ビートたけし氏の若者論から

このQ&Aのポイント
  • ビートたけし氏が語る若者の変化とは?
  • 若者の頭の良さと一直線な姿勢について
  • 悪さを経験することの重要性と若者の物足りなさ
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ビートたけし氏の若者論から

ビートたけし氏が「週刊ポスト」で「水族館でマグロが亡くなった例を挙げ」 「最近の若いヤツラ」なんて言い方は、自分がジジイになったと言っているようでイヤなんだけど、やっぱり オイラがガキの頃とは明らかにタイプが違ってきてるよね。オイラの同世代かちょっと下の世代までは“ヤンチャ坊主”“暴れん坊”なんて形容されるヤツラがいたけど、今じゃほとんど見かけないもんな。 今の子たちは、何より頭がいいよね。自分の弱点を一生懸命補おうと思ってやってるのがわかる。今の 若い子は“一直線”だよ。自分で選んだ仕事に対して効率のいい努力をして、最短距離で突き進む。よく いえばクレバーだし、悪くいえば豪快さがない。フィギュアスケートの羽生ゆづクンなんて特にそんな イメージだよね。純粋培養で、ひとつのことだけにまっすぐ努力してきたヤツっていうのは案外もろい。 その点、将来何の役にも立たないようなバカなこととか、回り道とか、ちょっとした悪さだったりとかを やってきたヤツは踏ん張れることが多いんだよな。オイラたちジジイが現代っ子に感じる物足りなさってのは、そういう「悪い部分もパワーにしてしまおう」という気持ちがないことかもしれないね。 純粋培養って、予想もできない横槍がちょっと入っただけでとんでもなことになっちゃうからね。葛西臨海 水族園の巨大水槽で飼ってたマグロが、ウイルスが入っただけでほとんど死んじまったのを見ると、そういう ことを考えてしまうよな。もしかしたらオイラの若い頃がそうだったように、誰かに弟子入りして理不尽な徒弟制度の中で耐えるってのも、ある意味では必要なのかもしれないぞ。こないだオイラの番組で『18歳は 大人か子供か?』ってテーマの討論をやってさ。その中で、いっぱしの口を利いてた18歳が「若い子たちって みんな怖いものがないんだと思います」って言ったんだよな。だけどオイラはこう返したんだよ。「あなたたちが オイラのことを怖くないのはなぜかというと、あなたたちは番組のゲストでオイラが主催者側だからってだけのこと。もし俺の弟子になってみな。半殺しの目に遭うよ」ってね。そういう理不尽な上下関係の中に放り込まれてみないと、 本当の世間の仕組みっていうか、怖さみたいなものの正体が分からないんだよな。  確かに、共感できる事もあります。  でも、結局「チンピラ気質」を持つ人間が良いと云う事なんでしょうか?  ビートたけし氏の憧れる世界は「その男凶暴につき」等の普通に云う事を聞かない人間が  半殺しの目に遭い、この人この組織は怖いと云う事で云う事を聞き礼儀作法を身に着けていく  この様な人間の方が使え 好きと云う感じなんでしょうか?  この様な組織もその様な人間にとっては必要でしょうが、  私は別段暴れてみたいという気も無く、基本的な事は聞いておりましたが、  「超えられない軟弱者」と成るのでしょうか?  中学時代 とある部活動は正にその様な感じでした  顧問は「気合を入れる」とかで体罰  部員も暴力的な雰囲気が嫌な人間は途中退部し、偏見で悪いが最後まで続けた者は  普通に言っても聞かない人間が多かったのです。  その中の一人は普通の教師が宿題の提出を催促すると暴れ、  怖い顧問の存在で枠組みに入り、怖い顧問先輩の理不尽さ(私は思うが彼は思わない)  (「気合を入れる」「最近たるんどるぞ」と体罰 部の先輩から廊下ですれ違う時に  「生意気」と殴る蹴るの暴力)を受け入れ、弱い処にはぶつけるが、怖い存在があるので  大荒れにならずに纏まり、非行するエネルギーを部活動に打ち込み強くなった  「あの顧問や先輩が居たから 大荒れにならず 礼儀作法もに身に着け鍛えられた感謝してい  る」と云う事でした     私は「他で失礼な事をしてまで絶対服従できない」と言う思いでしたが、  これでは強くなれず「純粋培養」な人間となるのでしょうか?  ご回答宜しくお願いいたします

noname#250543
noname#250543

質問者が選んだベストアンサー

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  • moritaroh
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回答No.11

ビートたけしは面白い人だと思いますが、文化人的な振る舞いで物事を言う時の思慮には欠けていると思います。 「今の 若い子は“一直線”だよ。自分で選んだ仕事に対して効率のいい努力をして、最短距離で突き進む。~純粋培養で、ひとつのことだけにまっすぐ努力してきたヤツっていうのは案外もろい」 「誰かに弟子入りして理不尽な徒弟制度の中で耐えるってのも、ある意味では必要なのかもしれないぞ」 羽生結弦選手を純粋培養型の若者の引き合いに出していますが、「ひとつのことだけにまっすぐ努力」することと、「誰かに弟子入り」するというのは、そこに暴力的なものが存在するか否かの違いだけで、どちらも『“一直線”』という意味では同じですね。 たけしが論じているのは、第三者から理不尽に加えられる暴力の有無だと思います。 この点は、外部からウィルスが混入してしまっただけで水族館のマグロ死滅する、という部分で、ウィルスを外的要因・外部性と捉えられるでしょう。 ですが、たとえば羽生結弦選手の場合、出身地の仙台で彼自身もスケートの練習中に被災、スケートリンクの氷が崩壊していくなどの状況から逃げ延び、避難所生活をした期間もあるようです。 目に見える部分では、英才教育というか、スケートのための純粋培養のような育ち方をしているように思われますが、実際にはスケートを続けるために過酷な状況(震災という外的な要因)を切り抜けてきた、という経験があるようですし、実際に彼が飛躍的に結果を出し始めたのは震災以後です。 ビートたけしの言うようなかつてのチンピラ的な感覚というのは、外的要因がわかりやすい直接的な暴力であっただけで、現代においてはその外的要因というものが複雑化していると思えます。 一見すると純粋培養のように見える若者も、かつてと比べればあり得ない量の情報という外的要因にさらされているわけですから、決して純粋培養と断言できないでしょう。どちらかと言えば「暴力やならず者→笑い(芸能)」へと昇華する図式自体が、能や歌舞伎の起源とまったく変わっておらず、古来から続く芸能分野における『純粋培養型』であるようにも思います。 まとめると、非行の是非、暴力の有無、ということではなく、本来の道筋とは異なる外部性をどのように吸収し取り入れているのか?というところが問題点であると思います。 個人的には、純粋培養型で閉ざされた場所で外部性もなく育ってきた人というのは、非常に脆い存在だと思います。 しかし、そういった意味で、たとえば質問者さま自身が、ある何らか、表面上では今のご自身にとってはさして意味のないことに熱中していたが、実際に根底ではそれが経験として役立っている、というものがありさえすれば、純粋培養型ではないでしょうし軟弱であるとは思えません。 たとえば中学時代の部活動で行われていた暴力に憤りを感じ、理不尽さ、というものが一種の社会悪として認識できたのであれば、実はもうその時点で「外部性」を吸収しているのです。 逆に、非行するエネルギーを暴力的な礼儀作法によって部活へと向けることができた部員というのは、その時点で暴力という外部性を吸収しつつも、それが理不尽な社会悪であること…言い換えれば、学校や部活動という現場をさらに外部から見た時の視点には気付いていないです。 どちらが外部性を吸収するための視野が狭いか、と言えば、後者の方であるように思います。

その他の回答 (10)

  • bancho18
  • ベストアンサー率34% (92/268)
回答No.10

「チンピラ気質になれ」なんて言ってないですよ。 一見無駄に思えることも人間形成の場としてはすごく役立つんだから、スケートだけみたいな純粋培養でなく、将来何の役にも立たないことも色々経験しとけって事かと。 それがバカなこととか、ちょっとした悪さでもいいんだというメッセージだと思います。

  • IDii24
  • ベストアンサー率24% (1597/6506)
回答No.9

結局は世代格差でかたずくのでは?でも世の中ってこういう世代もいて若い人もいる。例えば「チンピラ気質」を良しとする人をどうかわしながら世の中を生きるべきかを考えるわけで、そういうことが苦痛になり鬱になるとかそういう人間にならないためにはいろいろ余白の多い人間が価値があるとも言えますね。 今の世代は純粋培養って言い方ではとらえられません。昔と違って一つのことに専念しないと目的の人生を歩けないほど専門化されているということですよ。昔のようにいろんなことに手を出してたら一つも実現できない。それが現代です。ふらふら遊んでて明治大学に入れたビートたけしの時代とは違うんですよね。それが人間を良くしているのか悪くしているのかはわかりませんが、社会は悪くなってると思います。 たけしのような人が生きてこられた時代のほうが幸せだったのは確かなのです。たけし自体は成功したからそういうことが言えるのであって、もし失敗してても同じことが言えたかは疑問があります。 でも戦前の軍国主義教育で育った人が今の日本を作ったのは事実であり、戦後生まれがその恩恵の上で自由を謳歌し、今の日本をダメにして行ってるのも事実です。この事実をどう見るかでしょう。 これは経済が発達していなかったというだけのことではありません。中国などは経済が困窮していた世代でも立派に育っていません。わがまま放題です。これは規律という教育がなされてないからだと思います。日本はなぜか規律を重んじた国です。これは江戸の昔から引き継いだものかもしれません。結局は人間は教育されなければダメになり。その教育には多少の暴力や圧力も必要だということになります。 それは西欧でも同じです。歴史を重んじ制度を重んじるイギリスのほうがアメリカより人間として優れています。アメリカがアメリカを保てているのは人間ではなく財力でしかありません。 たけしの言うことは今の世代に言うことではないかもしれませんが、「抑えつける」という教育は必要なことだとも言えます。

回答No.8

純粋培養という言葉が象徴的ですね。 ようは、純粋培養=楯突かない人間を作り出す、という意味じゃないですか? 現に、政府自民党は若者の意識を洗脳し、逆らわない人間にしてるようにも見えます。 やんちゃ、というのは自分で納得できなければ争う意識。 若者でもそうですし、いい大人も洗脳されてますよ。 でなければ、独裁を目指す、自民やおおさか維新などに票は入れませんから。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.7

質問者さんの印象が普通なのでしょう、昔も今も。 ビートたけしの存在はいはば反面教師で、彼はそれをわかっていて演じているのでしょう。 日本はいろんな意味でインフラが整備されて社会は建前上清潔そのものだから、子供はその中で理不尽なものを見たりそれらに打ちのめされたりする経験がないまま大人になるので、ある意味精神的な鍛えられ方がたりなくて、上司に叱られたり、いじめに遭ったりするとすぐくじけてしまう。社会に出てからそうならないように、前近代的な組織や考え方がある、どうしようもない怖いものがあることも承知しておけと言うくらいの気分なのでしょう。まあ常識を言っているのです。 >怖い顧問の存在で枠組みに入り、怖い顧問先輩の理不尽さ(私は思うが彼は思わない)  (「気合を入れる」「最近たるんどるぞ」と体罰 部の先輩から廊下ですれ違う時に  「生意気」と殴る蹴るの暴力)を受け入れ、弱い処にはぶつけるが それは社会では通用しないくそ人間です。でもそういう人間と出遭ったりいやおうなく交渉したりすることがたまにはあると思います。自身が巻き込まれないコツを体得できればいいし、ある程度それらをハンドルする経験があったほうが人生面白いかもしれません。そんなくらいで、あまり深刻に考えるはなしではないと思いますよ。

  • urbanite
  • ベストアンサー率35% (18/51)
回答No.6

こんにちは。 そんなに複雑な話しではないと思います。 勉強して偉くなって国を導く立場になっても「核の抑止力」という「暴力」は持ち続けたりしなければならない上品ではない関係性はつきまとっていますよね? 片方がちょっとやそっと賢いだけではどうにもならない事は山ほどありますから、時には知恵で、時には力で秩序を維持(するだけでなく秩序の内で発展)する力を身につけるのが寛容です。 というだけのお話しのように思います。 Aは良し、Bは悪しなどと定義を持って生きている人も居るかもしれませんが、Aにも色々なAがあり、一概にAというだけで良しとできるものではなく、Bもまた然りです。 「今目の前で起きている事はなにか」を見極め、「それが及ぼす影響は何か」を考慮し、「どうすれば望ましい方向に持って行けるか」に注力する事が大切だと思いませんか? 「水清ければ魚棲まず」と言いますが、これはあるレベル以上の清さがある場合の話しであり、水はある程度清くなければそれはそれで魚は棲めません。 「水清ければ魚棲まず」などとふんぞり返りながら自己正当化している人を見ると冷たい視線を向けてしまう自分はいますが、清すぎれば実際そこには生命が存続し得ない。 大切なのは「適切な浄化力」ではないでしょうか。 No.1さんの言い方をすれば「工夫力」となるのかもしれません。 世間一般的な言葉ではよく「柔軟性をもつ」なんて言い方をされる事もあります。 その為には視野が広く様々なものを受け入れられないと不可能なのはお分かりですよね? 「チンピラ気質」の人たちには便利に使われてしまう言葉でもありますが、これらは真実実際に大切なものですよね? 「気が、あるいは心が弱い人」は、ちょっとした事ですぐに傷ついたり、攻撃された意識を持つために敵対心をもつ場合も多く、もしこうした場面に「チンピラ気質」がいたら、このチンピラ気質の持ち主の方がよほど「秩序維持能力が優れている」という事になります。 ここは分かりますよね? つまり、理不尽でもある程度受け入れる器が無いと、あるいはAの中にも色々なAがあるのだという区別が付けられないと平和の維持すらできないトラブルメーカーと言わざるを得ないという事です。 でも、チンピラ気質な人はある程度汚れの強い層での秩序維持力があるだけで、より清浄な層を広げよう、維持しよう、向かおうとする力は弱いので、これまた万能な訳では全然ありません。 より清浄な方へ進もうと努力し、清浄さが汚された時にどうすれば素早く清浄さを回復できるかの方法を知らなければ一度汚れただけでもうその水は腐り果てます。 これではバカだというだけのお話しではないでしょうか。 その為に「今の人たちは守られ過ぎている」「権利を許され過ぎている」、それは彼らの成長自体にも悪影響を及ぼすし、その延長線上に社会秩序の大きな不安定要素にも繋がるから適当に理不尽な目にはあっておいた方がいいという事だと思います。 あ、時間がなくなってしまった。 十分に長文ですが一旦失礼(^^;)

  • bn10000
  • ベストアンサー率7% (19/259)
回答No.5

「チンピラ気質」ってwww そう取ちゃうかい? この時点で、もう今時のガキと遜色ないね~ 尾木ママじゃないんだからさ~ たけし流で的を得た解りやすい例えだと思うよ。 世の中には理不尽な事が多々あるんだからね。 社会性もなければ上下関係も解らない。。 友達じゃないんだぞってw そんなんで社会に出されてもね~ 一発殴られて説教される方が、まだ温かいかもしれないよ? 今だったら説教すらしないでしょ?しても理解出来ないからね。 御大層な言い訳聞いてあげて、さっさと切った方が面倒じゃなくて楽なのよw 学校じゃないんだからねw それの方が、怖いとは感じないだろうね。。 マグロの例だと、ボビーもそうだけど中国留学生あたりは 久しぶりに帰って実家で飯食ったら下痢するんだってね~w 要は免疫が無いって事だね~ 壁にあったったら対処できないんだから、言い訳して逃げるしかないわな~ 引き籠りもそうだけど。。 もう無菌室にでも放り込んでおけってねw

  • hikaricom
  • ベストアンサー率25% (195/772)
回答No.4

あくまでも全般的なお話をされているのだろうと思います。”今時の子”に有りがちな世間を上手く、できるだけ傷つかないように、傷つかないよう、要領よく生きていくという生き方、また親にそのように保護されてきたような子たちの軟弱さを言っているのでしょう。それを”綺麗に生きている”と表現しているのですから、たけしさんとしては、もっとガムシャラでも、不器用でもいい、格好悪くても、失敗して、どやされても何でもいいから、お前らがんばれよ!というたけしさんなりのメッセージだと感じます。 あなたのように、大人の言うことに敏感に反応し、何でかな?と考える人は逆にいいなと思います。 これじゃいけないのか?俺はこうして生きてんだぞ‼︎そして、行き詰まったときに、また立ち止まって考える。どうすりゃいいんだろう…と。 だから、たけしさんは、「人生そんなもんなんだ。それでいいんだ!何か綺麗な世界でなきゃ生きられないような生き方をするなよ!」ってことが言いたいのだと私は思います。でないと何かそうでないものに出くわした時に、直ぐに折れてします。諦めてしまう。死んでしまう。「そうじゃないだろう?」 そんいった思いを伝えたかったのだと思います。 また、たけしさんはいつもそんな事を言っていますよね。「世界の北野。だけど俺は少しもカッコよくないだろう?だけど、それでいいんだぜ」ってね。 だから、今でもパンツ一丁でバカしたり、お茶の間を賑わせていますよね。どうだ‼︎人間って切ないだろう⁈って。

回答No.3

ビートたけしの言うことはある意味極論だと思います。 たけし軍団に弟子入りしたら、確かに理不尽なシゴキを受けるでしょう。 しかし、人の世とはいつでもどこでも理不尽なものです。チンピラやヤクザほどでは無いとしても、人間関係は理不尽そのものです。 例え、たけし軍団から脱退しようと、体育会系の部活から退部しようと、世のすべての理不尽から逃れることはできません。 どんな学校へ通おうと、どんな会社に就職しようと、自営業をしようと、100%自分の思い通りになるストレスの無い人間関係を築くのは不可能なのです。 もちろん半殺しが良い訳ではありません。 しかし、他人がどうであるかは関係なく、自分自身の「理不尽への耐性」高めておけば乗り越えられるハードルは多くなる、と私はそういう意味の言葉と捉えました。 その方法論は人それぞれで、たけしさんの方法が唯一では無いと思いますけどね。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

"結局「チンピラ気質」を持つ人間が良いと云う事なんでしょうか?"       ↑ そうじゃないです。 雑草のようなたくましさを持て、といいたいのです。 現代の子供は、産まれた時から豊かですから 経済的な辛苦を経験していません。 また、少子化で、親が腫れ物を触るような育て方 をしてきました。 兄弟もいませんから、兄弟同士でケンカするなどの 訓練も積んでいません。 社会も国家も、やれ子供の人権云々で腰が引けています。 だから精神的に脆いのです。 昔の子は、殴られ蹴られ、貧乏に喘いで育ちました。 だからたくましくなります。 そういうたくましさが無い、といいたいのでしょう。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8895)
回答No.1

かみ合わないかもしれませんが、私は当面の課題を解決できる工夫する力がいちばん大切かと思っています。少なくとも状況の変化にいろいろ工夫して対処できる力を養うことが生き残るだけでなく生き生き生きていくために大切なものではないかという風に思います。これからは特に便利な機械が出てきて今までの職種が存在できなくなるというようなことがしばしば起こりそうに思います。機械は工夫ができませんから、人が勝てるのは工夫だけです。

noname#250543
質問者

お礼

遅くなって申し訳ありません。 ご回答有難うございました。 》かみ合わないかもしれませんが、私は当面の課題を解決できる工夫する力がいちばん大切かと思っています。少なくとも状況の変化にいろいろ工夫して対処できる力を養うことが生き残るだけでなく生き生き生きていくために大切なものではないかという風に思います。 頷ける話です、暴力とかではなく人付き合いも工夫が必要だと思います。

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    「最近は厳しい指導がやりにくい世の中になった。先輩・後輩の厳しさの中から我慢を覚えることで、社会に出た時、理不尽なことに遭遇しても、耐えられる人間を育めると思うんです」 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180731 … 体罰容認派の人とかってこういう感じのことを言ったりしますね。 「学生時代に部活で理不尽なことに耐えていたから社会に出てから理不尽なことをされても耐えられる。」 これが体罰容認の根拠みたいんですが、そもそも社会に出てから理不尽なことをされたら耐える必要あるんでしょうか? 働きだしてからの理不尽なことってセクハラとかパワハラとかサービス残業とかですかね?代表的には。まあ他にもあるんでしょうが。 こんなもんを耐えることに何のメリットあるんでしょうか? こんなのされたらさっさと逃げて訴えて金を取ればいいじゃん。 労基署なり警察なり裁判所なり、頼れるところはたくさんあるんだから一人で耐え続けるメリットが全く思い浮かびません。 それとも学生時代に先輩に殴られてたら社会人になったら金をもらわず残業しつづける狂人にでもなれるんでしょうか? 質問ですが (1)社会で遭遇する理不尽なことってそもそも耐える必要あるんですか? たとえば 「お前は後輩なんだから先輩である俺の引越しを手伝え。土曜日、あけとけよ。もちろん無償でやれや。」 こんなかんじですか?理不尽なことって。こんなもん耐えます? これは理不尽だなと思ったら耐えずに逃げて訴えればいいんじゃないですか?理不尽なんだから。 耐える意味も根拠もないから理不尽なわけですから、そんなもんにいちいち付き合ってあげるのも無駄ですし。 理不尽なことを耐えて何かメリットありますか? (2)厳しく部活をやっていたら社会に出ても耐えられるっていうのはどうなることですか? 部活で先輩に理不尽に殴られて厳しく練習してきた人だったら、サービス残業しまくりとかセクハラされまくりの会社でも働き続けられるんですか? 単なる奴隷以下ですね。奴隷でもまだ反抗はしますよ。

  • 暴力性が無い時点で軟弱者で生きていく資格がない?

    30代男性です 喧嘩や苛めは嫌いでした 別に非行の問題も起こしませんでした そして、別に売国奴でもなく日の丸 君が代反対でもありません 唯、超えられない軟弱者なんですね 或る教師が(その教師も荒れていた時期があったらしい)不良は「自分の力では適わん」と思った時に 云う事を聞く、だが内申点の為に作り笑い出来る生徒より素直であると云われておりました。 そして、不良達に大した理由もなく殴りこの人は叶わないと思い、信頼関係が生まれ、受け入れていく 今体罰がうるさくなったので出来ないと云われております。 私は、完全な体罰否定派でもありませんが、学生時代も別に暴れてみたいとかと云う気持ちはありませんでした 基本的な処は怖い教師でも普通の教師でも聞いておりました、 その様な「理屈の正しさ」で判断するので軟弱者なんですね? 不良の方がこの人と思うと従うので部活動では鍛えがいがあり、社会でも使えるのですね? 又、いじめや暴力をするが、怖い存在があるので抑えられるという方がいじめ暴力嫌いと云う人間より、そのエネルギーがあるので使えると云う事なんですね? 私の同級生に「暴れてみたい」気持ちがあった 普通の教師が宿題の提出や私語を注意したことに反抗していたが、 怖い運動部の顧問に「この人は叶わない」と思い、枠組みに入り、怖い先輩等において礼儀忍耐も身に着け、そのはけ口に後輩やクラスの大人しい子を適当にいじめたりしていたが、怖い存在があるので大荒れには成らずにすみ、そこに愛情もあるが顧問先輩に理不尽さを(私は理不尽と思うが彼は思っていない)受け入れ、忍耐と処世術を学んだと云う事でした。 私は別に暴れてみたい気持ちは無かったので、彼がされたことをされると「場違い」と思い、その組織には近づかなかったが、 昨年桜宮高校で体罰自殺の問題があり、誠に遺憾だと思いましたが、 私の同級生などはあれで初めて枠に入り感情がコントロールされているらしいです 例えばその様な気質のものが大半を占めると非道はしていなくても「いじめ 喧嘩 暴力嫌い」と云う人間が浮いてしまう様です 自衛隊の自殺もその様な感覚があるのでしょうか? 私はやる事はやるが、超えられない軟弱者で、越えるエネルギーが無い だから云う事聞かない、強いから従う、使えると云う事なんですね? 韓国の若者等はこの様な気質の者が多いのですね? 唯強く鍛えられるのは彼らの様な生き方なんでしょうか?

  • DQNは教育より調教に近いのでしょうか?

     学校で体罰は禁止されている事は法律で定められております。  唯、私としては「身の危険が伴う場合」や「再三口で言っても聞かない場合」  の体罰も教師完全悪と云うのも問題だと思いますし、問題生徒には体罰が駄目  ならば体罰に代わるペナルティー(教室に入れない 警察に逮捕させる)も必要  だと思います。  が、それを踏まえた上で、DQNと云われている人達は感覚が違うと云う事なので しょうか?  良く「叩かない親や教師が居たから今の子は駄目に成った」と云いますが、  昭和50年代に小学 中学時代を過ごした時、学校で暴れていた同級生の親は  むしろ「日常的に子どもに体罰(暴力)を行う」人が多かったです。  又「強気に出れば 通る(無理に通す)」「強いから一目置かれ、崇められる」  と言う感覚で、その様な姿勢が子に伝播している様でした。    そして、「校則を守り いじめをしない」と云う事は建前であり、  「強気に出る」と云う事を第一に置いており、  「この人は叶わないと思うと「善悪関係なく」従う」  「いじめを行うが強権な者によって「大荒れにはならず 表面上は纏まる」」  と云う事なのでしょうか?  この様な人種から私は「以上でも以下でも無い位置に居るのが気に食わない」  と云われました。  彼らは学校でも意味もなく喧嘩を売り、相手を制していく、  そこで叶わない強権な者の力で枠組みに入り、「この人は叶わない」と  云われ、始めて枠組みに入ると云う事なのでしょうか?  理不尽な暴力 ブラック企業の労働条件等問題が云われておりますが、  彼らが居た組織は学校側は理不尽な人間関係は否定しておりましたが、  むしろ彼らが理不尽な暴力や罵倒で周りを圧倒し、支配した気に成っておりまし  た。  彼らは罵倒や暴力で従わせないと「舐められたら負け」と思っている様でした。  故にこの様なタイプを従わせるのは、自分が叶わないと思う強権な者で  その様なタイプの云う事は理不尽でも従う、  そして自分より立場の弱い者に同じ事を行うと云う事なのでしょうか?  つまり、人間より動物に近く、調教に近いものなのでしょうか?  ご回答お願いいたします

  • 強面の教師は不良生徒の方を好む

    昨年11月の「テレビタックル」で「体罰について語る」で野々村直通氏の危険を知らない子にストーブの火を熱さを解らせる事は賛同できます、 又、授業妨害や反抗など明らかに生徒が悪場合も体罰完全悪と云うのは問題があるとおもいますし、、それに代わる罰則はあっても良いと思います。 たまたま私の学生時代も経験からですが、強面の教師は悪い事をして罰則にとどまらず、鍛えるとか気合をいれるとかと云う名目でも体罰を奨励しているような気がするし、いじめや反抗をしない生徒より、いじめ予備軍的な生徒を好んでいるように思います (その少し前にも「体罰」についての番組があり、「鍛える為に体罰は必要」と云っておられた方と「もしそこまでして強く成っっても負の部分が生じるので、疑問」と云った方が居られましたが、前者の考えなら強く鍛えるその為には多少理不尽でも仕方がないと云う事でした) 自分の怖さで従い、理不尽さも受け入れ、部外者に苛めを行うが、自分が居るので最小限に抑えられ、自分たちの横暴さには逆らうなと云う体制が好きそうであります (私は完全な体罰否定派ではありませんが、怖い暴力的な教師が顧問をする部の雰囲気はその様な感じであった そこにはそこの優しさや意義があると思うが、私は他で失礼な事をしてまで特定の人間に絶対服従等はできまえんでしたが、意味もなく暴れ怖さで枠組みに入り、その恩義を感じていく生徒はその顧問に感謝していると云う事でありました。 顧問側からすれば、私の様な生徒は害はないが超える精神を持たない軟弱者、後者の彼の様な形が鍛えられ強くでき、いじめ非行も最小限に抑えられるので望むべく生徒となるのでしょうか)

  • 理不尽なことを耐えて何かメリットありますか?

    「最近は厳しい指導がやりにくい世の中になった。 先輩・後輩の厳しさの中から我慢を覚えることで、社会に出た時、理不尽なことに遭遇しても、耐えられる人間を育めると思うんです」 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180731 … 体罰容認派の人とかってこういう感じのことを言ったりしますね。 「学生時代に部活で理不尽なことに耐えていたから社会に出てから理不尽なことをされても耐えられる。」 これが体罰容認の根拠みたいんですが、そもそも社会に出てから理不尽なことをされたら耐える必要あるんでしょうか? 働きだしてからの理不尽なことってセクハラとかパワハラとかサービス残業とかですかね?代表的には 「アポイント取れるまで帰ってくるな!!200件飛び込み営業してこい。それでだめなら300件でもいけ!」「会議資料作成するまで今日は帰るなよ。社内に泊まり込んでも今日中に完成させろ。」 こんなもんを耐えることに何のメリットあるんでしょうか? 学生時代に先輩に殴られてたら社会人になったら金をもらわず残業しつづける狂人にでもなれるんでしょうか? 質問ですが (1)社会で遭遇する理不尽なことってそもそも耐える必要あるんですか? これは理不尽だなと思ったら耐えずに逃げて訴えればいいんじゃないですか?理不尽なんだから。今は退職代行もありますし。 理不尽なことを耐えて何かメリットありますか? (2)厳しく部活をやっていたら社会に出ても耐えられるんですか? 部活で先輩に理不尽に殴られて厳しく練習してきた人だったら、毎日 「アポイント取れるまで帰ってくるな!!200件飛び込み営業してこい。それでだめなら300件でもいけ!」「会議資料作成するまで今日は帰るなよ。社内に泊まり込んでも今日中に完成させろ。」 こういう状況でもいけますか?

  • 戸塚宏氏の教育論とは?

    大阪桜宮高校の自殺事件で戸塚宏氏の発言が問題になっております 戸塚宏氏はじめスパルタ教育を推進される方の教育論は 1 喧嘩やいじめにより人間関係を学べ 2 喧嘩やいじめが嫌いな人種は軟弱者である だから常に争い上を目指せ 3 人間が暴走しない為に枠組(法律 憲法)は必要であるが 枠組に絶対者(天皇や首相の権限を強くする)を置き、絶対者にはどんな事でも従い、許容範囲のいじめ等は許され、又近隣諸国等へ攻撃する等の縦社会 忠君そして強い精神を作ることが出来るので、指導者からは一石二鳥である 私の同級生に幼少時から父親に「喧嘩で勝て強くなれ」「兎に角いわして来い」と云われた人間がおりました 彼は暴力三昧の部活動に入り、怖い先輩や顧問の云う事は聞き、枠組みに入るだけなら良いが、顧問や先輩の理不尽な事も受け入れ、おとなしい同級生等に「鍛えてやっている」とクラスで暴力や暴言をしておりました 彼は私が以上でも以下でもない関係でいることが腹が立つと因縁をつけて来ました 1戸塚宏氏はじめスパルタを推進される方は彼の様な生き方が理想なんでしょうか? 桜宮高校の問題も正しくは無いが、彼の様にしていると、顧問は批判されず、表面上は纏まると思います 2 私は酷いいじめ等口で言っても聞かない場合の体罰はまだわかりますが 組織では挨拶代わりに暴力三昧の所があります 又暴力三昧で育つと暴力が無いと軽く見て云う事を聞かず、暴力三昧で云う事を聞く様に成る、だから暴力三昧に成る 唯組織側としては、普通の以上でも以下でもない関係なら越えられない、暴力三昧強い者に服従の精神が越えられる強い精神を作ると云う事なんですね? ご回答宜しくお願い致します

  • 社会に出てからの理不尽な行為って耐える必要あるの?

    「最近は厳しい指導がやりにくい世の中になった。 先輩・後輩の厳しさの中から我慢を覚えることで、社会に出た時、理不尽なことに遭遇しても、耐えられる人間を育めると思うんです」 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180731-00000002-pseven-sp... 体罰容認派の人とかってこういう感じのことを言ったりしますね。 「学生時代に部活で理不尽なことに耐えていたから社会に出てから理不尽なことをされても耐えられる。」 これが根拠みたいんですが、そもそも社会に出てから理不尽なことをされたら耐える必要あるんでしょうか? 働きだしてからの理不尽なことってセクハラとかサービス残業とかですかね?代表的には こんなもんを耐えることに何のメリットあるんでしょうか? こんなのされたらさっさと逃げて訴えて金を取ればいいじゃん。労基署なり警察なり裁判所なり、頼れるところはたくさんあるんだから一人で耐え続けるメリットが全く思い浮かびませんが。 それとも学生時代に先輩に殴られてたら社会人になったら金をもらわず残業しつづける狂人にでもなれるんでしょうか? 質問ですが (1)社会で遭遇する理不尽なことってそもそも耐える必要あるんですか? これは理不尽だなと思ったら耐えずに逃げて訴えればいいんじゃないですか?理不尽なんだから。 (2)厳しく部活をやっていたら社会に出ても耐えられるっていうのはどうなることですか? 部活で先輩に理不尽に殴られて厳しく練習してきた人だったら、サービス残業しまくりとかセクハラされまくりの会社でも働き続けられるんですか?

  • 道徳は建前で 暴力性が本音を教える教育?

     私は、怠惰だった事もありますし、出来ていない事も多くありました。  だから、躾けられるべき存在であったと思います。  基本的な事は守り、非行や校則違反は行いませんでしたが、  怖い教師や先輩の居る 暴力三昧の組織等は入りませんでした。  だから、超えられない軟弱者なんですね?  私の同級生に普通の教師や同級生が夏休みの宿題を出せとか、立ち歩いて座れとか、  と云う事に反抗し、怖い教師の力で始めて枠組みに入り、怖い教師が気合を入れるとか  と云う体罰や白でも黒と云えと云うと従い、弱い者苛めをするが、怖い存在があるので  大荒れに成らず纏まると云う事でした。  怖い教師からすれば、彼の様な生徒は、気合を入れると殴っても受け容れ、  「超えられる強い精神を養う事が出来る」と云う事で目指す処には叶っている生徒になり、  私の様なタイプは「超えられない軟弱者」に成るのでしょうか?  例えば私と彼を比較してみると  授業中の私語を普通の教師が注意する  私 悪いと思って黙る  彼 反抗する  掃除をさぼった事で指導  私 当たり前の事と思い受け容れる  彼 気に入らないと暴れる  怖い教師に「最近たるんどるぞ」と体罰  私 不可解な事と思い受け容れられない  彼 有り難い 強いから受け容れ従う  とこの様な形でした。  社会では彼の様なタイプの方が鍛えがいがあるし、使えるのですね?  唯暴走してもらっては困るので、怖い存在を置き、怖い存在の理不尽さ(私は理不尽と思うが、彼は思わない)も受け容れ、弱い者苛めなどをするが、怖い存在があるので表向きは纏まり、鍛えられ強く成ると云う事なんですね?  私は、他で失礼な事をしてまで特定に人間に絶対服従できませんでした  唯これだと強く成れない鍛えられないと云う事なんですね?  体罰の問題、桜の宮高校等の問題私は遺憾と思いますが、  上述の彼の様なタイプは正しくないが案外この様な体制を受け容れ、そのはけ口を弱い処にぶつけ上手く(彼らの論理だけで)行っているようです。  企業等もこの手の感覚で渡っていくものが上手くいっている二でしょうか?(正しいとは思えません)  だから、社会の本音を教えるのが彼が所属した部活動や彼の様な精神で、 私は超えられない軟弱者なんですね?  ご回答宜しくお願い致します。