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昭和18年ごろの中国戦線。
太平洋地域での戦いはある程度分かるのですが、中国戦線の状況がさっぱり分かりません。 1943年(昭和18年)9月、イタリアが降伏しましたが、大本営は少なからず衝撃を受けたようです。 そこで、中国に対して講和後全面撤兵という方針も検討されたそうです。 当時(1943年ごろ)の中国戦線の状況や日本の方針を教えてください。 この当時、支那派遣軍は百万人ほどいたそうですが、何をしていたのですか。 占領地の警備が主たる任務ですか。 日本軍は、負けているとは思っていなかったでしょうが、勝てる見込みはあったのでしょうか。 よろしくお願いします。
- kouki-koureisya
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1943年3月5日に陸軍の方では「昭和18年度帝国陸軍総合作戦指導計画」ができています。 これにを簡単に説明すると戦略態勢を整え敵を撃破して敵国の戦意を喪失させるというものです。 中国に対しては占領地域を安定確保し好機が来ればインド東北部に対する積極作戦を行うというものです。 インド東北部は蒋介石の中国軍とアメリカ・イギリスを結ぶ補給ラインなわけで、それを絶とうという意図があります。 この後に陸軍としては海軍と話し合い太平洋方面では東部ニューギニアを放棄して戦線を縮小し守りを固めようという提案を行っていますが、海軍の反対でできませんでした。 既に他の回答者の方が回答していますが、1943年中の中国大陸での大きな作戦としては第11軍が主に中国南部で行いました。 2月~3月に江北で。中国の戦死者約8600人、日本の戦死者は約890人。日本が得た捕虜約2万3千人。 5月~6月に江南で。中国の戦死者約3万人、日本の戦死者は約770人。日本が得た捕虜約4200人。 11月~翌年1月に常徳で。中国の戦死者約2万9千人、日本の戦死者は約1200人。日本が得た捕虜約1万4千人。 このように日本軍は少ない被害で中国軍に大きな被害を与えています。 イタリア降伏後の1943年9月30日には大本営にて「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定します。 これは簡単に説明すると、1944年中期を目途にアメリカ・イギリスの進攻に対応できる体制を整えようというもので、特に航空戦力の急速増強をするとしています。 またその間、敵の反攻戦力も随時破壊するしています。 蒋介石の中国に対しては、「不断の強圧を継続」し、中国大陸方面からの空と海からの敵の攻撃を防ぎつつ、速やかに中国問題の解決を図るとしています。 この大綱に基づき大本営は10月7日に支那派遣軍から10個師団を抽出する内示を支那派遣軍にします。 10個師団のうち5個師団は南方へ送り、5個師団は大本営の直属予備兵力とするためです。 しかし、1943年11月25日に中国のアメリカ空軍が台湾を空襲します。 これに危機感を覚えた陸軍は中国大陸でのアメリカ空軍の活動を制圧する必要性を痛感します。 1943年12月に陸軍では戦略的見地からの「虎号兵棋演習」というシミュレーションを行いました。 この演習で太平洋方面は絶対国防圏で持久態勢をとります。 1944年4月までにインド東北部を押さえるインパール作戦を成功させます。 1944年11月までに中国軍主力に打撃を与え、中国南部の飛行場も破壊しようという「大陸打通作戦」を成功させます。 1945年は持久態勢を維持します。 1946年には太平洋方面で国軍全力を挙げての大攻勢をアメリカ軍に行うというものでした。 この「虎号兵棋演習」での結果から、長期戦を戦い抜くには中国大陸での足場の確保も重要との判断がされます。 そのため内示していた支那派遣軍からの兵力抽出は遅れる事になります。 そして1944年初めには「一号作戦」という中国大陸での敵空軍力壊滅を狙った陸軍の作戦が行われました。 1944年3月にはインパール作戦が開始され、4月には大陸打通作戦が開始されました。 しかし、アメリカ軍の戦力と勢いは日本の予想を遥かに超え、太平洋方面は持久できずに敗北を重ねました。 そして1946年に決戦しようという陸軍の構想は脆くも崩れました。 1943年末の時点では個人的な考えはともかく、「虎号兵棋演習」の結果が示すように陸軍としては敗北必至とは考えていなかったと思います。 ちなみに嶋田海軍大臣は日本の敗北を覚悟したのは1944年のマリアナで負けた時だと戦後に語っています。 1943年末の時点では日本の敗北必至と考える人はいたでしょうが、まだ望みを捨てていない人も多かったのではないかと思います。
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- mm058114
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兵力は、満洲等北方は動かさず、むしろ増強していました。 南方軍兵力が必要になると、支那派遣軍から、既存戦略単位団体(師団)を引き抜き、 新兵、召集兵を中国に送り、新団体の建設を行い、兵員数は確保しました。 これにより、実質戦力はダウンしています。 ゲリラ掃討作戦、警備により、新兵、召集兵を教育を実戦で行いました。 元々、支那派遣軍には、旧式兵器が多く配置されていましたが、 まず、数少ない一級品引き抜かれ、二級品までも引き抜かれています。 特化部隊、特に戦車、砲兵、車両、馬匹までが、引き抜かれ南方軍兵力増強に使われました。 だから、支那派遣軍は歩兵中心部隊となり、特化部隊は殆ど無くなりました。 ゲリラ掃討作戦、警備の他に、援蒋ルートの遮断の為の作戦を数回行っています。 驚くべきことに、戦線が傾き、戦力抽出されるこの時点においても、 支那派遣軍は一時的に内地部隊、満州部隊の一時租借による、 援蒋ルートの遮断の為の一大作戦を計画、大本営に具申しています。 これは、大本営により却下され、支那派遣軍内の兵力部所変換による作戦に切り替えました。 その他は、基本的に専守防衛でしたが、戦術的には勝利を重ねていました。 連合軍は、支那派遣軍100万を中国大陸に釘付けにして、 太平洋作戦を優位に進める戦略をとりました。 だから終戦時には、無傷な支那派遣軍100万は健在なまま、降伏しています。 これで回答になっているでしょうか??
お礼
ご回答ありがとうございます。 >だから、支那派遣軍は歩兵中心部隊となり、特化部隊は殆ど無くなりました。 >ゲリラ掃討作戦、警備の他に、援蒋ルートの遮断の為の作戦を数回行っています。 よく分かりました。 支那派遣軍の一員だった職場の先輩は、下っ端だったそうですが中国における“優雅な生活”をよく 聞かせてくれました。また、同じ職場にいた上海から引き上げてきた女性も上海は良かったと言って いました。 私は、本土にいて機銃掃射の下を逃げ回っていたのに、という思いで質問しました。
- eroero4649
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現在の湖北省、湖南省付近に展開していた第11軍が、江北殲滅作戦、江南殲滅作戦、常徳殲滅作戦というのを相次いで行いました。 これは中国本土の占領ではなく、中国(蒋介石)軍の撃破を意図したものです。軍を撃破することによって蒋介石の影響力が落ち、中国軍全体が崩壊することを期待したのです。 それぞれの作戦は軍事的には日本軍の完勝というか一方的勝利といってもいいようなものでしたが、迫りくるゾンビを次々と打ち倒すようなもので、キリがないというか、実質的に得るものはほとんどありませんでした。 また占領に関しては、地域を確保できても支配を維持するだけの兵力は確保できなかったので、結局「攻めてやっつけたものの、引き揚げたらまたそこに(敵が)戻ってくる」というもぐら叩きにしかなりませんでした。 >勝てる見込みはあったのでしょうか バイオハザードやっててさ、ゾンビを次から次へと撃ち倒していってもさ、ゾンビが湧くのが収まらなかったら「勝ち」なんてないでしょう?勝利条件がないのに、勝ちも負けもないですよ。 ちなみに、戦局の悪化に伴い本土が爆撃されることと、米軍潜水艦の跋扈で海上輸送路が危険に晒されていうることを受けて、実質的には米軍が進駐している航空基地の排除と中国陸路を使った日本本土との連絡線確保のために翌1944年に支那派遣軍は中国全土レベルの大規模な作戦である「大陸打通作戦」を行いました。 44年の日本軍ときたらかなり弱体化していたのは米軍もわかっていたし、蒋介石に対してはアメリカも相当武器供与もしていたので米軍も「ププ、サルがあがいてら」と思っていたのですが、軍事的には蒋介石軍は完敗してしまい、さすがの米軍関係者も「ちょっと、こいつら弱いにも程があるだろ」と絶句したそうですよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「もぐらたたき」の一言で全体の様子が分かりますね。 ある地域を占領できても武力で異民族を支配し続けることは容易ではない、ということがよく分かり ました。
- あずき なな(@azuki-7)
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満州防衛に戦力を割き過ぎた で 太平洋戦線がやばくなると中国から引き抜いて転用した 陸軍は反対したけど海軍が強硬に… 日本は援蒋ルートの遮断で中国を孤立させ降伏させるのが狙いでした
お礼
ご回答ありがとうございます。 満州防衛は関東軍の役目。 関東軍とは別に百万人ほどいた支那派遣軍は、いったい何をしていたのだろうという疑問です。
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