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中学 日本史平安時代~鎌倉時代

中学になって 小学校の時とはちがって 細かく習うようになり とてもおもしろく勉強しています 疑問に思ったのが 都を奈良から 滋賀 大阪 京都市 と簡単にうつす と教科書には書いてあるのですが 今で例えれば 首都があっちこっちにかわる事なんですよね? お引越しがすごく大変だったんじゃなかったのかな....と疑問に思いました それと 武士がでてくるころ よく○○の乱がおこる とありますが 平治の乱みたいに 都でけんかみたいに争いがはじまったら 住んいる人や子どもは巻き込まれたりしなかったのでしょうか? あと 武士って 自分から武士になりたい!といえば では明日から武士ね みたいにしてもらえるのですか? 戦いでもし 軍としては勝てても個人的に死んでしまったら 家族 奥さんや子どもはどうやって生活していくのですか? 今みたいに 保険なんてなかったんですよね?? いろいろ 細かい事が気になりました

noname#207941
noname#207941
  • 歴史
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回答No.4

近江(大津)から飛鳥、藤原京、平城京(奈良)、長岡京、平安京と、目まぐるしく 遷都していますよね。新しい土地に道路工事して屋敷建ててと、さぞかし大変 だったと思います。 乱が起こると、放火・強奪、強姦などがまかり通っていましたから、庶民は 逃げ惑ったでしょうね。古い映画で、黒沢明監督の「7人の侍」が参考に なると思います。ただ武士とは血筋が重要なので、明日から武士と名乗っても なれるわけではありません。

noname#207941
質問者

お礼

ありがとうございます 歴史の教科書はすごく簡単に 都をうつすだの 遣唐使を遣わすだの 書いてあるし 先生もさらっとながすので なんか不思議におもいました そうですよね 大変だったろうと思います ありがとうございます

noname#224207
noname#224207
回答No.3

都を移すのと同時に天皇のおられる皇居(御所)も移しています。 といいますか、天皇が住まわれて政治を執り行う場所や建物を移すことが遷都と呼ばれると考えられたほうがよろしいかとおもいます。 せっかくですので、奈良の都以前がどうだったのか見てください。 大化改新の頃には天皇は飛鳥板葺宮というところにおられました。 その後難波長柄豊崎宮、飛鳥川原宮、後飛鳥岡本宮、近江大津宮、飛鳥浄御原宮、藤原宮と何度も引っ越しをしています。 実はその前はもっと頻繁に引っ越していました。 参考 皇居 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/皇居 どう見ても首都を動かすというよりも、単に天皇家という一家の引っ越しと考えた方がよろしいでしょう。 このように気楽に引っ越していたのが、家族や家臣がどんどん増えてだんだん簡単には行かなくなってきました。 さらに自分の家の周りでけではなく、家臣や庶民が暮らす街そのものを移す必要が出てきました。 引っ越すとなると、皇居(御所)だけではなく新しい町づくりまで必要になってきました。 ということで平安時代以降明治維新まで引っ越すことはありませんでした。 ただ平安時代の終わりごろに平清盛が無理やり神戸の福原に引っ越させましたが、大クレームがついて直ぐに京都へ戻りました。 明治維新で天皇は東京に移りましたが、京都に御所を残したまま、江戸城を改装してお住いになられました。 現在の姿です。 都が戦場となったので有名なのが応仁の乱です。 住人は避難しましたが規模が大きかったために、逃げ遅れた女性も子供も巻き込まれました。 ただ現在の都市部でのゲリラ戦のように直接住人が被害を受けるような戦というのは明治時代までありませんでした。 一番被害が大きかったのは、火災によるもらい火です。 武士同士が目的とした建物に火を付けたトバッチリで民家も燃えてしまう、ということがしばしば起きました。 平治の乱の時もあちらこちらに火がつけられましたが、街全体が延焼するということはありませんでした。 ただ気の荒い連中が入ってきますので、ウロウロしていると強盗に襲われるようなことはありました。 勝手に武士になってはダメ!と言いだしたのは豊臣秀吉です。 それまでは、オレは武士だと言えば武士になることはできましたが、別にメリットはありませんでした。 現在で言えば暴力団員のようなものです。 誰かの手下になる必要がありました。 秀吉も元々農民でしたが、勝手に信長の家来になって結果的に武士になりました。 まぁ~自分までは良かったけれど後の人はダメと決めたということです。 戦で勝って、自分が仕える親分が面倒見がよければ、奥さんや子供の面倒はみてもらえました。 面倒見が悪い親分だったら、知らん顔をされて放り出されてしまいました。 戦に勝ちそうで、面倒見もよさそうな親分を探す必要がありました。 ここで面倒なのが源氏や平家と呼ばれる人達です。 これは血縁のある一族ですから、室町時代までは、勝手にオレは源氏だ平家だとは言えませんでした。 証拠を見せろとやられてしまいます。 源氏も平家も初代は天皇の子供でした。 兄弟が天皇を継いだので自分はなれなくなって、天皇家から外へ出て、「源」とか「平」という苗字で天皇の家臣として仕えるようになった人です。 国司になって国を治めたり、御所の警護に当たるなどしていました。 時には朝廷の命令に従わない人達の征伐に出掛けました。 このために、どんどん武力を蓄えるようになって武士と呼ばれるようになりました。 江戸時代のお侍さんの「侍」というのも「さぶろうもの」つまり仕え従う者という意味です。 この武装した子孫が全国各地に住み着いてその土地の治安維持を請け負っていましたが、やがて自らが統治するようになりました。 このように、源氏や平家という武士と、秀吉のように勝手に潜り込んで武士になった人と二種類の武士がいたと考えて下さい。 戦国時代に完全に見分けがつかなくなりました。 織田信長も自称平氏です。 徳川家康も自称源氏です。はじめのうちは藤原氏を自称していましたが途中から変えました。 反論するのにもお互いに証拠がありませんから、そのまま通ってしまいました。 以上大雑把で分かり難かったと思いますので、遠慮なく補足質問をして下さい。

noname#207941
質問者

お礼

ありがとうございます 歴史っておもしろいですが 教科書通り進めようと思うとさらっと流すしかないので 時間のある時にゆっくり勉強したいです 源氏と平氏は桓武天皇が子どもをたくさーーーんつくったから そこから分かれていった というのをきいたことあります やっぱり都ってほんとに都ごとお引越しが必要だったんですね 当時から引越しセンターみたいなお仕事をされていた人がいたのかな?とまた考えてしまいました 春休みに奈良に行くので 聖徳太子を感じてきます ありがとうございます

回答No.2

引越しには予算が必要で、予算が確保できなくて遷都を断念したり、途中で建設が中断されたこともあります。天皇は政治のトップであり、同時に宗教の中心でもありました。戦乱や疫病などが続くと、占いを頼ったりして縁起の良い方角に遷都し、国の平和を願ったりしたものです。現在では馬鹿らしいと思われる発想ですが、当時治しては真剣に考えた結果の結論だったのです。 自衛隊員に給料が支払われるのと同じく、武士にも給料が必要です。古代の日本は貴族が武士に給料を払って雇っていたのです。嘘をつかずに、必ず給料を払ってくれる貴族に人気が集まるのは当然の流れになります。広い領地を持って、そこから税を取る権力を持っている貴族には武士がたくさん集まってきました。負ければ。その貴族も財産を失くしてしまうので、一気に勢力を落とすことになります。 源氏や平氏みたいな一族は、元は天皇の血筋を引く、貴族の子孫でした。このような家系は代々武士を続けることになります。その頃は武士だけが戦っていました。その後は農民が農作業のない季節(農閑期)に、臨時で戦場に借り出されることがありましたが、農作業を再開する季節になると、農民は田畑に帰らなければなりません。ですので戦は農閑期に決着がつかなければ、一旦休戦するか、そのまま立ち消えになることもありました。 関が原の戦いなどは、農民に被害が及ばないようにと、農閑期に戦をし、田畑を踏み荒らすことのないように配慮しました。でなければ、戦に勝ったとしても民衆の支持を得られないからです。結局、領地から税(年貢)を取らなければ武士は生活できなかったのです。武士は農民の人気を気にしていたのです。 秀吉が身分統制令を発して、職業選択の自由を奪ってしまった後は、職業を選ぶことはできなくなりました。例外は僧侶で、これは誰でもなれたそうです。秀吉自身が身分の低い家系の出身でしたので、自分の辿った人生を、後の者が続くことを禁止したのです。つまり、戦国時代の下剋上を失くしたのです。 想像ですが、戦で主人を失くした家族は悲惨だったと思います。しかし、今のようにお金がなければ生活できないという世の中ではありませんでしたので、農村に逃げ延びるなどして、何とか生きていくことはできたのではないでしょうか。当時の平均寿命は30歳前後、50歳で長老でしたので、苦しい生活も長くは続かなかったと思います。

noname#207941
質問者

お礼

ありがとうございます お兄ちゃんの高校生の時に使っていた教科書と私の中学の教科書はまた全然違いますね 小学校の歴史なんか ほんとに骨組み?みたいな内容ですね 中学の教科書ではあんまり細かいことはかいてないのでゆっくりじかんのある春休みに勉強していきたいです 本当に怨霊のしわざとして都をかえるなんてすごいですね それをよんで 安倍晴明を知りました ホントかな??と思うところはおおかったですが興味深くよめました 春休みに奈良に遊びにつれていってもらえるので 聖徳太子をしっかり勉強してたのしんできます いろいろ教えてくださってありがとうございます 勉強になります

回答No.1

都を移すのは遷都といいます まぁ天皇の住む場所が変わる事ですが 別に前の都の人が全員付いていくわけでもありません 例えば平城京から長岡京に遷都したときも平城京から天皇について行ったのはごく一部の富裕層・天皇の側近、従者・そして天皇マニアの人々です 遷都先の長岡京にも住んでる人は居ましたしね 確かにものすごい労力とお金が掛かりますが 当時の遷都は天皇の権威誇示と言う意味もあったので多少の労力をおしてでもおこなう意味は有ったのです 都で争いが起これば住民は巻き込まれます 古今東西 都で戦となったとき略奪や強姦は戦の褒美として黙認されていたのです だからこそ木曽義仲の時代から武士は都にあこがれたのですね ちなみに都での乱暴狼藉を禁止したのは織田信長です 武士は武士になりたい と言ってなれるわけではありません 当然あるじとなる武士(領主や大名)に仕官を申し出て雇ってもらう必要がありました あ もちろん自分で勝手に武士を名乗って活動することは出来ましたよ そういうのを野武士と言います で近くで起きた戦に参加して手柄を立てて雇われた野武士もたくさんいました 死んじゃったら まぁ名のある武士ならそれなりに家族の生活も保障されましたが 足軽とか名前も知らないような武士の家族は生活できないので まぁ寺に入ったり 別の人と再婚したり 色々大変でした

noname#207941
質問者

お礼

ありがとうございます お引越しについて行った中に天皇マニアの人がいたんですか 大所帯のお引越しでたいへんだろうとはおもいました 織田信長がでてくるまで 巻き込みまくりだったんですね それは可哀想すぎです それで死んだりしたらやってられないです 野武士ってことばをはじめてしりました 春休みゆっくり歴史の勉強をたのしんで進めていきます ありがとうございます

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