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記号論とソシュールについて
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詳しく書くとたいへんなので、さわりだけでもいいでしょうか。 ソシュール自身は記号論ではなく言語学として、記号論の基礎を築きました。 彼の論の著作はなく、文献としてはソシュールの講義録が記号論の発祥とされます。 現象学や構造主義などを背景にして、言語の体系と認識のあり方を定義し、対象の分節化による意味の差異化によって認識するものとして、意味の記号化と言語化されることによってのみ認識可能になる世界観の存在を論証しています。言語の構造をシニフィアンとシニフィエという発音しにくい名前で解説してます。 この辺は丸山圭三郎の解説がわかりやすいです。 さらに浅田彰の初期の著作にもかいつまんだ説明があります。ロランバルトにいきなり入るとわけがわからなくなるので注意しましょう。
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- POKIE
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素人ですが、#1さんの丸山圭三郎さんの”初めての構造主義”面白くて何度も読み返しました。
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