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石高
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AKZUQNAYRCO さん、こんばんは。 広さではありません。コメや畑の収穫物の収穫高ですね。秀吉は太閤検地は一反あたり、何石とれるかということで田畑の等級化を図りました。江戸幕府もこの方針を踏襲しています。 ちなみに一万石の大名が年貢を取り立てると4公6民で4,000石になります。 詳細は下記のURLを参照ください。 太閤検地 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0 石高制 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98
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石高そのものは収穫されたお米の玄米の状態での容積です。 1石=10斗=100升=1000合=約180l 教科書などででてくる大名の石高は領地の広さを知る目安とはなります。 同じ広さの土地でも条件が良くて沢山収穫できるところもあれば少ししか採れないところもありますので、土地の状態を上中下に分けていました。 面積1反300坪=約991m2当たりの収穫量の目安を次のように決めていました。 上田 1石5斗 中田 1石3斗 下田 1石1斗 上畑 1石1斗 中畑 9斗 下畑 7斗 屋敷 1石1斗 収穫に関係のない屋敷も含まれていることに注意して下さい。 畑は何を作っているかとは関係なくお米の量に換算していました。 これを逆算すれば村や領地の耕作地の凡その広さは推定できます。 当時は化学肥料がありませんでしたから、山林で採れる落葉や下草が重要な肥料でした。 従いまして耕作地の面積にこの山林の部分も含めて初めて村の面積に近い面積ということができます。 山林も標高の高いところは利用されませんので地図上の面積としては無駄な場所となります。 これ等を全部加えたものが大名の領地ということになります。 どれがどれだけかという正確な数値は分かりませんが凡その比較はできます。 山岳部の多い大名と平地が多い大名とでは、同じ石高でも治める領地の面積が違うということが起きます とは言え、石高の高い大名は広い領地を持っていて石高の低い大名は狭い領地を治めていたということは言えます。 大名領の石高と言いますのは、関ヶ原直後の石高が基準とされていました。 江戸時代は260年程度続きますから、その間にセッセと開墾して実際の石高(収穫量)が登録された石高よりも多いという人がいます。 典型的なのが津軽藩です。 当初は3万5千石だったのが幕末には10万石になっています。 この間に津軽藩の領地は一坪も増えていません。 又川越藩のように領主つまり大名が度々変わった藩もあります。 大名の格付けは石高で表しますので、大名が替わる度に川越藩の領地が広くなったり狭くなったりするということが起きています。 このように石高は大名どうしを比較するのには便利ですが、実際に治めていた領地の広さは直接的には分からないということになります。
お礼
回答ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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その土地で取れる米の量ですね 1石は米俵100俵ぐらいです 越後(新潟県)はさすがの米どころで 石高は130万石ですね
お礼
回答ありがとうございました。
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (812/3031)
文字通り米の収穫量です。1石=1000号≒180Lで一年間に一人が食べる米の量、100万石の藩であれば、100万人が食べていける収穫量がある領地を持つ藩ということを表しています。 よって尾張などの肥沃な地域であれば少ない面積でも多くの石高になりますし、北東北では面積が広くても大きな石高にはなりにくいです。 なお石高には面高と実高があり、名目的な石高が面高で、軍役の量や家の格にかかわり、実高は本当の石高、面高に比べ実高が高いほど裕福でその逆は財政が苦しいという傾向があります。
お礼
回答ありがとうございました。
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