法華経の良医の譬えについてのおかしな点

このQ&Aのポイント
  • 法華経の良医の譬えにはいくつかのおかしな点があります。
  • 子供たちは薬の効能を理解していながらも、薬を飲むことを拒んでいました。
  • また、救いの思想について明確な説明がなされず、父である良医が亡くなった後は救いがないと語られています。
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法華経の《良医の譬え》をめぐって おかしな点

 まづ訳文でくだりの全部をかかげます。  ▲ (妙法蓮華経。如来寿量品第十六 現代語訳) ~~~~~  http://book.geocities.jp/petero_rom/details1015.html  (あ) 例えば、すべてに通達した智慧を持ち、良く薬を調合し、人々の病を治す良医があったとしましょう。その子供は多く、十人、二十人、百人といます。  (い) いろいろな因縁により、良医は他の国に行っておりました。その子供たちは、その間に毒薬を飲んでしまいました。その毒薬により、悶え乱れ、地を転げまわっております。  (う) その時、父は家に帰ってまいりました。子どもたちは、毒を飲んでしまったのですが、本心を失ってしまった者も、まだ、本心までは失わなかった者もいたのです。皆、遥かに父を見て大喜びし、ひざまずいて拝み、このように言ったのです。     『善くお戻りになられました。我らは愚かで何も知らず、間違えて毒薬を飲んでしまったのです。お願いですから、どのようにしたら治るか診察していただき、更に寿命を賜りたいのです。』と。  (え) 父が子どもたちを見ると、その苦悩は、諸経の色や香りの良い薬草を求め好んだことが原因であることがわかりました。そこで、それらをことごとく具足した薬を調合して、子供たちに与え、このようにおっしゃったのです。   △ (え-a)(坂本幸男訳) 諸の経方(処方箋)によりて 好(よ)き薬草の 色・香・美味を皆悉く具足せるを求めて 搗(つ)き篩(ふる)い和合して子に与え 服せしめて この言を作(な)せり。   『ここに、色、香、美味をことごとく具えた大良薬があります。あなた方はこれを服用しなさい。速やかに苦悩を除き、二度と衆の疾患に侵されることはなくなりますから。』  (お) その子供たちの内、まだ本心を失っていない者たちは、この良薬は色も香りも好ましいと見えたので、すぐに服用して、病をことごとく除き癒されたのです。  (か) 他の本心を失ってしまった者たちは、父の姿を見て大喜びして   『病を治す薬をお与えください。』  とは言ったのですが、その薬を服用することはなかったのです。なぜかと言えば、毒気が深く入り込み、本心を失ってしまっていたので、この色も香りも好ましい薬を、『美しくない』としか言いようがなかったのです。  (き) 父はこのように思いました。   《この子は、なんてかわいそうなのだろう。毒に呑み込まれてしまって、心が転倒してしまっている。ただ、わたしを見て喜び、救療を求めるのだが、この好薬を与えても服用しようとしない。わたしは、この薬を服用させるために、まさに、方便を説こう。》  (く) そして、このように言ったのです。   『お前たちは知っていると思うが、わたしは老い、衰弱して、それほど長くは生きられない。今、ここに、この良薬を留めてある。あなた方はこれを服用しなさい。憂いはなくなるから。』  (け) このように教えて、また他国に至り、『あなた方のお父様が、お亡くなりになられました。』と、使いを遣わされたのです。  (こ) この時、子供たちは父背喪(子どもらの思いに背き死す)の知らせを聞いて、心は大憂悩したのです。そして、このように思ったのです。    (こ-1) もし、父上がいらしたのならば、われらをこの苦悩からお救いくださるのに、今、我々をお残しになり、遠く他国でお亡くなりになってしまった。    (こ-2) わたしは、救いを求めてももはやないことが、はっきりとわかった。   (こ-3) そして、常に悲感を懐き、その悲観故に心は遂に覚醒し、この薬が色も、香りも、美味であることを悟ったのです。   (こ-4) すなわち、この薬を取り服用して、毒の病は皆癒されたのです。  (さ) その父は、その子がことごとく毒から離れたことを聞いて、子供たちのもとに帰ると言う使いを遣わせたのです。  (し) 善男子よ。意味に於いて問いましょう。この良医は、虚妄の罪に問うべきでしょうか。」  (す) 「いや、お釈迦さま。意に於いてその罪はありません。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おかしな点についての問いです。  (せ) ▲ (こ-3) 常に悲感を懐き、その悲観故に心は遂に覚醒し  ☆ と言うのなら その《覚醒》ですでに《毒気から癒された》のではないか? 薬を飲む必要はもはやないではないか?  (そ)  あるいは(か)がおかしい。《本心を失った子どもら》は 《癒す薬が欲しい》と言っている。ならば 本心をかすかにでも保っている。  (そ-1) それでも 薬を欲しがったという事実だけを受け留めて話をたどるなら そこでそれでも良医たる父の処方した薬を飲まなかったと言う。  ▲ (か) ・・・なぜかと言えば、毒気が深く入り込み、本心を失ってしまっていたので、この色も香りも好ましい薬を、『美しくない』としか言いようがなかったのです。  ☆ ぢゃあ 父に向かって《つくってくれた薬は うつくしくありません》ときちんと言えばいいぢゃないか?  (そ-2) それを ▲ (き) 父は 《この子は、なんてかわいそうなのだろう。・・・》と思った  ☆ と言う。(お)で《本心を失っていない子ら》は 飲んで毒気から癒えたというのに。おかしかないだろうか?  (そ-3) もし本心をわづかにでも保っていたとしてもなお毒気(これは 実際には思想ないし他のシュウキョウのことらしい)に当たって《心が転倒している》という事情があると見るとすれば どうなるか?  (た) だとしたら 薬を飲んで癒えた子どもらと一緒に良医たる父は その薬――じっさいには救いの思想のこと――の成分や効能をしらべて科学的に説明すればよいし 思想やオシへであるならそれらについて そのマチガイを指摘し批判をすればよい。  (ち) (こ-3)で父が亡くなった今となっては救いがないとさとったと言う。その悲観ゆえに 《覚醒》したというのであれば そのことは 父である良医がいるときには それに甘えて頼り切っていたのだと見られる。だとすれば 父のくれた薬を 少々《うつくしくない》と見えたとしても やっぱり飲んでみるのが ふつうである。飲んだ子どもらもいるのだから。  ――つまり 話が矛盾している。話の中身の設定がまづいのであろうと考えざるを得ない。のでは?  (つ) ホワイト・ライについては質問者からは問いませんが 問題は どうも《薬がどんな薬か ないし その医者が名医であるかどうかの中身》に行き着くのではないか?  つまり ゴータマは その――つまりは《さとり》の――中身については何も語らず明らかにしないし せずじまいであったということ。ここに一切の問題があるのでは?

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  • ks5518
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回答No.1

>☆ と言うのなら その《覚醒》ですでに《毒気から癒された》のではないか? 薬を飲む必要はもはやないではないか? ・こ-3の段階では、本心を取り戻したが、薬の服用はまだしておらず、こ-4に至って薬の服用により治癒したのではないでしょうか。 >(そ)  あるいは(か)がおかしい。《本心を失った子どもら》は 《癒す薬が欲しい》と言っている。ならば 本心をかすかにでも保っている。  (そ-1) それでも 薬を欲しがったという事実だけを受け留めて話をたどるなら そこでそれでも良医たる父の処方した薬を飲まなかったと言う。  ▲ (か) ・・・なぜかと言えば、毒気が深く入り込み、本心を失ってしまっていたので、この色も香りも好ましい薬を、『美しくない』としか言いようがなかったのです。  ☆ ぢゃあ 父に向かって《つくってくれた薬は うつくしくありません》ときちんと言えばいいぢゃないか? ・そのばで言えばね。  (そ-2) それを ▲ (き) 父は 《この子は、なんてかわいそうなのだろう。・・・》と思った  ☆ と言う。(お)で《本心を失っていない子ら》は 飲んで毒気から癒えたというのに。おかしかないだろうか? ・たとえ他の子供が服用し治癒したとしても、それすらまともに開けとめられないほど病んでいたのではないでしょうか。  (そ-3) もし本心をわづかにでも保っていたとしてもなお毒気(これは 実際には思想ないし他のシュウキョウのことらしい)に当たって《心が転倒している》という事情があると見るとすれば どうなるか? ・・・・ >(た) だとしたら 薬を飲んで癒えた子どもらと一緒に良医たる父は その薬――じっさいには救いの思想のこと――の成分や効能をしらべて科学的に説明すればよいし 思想やオシへであるならそれらについて そのマチガイを指摘し批判をすればよい。 ・その話が聞けるようであれば良いが、それすらも聞けないほど毒におかされているのではないですか。 >(ち) (こ-3)で父が亡くなった今となっては救いがないとさとったと言う。その悲観ゆえに 《覚醒》したというのであれば そのことは 父である良医がいるときには それに甘えて頼り切っていたのだと見られる。だとすれば 父のくれた薬を 少々《うつくしくない》と見えたとしても やっぱり飲んでみるのが ふつうである。飲んだ子どもらもいるのだから。  ――つまり 話が矛盾している。話の中身の設定がまづいのであろうと考えざるを得ない。のでは? ・でも、最終的には服用し治癒するのだから、父の目的は達成されたのでしょう。 >(つ) ホワイト・ライについては質問者からは問いませんが 問題は どうも《薬がどんな薬か ないし その医者が名医であるかどうかの中身》に行き着くのではないか?  つまり ゴータマは その――つまりは《さとり》の――中身については何も語らず明らかにしないし せずじまいであったということ。ここに一切の問題があるのでは? ・そうです。その通りです。ハッキリと『私は〇〇して仏になった。仏に成りたければ君らも実践せよ。』と言ってくれていたら良かったのかもしれません。 しかし、言っていない(法華経には書かれてはいません)。 もし、書かれていたら、像法・末法に生き抜く我々衆生はこうも苦労してはいなかったと思います。 ただし、法華経の中にはその仏になる『法』の存在と、釈尊成道の原因になった『修行』と、釈尊在世の正法ではなく末法万年に向けた布教を『地涌の菩薩』に託したことが書いてあります。その後、インド・中国・日本に渡り、様々な形で研究されています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (て)  ★ ・こ-3の段階では、本心を取り戻したが、薬の服用はまだしておらず、こ-4に至って薬の服用により治癒したのではないでしょうか。  ☆ たしかに 本心を失っていない子どもらは すすんで薬を飲みました。   (お) その子供たちの内、まだ本心を失っていない者たちは、この良薬は色も香りも好ましいと見えたので、すぐに服用して、病をことごとく除き癒されたのです。  ところが かれらはすでに自分たちが《毒薬を飲んだ》ということを知っていたのです。   (う) 我らは愚かで何も知らず、間違えて毒薬を飲んでしまったのです。  つまり 自分自身の自覚として言っています。  (て-1) つまり 問題は 薬とか毒薬とかいうとき それがふつうの薬を言っているのか それとも思想や宗教のことを譬えとして言っているのかです。  (て-2) たしかに薬そのもののことであれば 《本心を保っていて なお解毒剤としての薬を飲む》必要があります。けれども 思想・宗教のオシへの場合なら どうでしょう?   (て-3) もはや解毒剤の問題ではないはずです。なぜなら 本心を保っているのだし あとで出て来るように《覚醒》もしているのだからです。  (て-4) ですから  ★ こ-4に至って薬の服用により治癒したのではないでしょうか。  ☆ というのは 解毒剤の問題のばあいに限ってのことでしょう。言いかえると ブッダが 歴史をつうじてそれぞれの時代に応じて現われるといった思想・宗教の問題としてならば この《良医》は要らないわけです。  (て-5) 本心を失っていないなら だいじょうぶですし かなり失っていたとしても《悲観》の感覚を得てこれをとおして やはり本心を回復し覚醒をもする。と言っていれば 何の問題もないことになります。  (と)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >(た) だとしたら 薬を飲んで癒えた子どもらと一緒に良医たる父は その薬――じっさいには救いの思想のこと――の成分や効能をしらべて科学的に説明すればよいし 思想やオシへであるならそれらについて そのマチガイを指摘し批判をすればよい。  ・その話が聞けるようであれば良いが、それすらも聞けないほど毒におかされているのではないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問題が違うと考えます。  (と-1) なぜなら 薬(薬草など)についてなら 人びとは 試行錯誤をとおしてでもその効き目や毒性を学習していくはずです。そのことに何ら触れていないのは おかしい。  (と-2) 思想・宗教としての薬の問題だとすれば とうぜん人はその理論的な中身を吟味し検証するものです。その作業をやった形跡は いっさいない。おれ(良医=父)の処方なのだから 良薬であるに決まっている 飲めと言っているも同然です。自分がいなくなった状態に子どもらを置いて そのような《良医・良薬の決定説》を飲ませようとしているに過ぎません。  (と-3) もういちど言えば 思想やオシへの内容をきちんと把握しこれを――毒ならば――批判するという手続きを取る必要があるのに それをする気配がありません。たかが譬えの問題ではないかと言ったとしても おかしい。  (な)  すなわち・つまり  ★ (ち): ・でも、最終的には服用し治癒するのだから、父の目的は達成されたのでしょう。  ☆ と弁解したとしても その《目的の達成》のさせ方が おかしい。となります。なぜ自分(=父)の薬は 毒ではなく効き目がよいものだということは いっさい説明していないからです。  (な-1) 信頼関係に頼っていると言えば 聞こえはいいですが 哲学から見れば ただの盲目的追随をうながす非科学的な指導でしかありません。  (な-2) つまり 思想やオシへとしての薬の問題だとすれば どこまでも理論と実践が肝心のことがらです。それについての話は いっさいありません。おかしい。  (に)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・そうです。その通りです。ハッキリと『私は〇〇して仏になった。仏に成りたければ君らも実践せよ。』と言ってくれていたら良かったのかもしれません。  しかし、言っていない(法華経には書かれてはいません)。  もし、書かれていたら、像法・末法に生き抜く我々衆生はこうも苦労してはいなかったと思います。  ただし、法華経の中にはその仏になる『法』の存在と、釈尊成道の原因になった『修行』と、釈尊在世の正法ではなく末法万年に向けた布教を『地涌の菩薩』に託したことが書いてあります。その後、インド・中国・日本に渡り、様々な形で研究されています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ちょっと待ってください。  (に-1) 《法と修行と 末法の主役としての菩薩のこと》が書かれているのですか?  (に-2) 《地涌の菩薩》のことは書いてあります。《法・ダルマ》は そのようなダルマがあるといったことには触れています。真理だとかそういった概念としても触れています。ですが 実際にどう人間が体得したかは書いてありますか?  (に-3) つまり どう《修行》すればよいかが書いてありますか? 書いてあることを実践することによってダルマを体得したというさとりに到ったと書いてありますか? つまり 保証抜きの・予告編のごとき説明としての書き込みだけではありませんか? ゴータマは さとりという建築のための足場を築いただけではないのですか?  (に-4) ★ その後、インド・中国・日本に渡り、様々な形で研究されています。  ☆ 研究は自由ですが・また大いにやって欲しいところですが 問題は すべて言っていること・書いてあることが 大化城であるに過ぎないということです。すべては まぼろしです。  (ぬ) 二千数百年にわたって 人びとをペテンにかけている。だけではないのですか?

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