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人の気持ちを考えられない

いつもお世話になっております。よろしくお願い致します。 漠然とした疑問なのですが、他人と関わるにあたり、他人が傷付くような事や不愉快になるような発言を平気で繰り返す人間はどういう心理状態なのでしょうか。 先日5歳のいとこ姪を連れて、二人で博物館に出掛けました。小さい子供が多い場所で、私達は手を繋いで歩いていたのですが、その間をアーチのように潜ってどこかの子供が走っていきました。後ろでその子のお母様がこら!走っちゃダメ!なんて言いながら私達にすみません、と一言仰って下さり、ただ単に私は可愛いなあ元気でいいなあと思ったので大丈夫ですよ、と言いました。周りにいた大人もにこにこして見守っていて、微笑ましい光景でした。 そんな時に突然、ものすごい剣幕でこらァアア!!!!と怒鳴る声。博物館の係員さん、おじさんでしたが、その子が展示の(触れて良い)おもちゃに触り、子供なので力いっぱい振って遊んでいただけで、壊してはいないのにいきなりそんな怒鳴らなくても、というレベルで怒鳴りました。親御さんがいる前で、びっくりしました。壊してしまってからでは遅いことはわかりますが、まだ小さい子供にそこまで言わずともいいのに…見てるこっちまで不愉快になりました。親御さんもさすがにびっくりしてそそくさと出ていきましたがうちの姪も怖がって真顔になってしまいました。私はまだ親になったことがないですが良い気持ちはしないと思いました。 私は、よくこういう他人を不愉快にさせる場面を見かけます。 たまの休みに好きなお店でお買い物。新人さんがレジを間違えてしまいました。私はレジのお仕事をしたことがあるので、焦ってしまう気持ちがよくわかりますから特に気にしないでゆっくりやって下さい、大丈夫ですよと言いました。それなのに傍にいた上司は私の目の前で新人さんを怒鳴ります。どいて!などといい、私にはすみませんでしたなどとへらへら笑いレジをさっさと済ませます。私が帰ったあと、あの新人さんは怒られてしまうんだろうかと思うと不愉快になりますし、へらへら取り繕う上司のほうに怒鳴りたくなってきます。 私自身も転職して仕事を始めた際、芸能関係のお仕事で異業種の技術系の方にいきなりこのカメラのこの仕組みがなんでこうなるかわかる?と質問を受け、自分の仕事の範疇とは全く異なる事でわからなかったので正直にわかりませんと答えたところ、そんなこともわからないなら此処にはいれないよ。等と言われたり。私がカメラをやるわけでも、そのカメラに映るわけでも、ましてやその現場には全く今後も関わりがない私にこの人間はなにが言いたいのだろうと思い不愉快になりました。 そこでふと考えたのが、もしかしたら全て、言い方さえ違えば不愉快に思わないのかもしれないという事。 たとえば子供に怒るときは、子供に話をちゃんと聞いてもらえるような状況を自分で楽しく作る努力。うちのいとこ姪は早くお風呂入りなさい、とお母さんに言われると泣いて拒否しますが仲良くおもちゃで遊んだりお話をしながらお風呂に歩いていくとついてきたりします。そこでたとえ足が止まっても、怒らず様子を見てしばらく根気よく付き合っていると、言わずともやっとお風呂入る…と自らでちゃんと行動します。私が楽しそうにしているとそれをよく見ていたり、お母さんと仲良く話してるのをちゃんと見ていたり、大人の喜怒哀楽にはすごく敏感によく気付いて笑っているときには安心して楽しそうにしているのがわかります。大人が怒りながら発言したことには仕方なく、無理矢理、押さえつけられながら言うことをきく、恐怖が渦巻いているような目でしばらく伺うような態度をとるんです、子供なのにすごいと思います。 大人も同じだと思います。早くどいて!じゃなくて、難しいよね、私も最初はできなかったよ、今私がやるから横でなんとなくでもいいから見ていてね。それでいいんじゃないかなって思います。それに対して私はイライラしません。でも私みたいな人間ばかりじゃないから、急いでよ!なんてお客さんもいるかもしれない。だからお客さんも少しだけ優しい気持ちになってほしいなあと思ってしまいます。 この世の中生きていれば予想外、予定外のことが起こる毎日で、急いでほしいのは自分の時間配分に問題がないかな?全部他人のせいかな?譲れるところは本当にないのかな?それを思い返す時間で、怒鳴らず店員さんに1秒でも余裕をあげたらどうだろう。 中には店員さんの態度が悪いときもあって、むむ、と不愉快になるときもあります。人の沸点はそれぞれだけど、店員さんもきっと少し疲れてたり、普段はもっといい人なのに何かもやもやしていたり。プロならプロらしくちゃんと仕事しろ!って、お金払ってるんだよ!って思っても、お互い人間ですから完璧なんて存在しないと思います。だからムスっとした店員さんには、逆にニッコリ笑ってありがとうねって言ってあげたら、きっと少しだけ心がほっこりしてくれたり、何か気づくところを自分の中で見つけるかもしれない。次のお客さんにはニッコリ笑って接客できるかもしれない。そんな気持ちでいると私も毎日気持ちが楽なんです。 なんでこうなるかわかる?わからなきゃここにいられないよ。じゃなくて、ねえ聞いて、僕ね、カメラが大好きなんだ。あなたは全く異なる仕事だけどさ、ここじゃみんな技術のプロだから話したっておもしろくないし、何にも知らないまっさらな人にちょっと偉そうにカメラの世界の話をしたいんだよ。興味を持ったらまたここに楽しく居てくれるといいんだけど、きいてくれる?と言われたら、私はこの人はプロなのに何にも知らない人間にも突っ掛からずにそんな言い方もできるんだ。学んでみたい仕事がこんなところにもあるのかと思います。 最近の若い人は選挙に行かない、だから俺らの孫はきっと将来徴兵されて戦争に行かされる、若いやつらは昔と違ってやる気がない、日本のゆとり世代は日本の癌、これだからゆとりは。 そんな言葉を今はどこでも見かけてしまいます。だけど、そんなゆとりの父や母世代、祖父や祖母世代、うまく教えて育ててきたはずの今の若い世代は本当にそんなに価値のない人間ばかりでしょうか。それというのは自分の育て方に自信がないままだからなのでしょうか。もしくはその中間の世代かもしれません。何をそんなに焦り急ぎ生きるのですか。未来ある人間に癌だなどと言うその心が凝り固まっては他人に流され癌になっていませんか。選挙に行かないのは、政治に関心がないから?選挙に行ったって心のどこかでなにもこの世がかわらないと思っているか、今の自分の世界になんとなく満足しているか、行かない人の気持ちはわからないけれど私の予想はそんな感じです。 私は親に感謝しています、言葉にする機会はなかなかないけど、将来を担うチャンスは若い世代にも十分にあります。そんな時代に生きていられるのも、死ぬまでなにかを学び、考えるということをしなければならないのも、人間に生まれたら皆が持ってる平等なのだと思うのです。 ものは言い様、これだからゆとりは!、これはさきほどのこらァアア!と怒鳴るおじさんや、どいて!と怒鳴る店員さんと同じなんです。ちょっと残念な人かなっと思います。職場の後輩にも、たくさんゆとり世代はいますが、若い世代の感覚は面白いものがたくさんあったり、大人でも子供から教わることがたくさんあったり、上も下も考えすぎると頭が凝り固まるのかなと思いました。結局バブル世代だろうがゆとり世代だろうが人間が作ってきた時代は完全ではないものばかりで汚い中にも美しさがあります。 人に説教ができる人間は、自分が未熟なのを知らないのかなと思う瞬間もあります。教えを説くのが説教で、怒るとは違う行為のはずなのに説教ときくと皆怒られることを連想しませんか?私は少なからずガミガミ言われる気がしてしまうんです。 人に教えを説くくらいだから、きっと徳があって皆から尊敬を受ける人間がそれをできるのです。それは説教する側が私は尊敬を受けていると思い込み鼻を高くするのではなく、いつもいつでも周りが決めること。だから私も不思議と、普段から隙だらけの大して人間としては出来上がっているようには見えない人間が説教を始めると不愉快に思ってしまいます。俺は私は偉いんだ、何故ならこうだからああだから、そんな慢心を生む暇で他の事は成せないのか。 お互い未熟だから、譲りあって、これは私の得意なこと、それはあなたが得意なこと、お互い教わる気持ちで生きてみよう。歳なんて関係なく、教えてくれない?って普段から素直に言える関係が信頼を生んだりするときもあります。だからこそやっぱり、何かと理由をつけて自分の中で勝手に他人と差をつけ、関わる人間を不愉快にしたがる人間の気持ちが私には見えないんです。普段からずっと上記のようなことを考えていて、だんだんその人間の気持ちが透けて見えてくるとうんざりしたり疲れたりします。 皆が笑顔で暮らせる世の中ってこんなに難しいんだな、私の頭の中って平和なんだな、人間はどんどん便利なものに感化されて便利な暮らしをする代わりになにか大切なことを忘れて、あげく自分達の造り上げた一見便利なもので首を絞められてるような、そんな気がして齷齪して日々考えさせられます。 私が直すとか、それはただのお節介になりかねないけれど、人を不愉快にしたがる、させる人間の心理が私には本当にわからなくて、それさえわかればお節介にも直すことができないかな、なんて思うんです。人の人生は短いのできっと全部は無理でも、せめて私の周りだけでもどうにかならないか。私は考えすぎでしょうか。皆さんはどう考えますか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • yagiyasan
  • ベストアンサー率50% (10/20)
回答No.2

こんにちは 質問者様はとても平和的で思慮深く、懐の深い方なのだろうなと、質問を拝見いたしました。 ただ、やはり良くも悪くも世の中には様々な人がいて、それぞれの価値観があります そして、そのどれもが良い面も悪い面も持ち合わせているから、文学も科学もそのほかの様々なことも、発展してきたのだと思います。 私も割と質問者様と同じように平和を好むタイプだと思っているのですが、人からひどく怒られたことで気づいたこと、競争心があり負けず嫌いな人から学んだこと、何なら最低な行為をする人を見て「ああなったら駄目だ」と自分を見つめ直したことなど、いろんな人のおかげで成長できたことがたくさんあると思っています。 もちろん質問者様のおっしゃる通り、誰でも不快になる言葉は慎むよう努めるのは大切だと思いますが、他人がどんな心情や環境の下で心無い発言や行動をしたのか、その一瞬の状況だけ切り取って理解することは不可能です。不愉快に思える会話スタイルが、その人にとってはスタンダードだったり、また他の人から見たら不快ではないかもしれません。 ある程度割り切るようにしないと、質問者様だけが辛い思いをしてしまいます。 私からの提案は、 (1)いろんなタイプの人がいることを理解する →様々な書籍があります 「9つの性格」鈴木秀子 著 という本があります。タイプごとの特徴・長所短所・付き合い方が分かりやすく書いてあるのでオススメです。 この中にタイプ8という、自分を強く見せることで自己を保つ性質の人が紹介されています。不愉快な言動をしてしまう人の心理状態について、ヒントになるかもしれません。 (2)余計なことをあまり考えすぎないよう努める →詳しくなくて申し訳ないのですが、これもいろんな書籍が出ています。 最も、人に対してそれだけ深く考えることが出来るのは、むしろ質問者様の長所だと思います。ストレスの許容する範囲を超えそうな時、他人を気にしないようシャットダウンする癖をつけるだけで、かなり違うのではないでしょうか (3)ストレスの捌け口を確保する 信頼のおける人に愚痴を言ったり、今回のように質問版に思いの丈をぶちまけたり、深く考え込んでしまったらストレスをしっかり出しましょう。もしくは好きなことに没頭する時間を設けたり。(2)と組み合わせて調整してみてはいかがでしょうか あまり人生経験のない若造が長々と申し訳ありません。すこしでもご参考になれば幸いです

mielringoo
質問者

お礼

こんにちは!早速のご回答ありがとうございます。まさに回答者様の言うとおり、私の価値観の問題と他人の価値観の問題が相容れないことは人間同士なので当たり前のことなのやもしれませんね。それを受け入れるにあたってその中でやはり不愉快に感じる時、感銘を受ける時、自らの感情を挟まずには成せないことだとも思います。違うタイプの人間がいてこそ色んな分野に特化し、何事に置いても先人達が築いてきたものを守り育ててきたんですね。その点に置いて、様々な人間が必要だという事が現実味をすごく帯びて聞こえてきました。ありがとうございます。 私も他人に理不尽に怒鳴られ不愉快になったことがありました。その都度世の中にこんな人間がいるのかと驚く反面怖かったのです、自分の理解を越えた、言い方は悪いですが気が違った常識の通じない恐ろしい人間に見えたので、いつか何をしでかすんだろうだとか、どうして怒りっぽくて常に苛立ち何をそこまで急ぎ、思い通りにならなければ自分の都合を満たすためになにをしでかすかわからない。怒鳴り散らすことでしか示せない感情は結局自分の為でしかないと私は思うのです。 しかし驚きました。回答者様のお考えは反面教師という感じで、ああはならないようにしよう等、負を抱える人間からさらに学ぼうとする姿勢が私には無いものでした。きっと真っ直ぐでお優しい心の人なのでしょうね、貴方様のような人間が人に教えを説き導く世の中であってほしいと切に願います。貴方様の言葉には棘がなく、素直に聞きたくなりました。 回答者様の言うとおり、どんな心理で他人同士が争うのか、それは最初から最後までそれを見てその人間を観察でもしない限り難しいことですね。その当事者が自分となれば、相手の感情が透けて見えるので本当に疲れてしまいます。他人の争いもこの目に映ると関わりたくはないのに気にして何とか出来ないかと、あれこれ考えてつらくなり、心配事が尽きないのと突き詰め過ぎて争いの原因を辿り根本的に正したく、考えたくなります。 シャットダウンする機能が私に搭載されていればきっと本当につらくはならないんですね。世の中が誰かの努力で進歩していく中で自らも進歩していかなければ息苦しさすら覚える世の中かもしれません。 仕事に関しても色々と手をつけ、やはりどれもこれも他人に疲れてしまいました。今は普通の仕事をちまちまとしながら、ボランティアですが週に何度か児童館や養護施設に行き心がまっさらな子どもと接し、読み書きや英語を教えたり歌を歌ったり一緒に遊んだりすることで心を癒したりしています。 親や大人に怒鳴られしつけと称して大人の汚い部分に触れ過ぎ喋るのが怖くなった子や、大人に好かれる為に一生懸命な子、屈託のない笑顔で私を見てくれる子、話し掛けてもなかなかなじめない子、色々います。それでも決して怒らず、善きも悪きも自らの経験から学んで貰えるように口を出したくてもぐっと我慢して見ているとちゃんと自分で解決していくんですね。それは涙が出るほど嬉しいことです。私はまだまだ若いので人生挫けるのには早いと世間は見たり、甘えだと言われたりするやもしれませんが汚い大人のいるところから逃げ、シャットダウンがうまく出来ずにこうしてたまにつらくなってしまいます。 私には実の子どもがいるわけではないのであくまでも親の気持ちは知り得ません。それでもやはり怒らずとも子どもは成長してくれますね。私が癒しを頂いている分、せめてこれから育つ子ども達には何かしてあげたいと思うのですが、前の回答者様が言う通り親にならなければわからない、叱る愛もあるのかもしれません。それは、大人の世界でも。ただ、愛を持って叱っても、受け手が愛と捉えなければ恐怖に変わることを思うのと、自分がそうだったのも相俟って他人を伺う癖はなかなか抜けず苦労します。そして他人の怒の感情がとても嫌いです、本当に嫌いです。 無駄話が長くなり申し訳ありませんが、素敵な本のこと、教えてくださり感謝します。教養のある方とお話しできたことだけで、今の私は感無量です。本は大好きなので何度も読みますね、ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • caf-caf
  • ベストアンサー率64% (1414/2208)
回答No.1

1.博物館の件 係員は、展示品を壊したり、振り回す子供や周囲の人々が怪我をしないよう指導しなければ、何かあれば管理責任は問われます。 もしも質問者様が博物館の係員で、触れても良い展示品で子供が一生後遺症を負うような怪我をしたらどうしますか。 「優しく注意したのですが、やめてくれなくて…」なんて言い訳をして、質問者様は「親が止めないのが悪いのだ」としますか。それとも、「自分がもっと強く止めるべきだった」としますか。 どちらにしても、一生後遺症を残してしまった子供は救われませんよ。 「親が止めないのであれば、周囲の大人が何としてでも止めるべき場面では止める!」これができない大人が増えているからこそ、子供が犠牲になる事件や事故が起きるのです。 ご存じでしょうか、子供の事故・怪我は半数以上が親など大人の目の前で起きています。 2.お風呂の件 質問者様も、お子様をもてばわかるでしょう。 優しいだけが「愛」ではありません。 楽しくお風呂に誘うのはとても良いこととは思いますが、家庭や将来の集団生活の時間割に合わせて生活をする(嫌でもやるときはしっかりとやる)ということを教えるのも親の役目です。 3.新人のレジの件 質問者様は、毎日何度も繰り返し同じミスをする新人に、ミスをせず頑張る新人と同じ給与を与えることができますか。 また、客からクレームが入ったとき、『当店は、「>私はレジのお仕事をしたことがあるので、焦ってしまう気持ちがよくわかりますから特に気にしないでゆっくりやって下さい、大丈夫ですよ」と新人に指導しております。ですから、お客様もそのように考えてください。』と堂々と言えますか。客の怒りを逆なでしますよ。 客の前だからこそ厳しく怒ったほうが、多くの客は指導が徹底していると感じるでしょう。 客の裏では「あの場面では厳しく指導しているように見せるべきであった」ということを、上司が新人に伝えていたとしたら、質問者様より上司のほうが1枚も2枚も上手(うわて)ですね。 4.人に説教ができる人間は、自分が未熟なのを知らないのかなと思う瞬間もあります。 完璧な人などいません。完璧ではないからこそ、自分の知らない部分は他人に教えてもらい、足りない部分は時には怒ってもらって覚えるのです。 説教をする人が完璧である必要はありません。自分の足りない部分、知らない部分を補ってくれる存在であれば良いのですし、自分も相手が知らない部分があれば教えたり、足りない部分があれば時には怒ってでも知らせることは必要だと思います。 5.最後に… 質問者様が医師だと仮定して、どれほど優しい言葉で「お酒をこれ以上飲んだら死にますよ。だからもうお酒はやめてくださいね。」と説得しても、言うことを聞かない患者がいたとしましょう。 その患者が、たまたま質問者様ではない別の代理の医師に「これ以上、酒を飲んだら死ぬぞ!もう絶対にやめなさい!あなたが死んだら家族が悲しむんだぞ!」と大きな声で叱られて、本当にその患者がその日からお酒をやめたらどう思われますか。 「孫の入学を見られたのは、あの時に本気で怒鳴って怒ってくれた医師のおかげだ、ありがとう」という手紙を、怒鳴った代理の医師が受け取ったら… ネットですから作り話だと思うのもご自由ですが、実話です。

mielringoo
質問者

お礼

早速のご解答ありがとうございます! 回答者様のような考え方にも確かに一理あります。でも私はやはり、何事に対しても言い方、やり方は慎重になるべきだと思います。怪我をしたら、何をしたら、責任は誰のせいだとか、たまたまその場では親が傍にいて既に注意をしているにも関わらず係員が怒鳴るのは必ずしも子供が怪我をする云々の理由だけで怒っているかと言われると違うんではないかと思う瞬間があるのです。その時々でその人による、とは勿論思いますし、逆に親がよくスマホを見てあるいていて子供が野放しで事故に遭う、それをよく見ますし、たまたまエスカレーターで私の前にいた親がスマホをいじっていて、子どもはゲームに夢中、親は知らんぷりでエスカレーターから降り、子どもが転ぶ寸前で慌てて抱き上げたことがありましたが、私はその親に怒鳴ったりする気はありません。いつかもしかしたら同じ目に遭うやもしれません。怪我をするのは重々承知ですが、私の言いたい事の論点とはかなりずれてしまいますね。そもそも優しいだけが愛ではなくとも、では叱られた子供は必ずしも学ぶのでしょうか?人を叱る意味の本質まではまだわからないでしょう、ただそれが悪いことだとわからせるには恐怖しかないのか、親が適度に目を見張り、自らが失敗をしてみないとわからない、口で怒られたところで人間はその理由も本質もわからないものだよ私はよく父に教わり生きてきました。なので木に登って落ちたら痛いことも落ちて縫う怪我をやってみて気づき、車が来て飛び出したらひかれてどれだけ痛いかも、卵は電子レンジに入れると爆発すること、色々ありましたがやってみて初めて二度としないと誓えること、たくさんありました。ただ今は責任問題で責任転嫁する時代ですから、結局みな純粋な行動で注意をするよりか保身の考えだってどこかにあると思います。博物館のものだって、子どもが怪我したら危ない、触っていい展示品だったのに、そんな感じでニュースになるんでしょう博物館のもの壊れたらなんで見張ってないのかと怒られるのは俺だから。そんな気持ちが声を張らせるのかもしれませんし。本当のところなんてわかりませんが、度を過ぎると私の目には残念な人間にしか見えません。 私はまだまだ若いので、親の責任や教えなどはそれぞれの家庭で違ってどんなやり方が正しいかも把握することがまだまだ経験できませんが、いずれ経験することがあれどやはり叱り育てるのはちょっと違う気がしてなりません。 時給や給与は、あくまでお店での都合かと思います。私はあくまでお客さんとして、最後まで気持ちよく買い物をできる空間も買いに来ているつもりでいました。なのでお店で云々の都合までお客さんの前でやるのは些かいい販売員だとは言えないなと思ったのです。申し訳ないですが、私はそういうことを堂々と言ってのけるくらいのお店であってほしいと思うで、気分が悪いのです。裏で言うにしろ、言い方の問題ですね、私は怒鳴る人間に対してそう思うのです。本当に上手であれば、冒頭の通り、裏でも言い方ひとつだと思うのです。そういう意味の話なので、上手云々よりもそれならばそんなことで怒るお客さんに見えてるその人間に問題があるかと。販売員だってお客さんを見ていると思いますので。ただ私が見た店員に至ってはお店のイメージを崩しているので上手もなにもないでしょうね、残念ながら評判は商品だけでは上がりませんから。 それと怒ることをしてでも、と仰いましたが、本当にそうなんでしょうか。きっと怒られて素直に直せた人は自分の後輩などにもそうやって教えていきますね、もしくはそうされて嫌だったから絶対しないと心に誓うか。どちらにしろ人が怒鳴ることと説教は別物だと考えております。あくまで私は聞くとするなら説教がききたいので、普段から説得力のない上司の話には耳を傾ける気にはやはりなれません。完璧でないことを自らちゃんと知っている人間こそ言葉を選ぶ力もあり尊敬できる人間だということです。その具体例はあくまでも素敵なお話ですね。でも言い方を間違えてしまえば、追い詰める行為にもなりかねないのが私は常に怖いと思うのです。それが実話だと私は信じます、信じてみたい。しかしながら怒鳴ること以上にきっとその患者さんは、お医者さんの愛を感じたのでしょうね。怒られている恐怖ではなくて、真剣に自分と向き合ってくれてる人間を目の前にしたときに愛を感じたんでしょう。それは人を不愉快にする怒鳴りかたをしなかった医者の技量と思います。私が不愉快に思うのは自己満足と自分の欲求のみに執着し周りの人までもを不愉快にさせる怒の感情です。患者を見る目が備わっていて長けている医者です、常に生死を見てきている経験からこそ言葉に説得力があります、まさに説教というのはそういうものであるべきなのです。 ただ不思議でなりません、親が子を叱るのは自分の子だから。それは正しいと思います。上司が後輩を叱るのは教育の為。それも正しいと思います。しかし問題なのはそれを受けとめる受け手がどう思うかは受け手にしか感じ得ないこと。もしかしたら私のように第三者の立場で不愉快に思う人間がいるかもしれない、そこを考えて怒鳴る人間がこの世にどれだけいますか?それを憂いているのです。良いことたくさん教えて頂き感謝します。ただ私の普段から考えている人間の感情について、考え方について、どういう心理かまではまだやはり理解はできませんね。怒らずともぶつからずともいくらでも方法は絶対にあります。私はそれを信じたいのです。せっかくならば短い人生笑顔で生きたいじゃないですか。競いあって戦わずとも分かり合えるはずなのです。他人と戦わなければいけないような世の中にしたのも人間ならば、その逆にまた戻せるのも人間です。ルールに反した人間が怒られる、そのルールを作ったのも人間なのに。遅刻したら怒られる、時間の概念を決めたのも人間なのに。当たり前のことを当たり前に出来てるのが当たり前の世の中です、便利なものが増えれば増えるほどそんな世界にたまに息苦しさを感じています、いらいらしたり怒鳴ったりするのも本質を辿れば人間が作ったものに対することであり、それを思うと日々考えることが多く憂鬱な気分になるのです。ちょっと聞きたいこととは違ったのですが、他者の意見を聞くことでまた新たにこのような考えを持つ人間もいるという知識になり、読むことで他者の意見を聞いてみるという経験になりました。ありがとうございました(*^^*)

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