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生と死について

kamisenbonの回答

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回答No.10

えっと私が勝手に思っていることですが回答しますね。 「何故?」とか「何のために?」ってことを考えるために大切な大前提は「意思(意志?)があること」じゃないかなと思います。 もっと言えば、意思をもつ神様か誰かが、あなたに対して使命を課しているのではないかという前提がありますよね? 面倒なのでそれを神様だとしましょうか。 神様がそういう使命をあなたに課しているのだとしたら、それは多分今あなたが生きていることそのものの中に組み込まれていると思います。だって神様は私たちにその使命に関して直接お話しされるような機会って今まで無かったですもんね?それを知らされていないってことはおそらく本能か何かにそれが組み込まれていて、生きていくうちにいつの間にか使命が果たされているのだろうと想像します。 実際のところそれが何かは分かりません。よく言われるように自分の遺伝子を子孫に伝えていくことかもしれませんし、そのほか思いもよらないことかもしれません。 それが何であれ神様が私たちに使命を課していると仮定するならば、きっとそれは「私たちは自分の人生を精いっぱい生きること」で果たされることなんじゃないかなと思います。 でも神様って本当にいるの?いたとしてもそんな神様の操り人形でいいの?ってことも正直思います。 でも、意思をもっているのは神様だけじゃなくて、私たち自身も持っていますよね。 だったら、神様なんているかどうかわからない存在に頼る以外にも、自分自身で生きる意味や目的を見出して生きていくという選択肢も選ぶことができそうです。せっかく私たちも意思を持って生まれてきたんだから、自分の人生の意味くらい、自分でつけたっていいのではないでしょうか。 自分の人生であれを達成したい、これもやり遂げたい、こんな人間になっていきたい…。多分キリが無いし、私たちが生きていくだけの時間では足りないんじゃないかなあ…。そのうち何とかなるさと悠長に構えて何か幸せが降ってくるのをただ口を開けて待っていてはほとんど何も達成できないのではないでしょうか。もっともっと、私たちは積極的にたくさんのことを成し遂げる必要があるんじゃないでしょうか。 そうなってくると、私たちがすべきことって結局は「自分の人生を精いっぱい生きること」に繋がってくるんじゃないかなと思っています。 これ、先ほどと同じですよね? 結局、誰がどう人生に意味を持たせようと、私たちがやるべきことは変わらないんじゃないのかなと思います。 何があっても自分の人生を精いっぱい生きること。結果例えその生き方を神様が認めてくれなかったとしても、自分で胸を張って「私の人生を生きて良かった!」と自分で認めてあげることができれば、それだけで人生の意味があるんじゃないかなと思います。 そうなれるようにお互い頑張っていきましょうね!

noname#211819
質問者

お礼

自分の人生を精いっぱい生きることで、おのずと生きる意味や生きがいというものが見えてくるのかもしれませんね。 回答ありがとうございます!

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