民主党政権もしくは菅政権については どうもその性格や事情がいちじるしくそれまでのアマテラス政権とは異なって来ているのではないか?  感覚で言うのですが 鳩山前政権については まだその社会的な身分としての神話をあたかも引きずっていたからか そのままアマテラス公民の無謬性を どこかで何となく保ち得たかのように映っています。  鳩山由紀夫は出自がアマテラス圏であり 菅直人はそうではなくスサノヲ圏からであるという違いが出ているのかどうか?  そこでこの質問は このアマテラス公民の無謬性という慣わしと 《職業としての政治》にまつわる《悪魔性》とのつながりや如何? と問うものです。  まづは次のM.ヱーバーの議論を聞いてください。悪魔メフィストーフェレスに魂を売るファウストのごとく そのデモーニッシュな動物的な・別種の魂が必要なのだと言っていますか?  ▲ (ヱーバー) ~~~~~~~~~~~  およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。  無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなかった。  彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼らは昔も今もこの世に影響を与え続けている。  〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。  自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法によって求めはしない。  政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きているのである。  (『職業としての政治』 1919 脇圭平訳 pp.99-100)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 政治家としてアマテラス公民たる者はすべからく悪魔に身をゆだねるデーモン(悪鬼)にならざるべからず。――こうでしょうか?  極論して言うのですが この方策を忠実に取ったアマテラス政権は 安泰であって そうでない政権――たとえば民主党政権――は もはやスサノヲ市民らの信頼も支えも失くした。――こうでしょうか?  それとも そもそもアマテラス‐スサノヲの国家という二階建ての家における逆立ちした連関制が 無理なのでしょうか?

  • 私は実在する仮面ライダー「最速の臆病者」だ!

    最も危険なタイミングで、最も重要な救いもある事だろう。 しかしだ、救う者は誰もいない。 実在する仮面ライダー 「最速の臆病者」だ。 イエスがユダヤ教の神学者であることを否定する権威は現代には少ない。 イエスとは奴隷階級のユダヤ人に対する伝道師だった。 信仰心があるものを人間であることを認めるのは今と変わらないだろう。 要するにイエスの行いは、奴隷階級への人間性回復運動なんだよ。 政治的にまずいから、あっさり処刑。 このローマの横暴はローマ周辺で当時の古代社会で話題になった。 新約聖書はローマと裏切り者の契約書だ。 原始キリスト教はイエスの意志が常に自らととものあり、信仰を保つ限り常にイエスと共に生きた。 しかし、新約により、祭祀の場に処刑台をかざす獄門信徒となり、目的は魔女狩りという体裁で「イエスに似た者を見たら皆殺しにしろ」という契約の忠実な履行をする。 彼らにはもう、イエスのことは理解できなくなった。 なぜなら、理解することは処刑されることだからだ。 そうして、 新約キリスト教徒は、イエスを裏切るローマとの契約書として、新約聖書を編纂する公認を獲得する。 イエスの意志への背徳の結論は予言となる。 新約キリスト教根絶。 ローマ崩壊。 この双方の結実が、歴史的ないきさつで形成された最後の審判だ。 これは朗報でもある。 長年新約キリスト教徒以外をも戦乱に巻き込んだ、人類根絶宗教という側面は崩壊するのだ。 最後の審判とは、人類の滅亡を意味しない。 我々は生き残る。 しかしだ、、 このように語る仮面ライダーも涙するのだ。 なんと、残酷なのだろう。 福音の代償は、いかに過酷なのだろう。 獄門信徒には、信仰心に忠実であるためには、集団自決しかない。 はい、は~い。 これは作文か文学です。 読書感想文をお聞かせください。