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しっぽの哲学
愛猫を見ながら、ふと、猫ちゃんの気持ちについて考えてみました。 ご主人様にしっぽが無いから、猫のことをすごい誤解して付き合っていたのではないかと。 そして、猫ちゃんの気持ちを理解するには、しっぽが無ければだめだと思いました。 そこで、もし、人間にしっぽがはえていたら、哲学や思想に対しどんな影響や発想が生まれたと思いますか? 人間の持っている五感が世界に対する認識の枠組みを決めるように、しっぽの生えた身体が思考に及ぼす影響にはどんなものがあるでしょうか?
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- 哲学・倫理・宗教学
- 印刷をすると右側が黒く擦れて印刷されるため、すべてのトナーを拭いて再度印刷すると、左側2cmが黒とピンク色になり印刷された。トナーを取り出すと、下の黒い部分に黄色とピンク色の粉が付着し、ふき取って再度印刷するも同じように色がついた状態で印刷される。
- 印刷時に黒く擦れて印刷されるトラブルが発生しています。トナーを取り出すと下の黒い部分に黄色とピンク色の粉が付着しています。すべてのトナーを拭いて再度印刷すると、左側2cmが黒とピンク色になって印刷される状態です。
- 印刷時に右側が黒く擦れて印刷されるトラブルが発生しています。トナーを取り出すと下の黒い部分に黄色とピンク色の粉が付着しています。トナーをふき取って再度印刷するも、左側2cmが黒とピンク色になって印刷される状態です。
お礼
ありがとうございます。 ご先祖さまを辿ると, ウナギのやうな脊椎動物から派生したのが, 今の人間様のようですな。 確かに, おっぽのはえた猿と比較して, おっぽのはえていないゴリラやチンパンジー, ボノボなどは明らかな差異が見られますね。 それが何なのかは私にはうまく説明できませんが, チンパンジーを見たときと普通のサルを見たときでは明らかに異なる印象を受けるのは確かだと思います。しっぽのないものへの共感かしらん。