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生活を微分したら 信仰のイメージがついて来る!?

 ひとの生活を微分したらどうなるか?  それが 非思考の庭――信仰なる動態――のイメージとなるのではないか?  《わたし》の生活を・思想を・存在を・人格を・人生をあたかも微分したら 信仰についてのイメージが得られるのではないか?  次の図式における《自然本性プラスα》が その信仰としての傾きであると。   ○ 《わたし》なる存在   [自然本性+α]:霊: 信じる:非思考の庭   -------------------   [自 然 本性]:心: 考える:思考の緑野   [同     上]:身: 感じる:感性の原野  すなわち 無神論なる信仰のばあいは 身と心から成る自然本性のほかには何も無いと信じる(無条件にそう受け容れる)のだと捉えるならその限りで――その無神論者の生活をあたかも微分すると――非思考の庭は フラットな横の一線になる。あるいはつまり おのれから等間隔に引いた線として 円になる。いや 球となる。球面になる。  その円周 いや球面というのは 理念としての思想である。自分のえらんだ言わば《義》としての信念である。その義を 存在意義としての義としている。    それに対して 有神論の信仰のばあいは――きよらかなおそれを抱くこととしてもイメージされると思うが―― けっきょくその生活や人格を微分しても結果は出て来ない。微分することは出来ない。カタムキが無い。頻繁にエポケーしている。その意味で不連続である。  先ほどの言い方に倣うならば 《義無きをもって義としている》。だから 円も球もない。  もしそれでもイメージを呼び起こそうと思えば この微分の結果というのは――変な恰好であるが―― 自然本性+αとしての霊つまりエーテルのようなものである。無神論者にとっての球面の代わりに エーテルのようなものとなる。  神を受け容れているひとには 《信念》が無い。《義》が無い。囲いが無い(心の明け)。能天気である。大道は無門である。  なお いわゆる宗教のオシエを《信じている》場合というのは――けっきょく《非思考》にはならず―― 思想としての信念たる義を抱いている。無神論者のタイプになる。無神論者はまだ柔軟である。宗教者およびその信者は その《わたし》が一個のボールのような固まりである。  神をいだく人は 囲いが無いから それらの《ボール》を目の前にしたら――野球のボールかバスケットボールかは知らないが――そのままを受け留め 往々にして受け容れてしまう。そのボールの軌跡の積分たる心に寄り添ってやりその中の交通渋滞をも受け容れあたかも引き受けてやってしまう。こうして 現代の病いが起きる場合がある。  たぶん現代ではない過去の時代と社会にあっては 互いにみんなでその内なる交通渋滞の受け容れや引き受けをおこなっていたのかも知れない。  これをなお問います。批判を歓迎しますが 賛成票をも気軽にどうぞ。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

B様、こんばんは。 >「生活を(微分)積分」 コトは、そんなに単純ではないのでは?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  ご回答をありがとうございます。

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  • 生活を微分したら 信仰のイメージがついて来る!?

     ひとの生活を微分したらどうなるか?  それが 非思考の庭――信仰なる動態――のイメージとなるのではないか?  《わたし》の生活を・思想を・存在を・人格を・人生をあたかも微分したら 信仰についてのイメージが得られるのではないか?  次の図式における《自然本性のプラスα》が その信仰としての傾きであると。   ○ 《わたし》なる存在   [自然本性+α]:霊: 信じる:非思考の庭   -------------------   [自 然 本性]:心: 考える:思考の緑野   [同     上]:身: 感じる:感性の原野  すなわち 無神論なる信仰のばあいは 身と心から成る自然本性のほかには何も無いと信じる(無条件にそう受け容れる)のだと捉えるならその限りで――その無神論者の生活をあたかも微分すると――非思考の庭は フラットな横の一線になる。あるいはつまり おのれから等間隔に引いた線として 円になる。いや 球となる。球面になる。  その円周 いや球面というのは 理念としての思想である。自分のえらんだ言わば《義》としての信念である。その義を 存在意義としての義としている。    それに対して 有神論の信仰のばあいは――きよらかなおそれを抱くこととしてもイメージされると思うが―― けっきょくその生活や人格を微分しても結果は出て来ない。微分することは出来ない。カタムキが無い。頻繁にエポケーしている。その意味で不連続である。  先ほどの言い方に倣うならば 《義無きをもって義としている》。だから 円も球もない。もしそれでもイメージを呼び起こそうと思えば この微分の結果というのは――変な恰好であるが―― 自然本性+αとしての霊つまりエーテルのようなものである。無神論者にとっての球面の代わりに エーテルのようなものとなる。  神を受け容れているひとには 《信念》が無い。《義》が無い。囲いが無い(心の明け)。大道は無門である。  なお いわゆる宗教のオシエを《信じている》場合というのは――けっきょく《非思考》にはならず―― 思想としての信念たる義を抱いている。無神論者のタイプになる。無神論者と宗教者およびその信者は その《わたし》が一個のボールのようなものである。  神をいだく人は 囲いが無いから それらの《ボール》を目の前にしたら――野球のボールかバスケットボールかは知らないが――そのままを受け留め 往々にして受け容れてしまう。そのボールの積分たる心に寄り添ってやりその中の交通渋滞をも受け容れあたかも引き受けてやってしまう。こうして 現代の病いが起きる場合がある。  たぶん現代ではない過去の時代と社会にあっては 互いにみんなでその交通渋滞の受け容れや引き受けをおこなっていたのかも知れない。  ご見識をさらにたまわりたいと存じます。

  • 生活を微分したら 信仰のイメージがついて来る!?

     (あ)  ひとの生活を微分したらどうなるか?  それが 非思考の庭――信仰なる動態――のイメージとなるのではないか?  (い) 《わたし》の生活を・思想を・存在を・人格を・人生をあたかも微分したら 信仰についてのイメージが得られるのではないか?  (う) 次の図式における《自然本性プラスα》が その信仰としての傾きであると。   ○ 《わたし》なる存在    [自然本性+α]:霊我: 信じる:非思考の庭(ヒラメキ)    -----------------------    [自 然 本性]:精神: 考える:思考の緑野(コギト)    [同     上]:身体: 感じる:感性の原野(直感)  (え) すなわち 無神論なる信仰のばあいは 身と心から成る自然本性のほかには何も無いと信じる(無条件にそう受け容れる)。こう捉えるならその限りで――その無神論者の生活をあたかも微分すると――非思考の庭は フラットな横の一線になる。あるいはつまり おのれから等間隔に引いた線として 円になる。いや 球となる。球面になる。  (お) その円周 いや球面というのは 理念としての思想である。自分のえらんだ言わば《義》としての信念である。その義を 存在意義としての義としている。    (か) それに対して 有神論の信仰のばあいは――きよらかなおそれを抱くこととしてもイメージされると思うが―― けっきょくその生活や人格を微分しても結果は出て来ない。微分することは出来ない。カタムキが無い。頻繁にエポケーしている。その意味で不連続である。  (き) 先ほどの言い方に倣うならば 《義無きをもって義としている》。  だから 円も球もない。もしそれでもイメージを呼び起こそうと思えば この微分の結果というのは――変な恰好であるが―― 自然本性+αとしての霊つまりエーテルのようなものである。無神論者にとっての球面の代わりに エーテルのようなものとなる。  (く) 神を受け容れているひとには 無神論者の抱いていると思われるところの《信念》が無い。(固まった信念はないのである)。《義》が無い。心に囲いが無い(心の明け)。大道は無門である。もっと言えば 能天気である。  (け) なお いわゆる宗教のオシヘを《信じている》場合というのは――けっきょくオシへは言葉で表現されているからには考えるものであり 《非思考》にはならないので―― 思想としての信念たる義を抱いている。無神論者のタイプになる。無神論者と宗教者およびその信者は その《わたし》が一個のボールのようなものである。  (こ) 神をいだく人は 心に囲いが無いから それらの《ボール》を目の前にしたら――野球のボールかバスケットボールかは知らないけれど――そのままを受け留め 往々にして受け容れてしまう。そのボールの積分たる心に寄り添ってやりその中の交通渋滞をも受け容れあたかも引き受けてやってしまう。こうして 現代の病いが起きる場合もある。  (さ) たぶん現代ではない過去の時代と社会にあっては 互いにみんなでその心の交通渋滞を受け容れてやり引き受けてやっていたのかも知れない。  現代の人間論についてさらにご見識をたまわりたいと存じます。

  • 生活を微分したら 信仰のイメージがついて来た!?

     1. ひとの生活を微分したらどうなるか?  それが 非思考の庭――信仰なる動態――のイメージとなるのではないか?  2. 《わたし》の生活を・思想を・存在を・人格を・人生をあたかも微分したら 信仰についてのイメージが得られるのではないか?  3. 次の図式における《自然本性プラスα》が その信仰としての傾きであると。   ○ 《わたし》なる存在    [自然本性+α]:霊我: 信じる:非思考の庭(ヒラメキ)    ---------------------------    [自然本性]:精神(心): 考える:思考の緑野(コギト)    [同  上]:身体(身): 感じる:感性の原野(直感)  4. すなわち 無神論なる信仰のばあい――《神を信じない すなわち 無い神を信じる》場合――は 身と心から成る自然本性のほかには何も無いと信じる(無条件にそう受け容れる)。  5. こう捉えるならその限りで――その無神論者の生活をあたかも微分すると――非思考の庭は フラットな横の一線になる。あるいはつまり おのれから等間隔に引いた線として 円になる。いや 球となる。球面になる。  6. その円周 いや球面というのは 理念としての思想である。自分のえらんだ言わば《義》としての信念である。その義を 存在意義としての義としている。  7. つまり 無神論者の理念は 互いに対等なる等距離外交である。    8. それに対して 有神論の信仰のばあいは――きよらかなおそれを抱くこととしてもイメージされると思うが それを措くとして―― けっきょくその生活や人格を微分しても結果は出て来ない。微分しがたい。カタムキが無い。頻繁にエポケーしている。その意味で不連続である。飛び飛びである。  9. 先ほどの言い方に倣うならば 《義無きをもって義としている》。    10. だから 円も球もない。もしそれでもイメージを呼び起こそうと思えば この微分の結果というのは――変な恰好であるが―― 自然本性 + α としての霊つまりエーテルのようなものである。無神論者にとっての球面の代わりに エーテルのようなものとなる。  11. 先ほどの等距離外交なる方針に照らし合わせるなら 《大道は無門である》である。神を受け容れているひとには 無神論者の抱いていると思われるところの《信念》が無い。(固まった信念はないのである)。《義》が無い。心に囲いが無い(心の明け)。無門。もっと言えば 能天気である。  12. なお いわゆる宗教のオシヘを《信じている》場合というのは――けっきょくオシへは言葉で表現されているからには《考える》ものであり 《非思考》にはならないので―― 思想としての信念たる義を抱いている。つまり 無神論者のタイプになる。  13. 無神論者と宗教者およびその信者は その《わたし》が一個のボールのようなものである。  14. 神をいだく人は 心に囲いが無いから それらの《ボール》を目の前にしたら――野球のボールかバスケットボールかラグビーボールかは知らないけれど――それぞれそのままを受け留め 往々にして受け容れてしまう。  15. そのボールの――精神の遍歴としての歴史の――積分たる心に寄り添ってやりその中の交通渋滞をも受け容れあたかも引き受けてやってしまう。こうして 現代の病いが起きる場合もある。起きなくても 受け身でありアース役に成っている。  16. たぶん現代ではない過去の時代と社会にあっては 互いにみんながみんなで人びとそれぞれの心の交通渋滞を受け留めあっており 相身互い身 引き受けてやっていたのかも知れない。心のモヤモヤは 分散し稀薄となっていたかも。  17. 現代ではそのような人びとの互いのきづなが ほどけて来たのか。あるいは 朽ちて来てしまったのだろうか。分散・稀薄化がとどこおった。か。  18. ここでは 有神論および無神論としての信仰の視点を推し出しまた切り口としていますが 現代の人間と社会についてさらにみなさんからご見識をたまわりたいと存じま す。  19. ただし質問者として納得の行くまで問い返しつつ問い求めをすすめてまいります。  20. 取りあえずは ご自身の生活を微分してみてはいかが? といったおすすめになっていますが その点についてはどうでしょうか?

  • 信仰は どんな得があるか?

     1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。  2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。と言われる得がある。  ☆ ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたたき台の考え方を述べます。  A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。  3. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》と呼ぶようである。  4. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。  5. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミターユス(阿弥陀仏)やらマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世界を超えたところのナゾであることに変わりない。  6. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。  7. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いともわれわれは知り得ない。ゆえにである。  8. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓で触れられているかにも思われる。  9. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは《無い神》と捉えて(想定して)開いている。  10. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの心の明けもしくは伸びとして考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》ということが肝心であろうと思われる。  11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人は判断し決めることになっている。これが 信仰である。  12. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか それともその逆かである。  13. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたかもカミとしてのごとくただ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であったりする。そのような曖昧な信仰という形式の場合が考えられるのみである。  B 信仰は真理を知ることができると言うのは どういうことか? そこにどんな得があるか?  14. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つまり《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとしてのように持つ。  15. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえいる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観としてのヒラメキもある。  16. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。  17. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われることである。むろん主観である。  18. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味で《現世利益》である。  19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。  20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。  21. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということではないだろうか?  22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。  23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。  さていかがでしょう

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

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     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。

     たたき台を述べます。自由にフルボッコでたたいてください。  《非思考の庭(信仰)》は 誰からも・何ものからも 汚され得ない。  なにしろ 《思考に非ず》なのですから 内からも外からも人間がその知恵やチカラでどうにかしようとしても出来るものではなく 出来たと仮りに思ったとしても 何も出来ていないし 出来たと思ってみたところで何にもならない。  《神は死んだ》という人間の発言は 信仰を知らない。    《神は生きている》と人間が発言したところで 神が変わるものではない。  信仰は ただただ 神――しかもその名〔のみ〕――をわが心に受け容れる行為である。  (受け容れないと言っても 同じことである。心には その拒むことにおいて・指先がかろうじて触れたかのごとく 触れた恰好であり そこに非思考の庭が成っている)。  受け容れるのは 人間のおこなう意志行為である。  何を受け容れるかと言えば それは まったくのナゾである。  このナゾを 神とか霊とかと 昔から言って来た。分からないから そんな言葉を使うということだ。  つまり重ねて述べるなら この《神》も 人間がそのチカラでどうにかしようとしても 何一つ出来っこない。  (しかも 人間は 時として 自分がそうあって欲しいという中身を想像し考えてこれを神の像とする。おまけに をがんでさえいる。初めからそのような想像の神は 人間の思いやオシエとしては《生きて》いても 神としては死んだ状態にある)。  神および信仰は 人間の経験世界を超えている。  この非思考の庭なる神を どうして人間が汚すことが出来ようか? どうやって 貶(けな)すことが出来ようか?     内からも外からも どうにもすることが出来ないはずだ。  神の冒涜というのは 言葉の矛盾である。  これが 神である。これが 良心・信教の自由である。  無条件・無制約のもとに ひとはこのかみにあまえていけばよい。  まったく自由にというのは 神が経験合理性を超えており神とわれとの関係は思考に非ずということであり ならばあまえは 聖なるあまえである。何でも自由に願えばよい。それが 神である。名は何でもよい。《無い神》でもよい。

  • 信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?

    信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?  ないと考えるのですが ご見解をお寄せください。  有神論と同じ条件においてひとしく非思考の場で成り立つものだと考えるから 無いという現在の結論です。  ちょうど この非思考の領域において 唯心論と唯物論とが けっきょくのところ互いに同等の原理論であるというのと同じことだとも理解しています。  原理論という意味は 先験的に――あるいは 超越論的にというのでしょうか――そうであるという捉え方をする場合のことです。つまり 非思考の場のことです。  もし経験思考の世界においてでしたら 唯心論は 一般に精神世界すなわち心ないし観念の現象に対応するでしょうし 唯物論は 一般に質料(マタ―・もの)論としての世界認識に対応するのだと思います。  ・・・・・経験世界・・・・(経験思考)・・・・・・/ 非思考(超経験世界)  _____________________________________  モノ:内容(コンテンツ)・質料(マタ―・ヒュレ)・/第一質料=物質(マタ―)  心 :形式(フォルム)・・形相(フォルム・エイドス)/第一形相=世界精神  ☆ つまりは 物質というのと無神と言うのとは 同じことだと考えますし その唯物論=無神論は けっきょく対極の唯心論ないし観念哲学としての世界観と 非思考の場において兄弟のようなものだと見ます。どうでしょう?

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。