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中国では日中戦争についてどの様に教えられている

中国では満州事変以降の日中戦争についてどの様に教えられているのでしょうか、細かい推移はともかく、中共軍が連戦連勝で ついに日本を降伏に追い詰めたと教えられているんでしょうか?

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  • sudacyu
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回答No.6

No.5です。  コピーミスがあり、No.5URLをクリックしてもサイトが開きません。  以下の文のURLをクリックしてください。 <第一次世界大戦の日本の捕虜取り扱い>  日本は、第1次世界大戦で、ドイツ・オーストリアと戦い、捕虜4700名ほどが、大阪・兵庫・徳島などの捕虜収容所で暮らしました。 http://www.geocities.jp/kraumjp/reisenaruto2newpage7.html http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/08sisi/huryo.htm 捕虜に対して、給料が支給されて買い物もでき、収容所外への遠足があり、地元の住民から土地を借りて野菜などを自家栽培し、音楽界などを開いて地元民と交流しています。  捕虜に対して日本人よりも高い値段で物を売った人が処罰された例もあります。 <第二次世界大戦での捕虜の取り扱い例>  フィリピンのバターン半島における捕虜の移動 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2  辻正信参謀個人に、かなり責任を押し付けていますが、一人の人間の責任とすべき問題ではないと思われます。

A6M2-1941
質問者

補足

細かいところまでの配慮有難うございます。 大変良く判りました。重ねて御礼いたします。

その他の回答 (5)

  • sudacyu
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回答No.5

No.2です。 <日中戦争は日本の51勝1負1分けなどと言われる事がありますが、個別の戦争ではほとんど負けていない筈ですよね。>  戦闘能力の完全な喪失を防ぐことを第一に考えた国民党軍は、日本側が攻勢に出れば、撤退することが多かったようです。日本軍主力を内陸に引きずり込んでいく戦略ですから、個別の戦闘で占領地を奪回されるのが負けということなら、負けていないと言えます。 <日本軍の戦った主敵は国民党軍で共産軍(八路軍)と戦ったのはそれ程多くないように感じます。国共合作がどの程度実行されたのかも良くわかりませんし、当時の内容を理解するのは難しいです。>  国民党軍・共産党軍が、お互いを敵とせず、日本軍相手に戦うことを約束したというだけと考えてよいでしょう。  両軍が同じ指揮系統の下で戦闘をした例は、あまりありません。(装備・兵力の多い国民党軍の一部として戦った例が、極めて少数ですがあるようです。) <終戦後に日本の兵士が”負けた気がしない”と言う話も多く出てきます。>  戦闘では負けていませんから、兵士はそういう印象を持つでしょうね。 <日本は中国戦線で屈服させることは出来なかったが負けてはいないと思っていますがどうでしょうか。>  大陸国家相手のこのような戦争は、侵攻側は、相手の軍を一掃して戦闘力をなくすという、『勝てなければ負け』なのに対して、守る側は『負けなければ、勝ち』という戦争形態で、守る側が圧倒的に有利なのです。  中国側とすれば、日中戦争は「負け」で終わっていませんから、『勝った』ということです。 <<参考>>  対米戦争が始まる前、日中戦争の段階で、既に総力戦となり、日本の国力は限界に達しています。 <第一次世界大戦の日本の捕虜取り扱い>  日本は、第1次世界大戦で、ドイツ・オーストリアと戦い、捕虜4700名ほどが、大阪・兵庫・徳島などの捕虜収容所で暮らしました。 http://www.geocities.jp/kraumjp/reisenaruto2newphttp://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/08sisi/hur …  捕虜に対して、給料が支給されて買い物もでき、収容所外への遠足があり、地元の住民から土地を借りて野菜などを自家栽培し、音楽界などを開いて地元民と交流しています。  捕虜に対して日本人よりも高い値段で物を売った人が処罰された例もあります。 <第二次世界大戦での捕虜の取り扱い例>  フィリピンのバターン半島における捕虜の移動  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF% …  辻正信参謀個人に、かなり責任を押し付けていますが、一人の人間の責任とすべき問題ではないと思われます。 <何故このような状況になったか>  25年時代が経過して、捕虜の扱いが極端に悪化しているという、時間の流れに逆行する状況が何故起こったのでしょう。  1931年満州事変勃発、約5カ月で満州全土を占領。当時の日本陸軍総兵力は45万人  1937年日華事変勃発、勃発時の総兵力は満州事変当時とほとんど変わっていない。   1938年国家総動員法  1940年食糧配給制度始まる  1941年真珠湾奇襲、対アメリカ開戦。対米開戦時、日本陸軍総兵力は190万人で約4倍になっていた。  日本の戦前の各種産業統計を見れば、1937年が国力のピークで、それ以後は横ばいか低下をしています。アメリカとの戦争を始める前に、既に日本は国力の限界で、捕虜の保護に軍需物資を使う余力のなかったことが分かります。  日中戦争で、陸軍・国力は限界に来ていたが、海軍の弾薬・燃料備蓄は手付かずで残っていたため、対中戦争継続に必須であった「石油」獲得のために、対米戦争へと突入したのです。

A6M2-1941
質問者

お礼

何度も有難うございました。 確かにおっしゃるとおりですね、先の大戦の日本の戦った地域を地図で見てみると驚くばかりの広さです、無謀であったと言えばそれまでですが 良く戦ったなあ と思います。 兵站の事はよく言われますね、戦国時代の秀吉や家康の補給の方がよほどしっかりしているとか、後方部隊の人材はしっかりした人材を当てていなかったとか、確かにそうですよね。 食料も自前でまかなえないので 現地住民からの調達が当たり前ではそりゃ嫌われますね。

回答No.4

逃げ回ったのは蒋介石一派です。 南京⇒重慶⇒成都⇒台湾

回答No.3

人民と共にある解放軍は粘り強く戦い遂に勝利した。 ・・・事実そのものを淡々と教えています。

A6M2-1941
質問者

補足

毛沢東は逃げ回っていたと言われることがありますよね、正確には粘り強く耐えて日本の降伏まで持ちこたえた。が相当ではないかと考えますが如何でしょうか。 ご回答有難うございました。

  • sudacyu
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回答No.2

・基本的なストーリーは <明治維新以後富国強兵に努めて、軍事大国となった日本の正規軍の侵略に対して、中国国民党軍は、アメリカの軍事援助によってそれに対抗するだけの装備を持ちながら、本気で中国国民を守るために戦わずに、どんどん後退して国土を日本軍の占領に任せていった。  それに対して、共産党の人民解放軍は、貧弱な武装・兵力であるにもかかわらず、日本軍が支配している地域で、中国国民を守るため、終戦まで果敢に戦闘を継続し続けた。>  ということですね。 ・ただし、日本の歴史のように客観的記述ではなく、物語的記述をしています。  日中戦争時に、中国国民を守ったのは共産党だけだから、中国共産党が一党独裁をしているのは正当であるというプロパガンダのための歴史ですから。  今、現在の一党独裁が正当であると子供が感じるように、物語的記述にして、共産党は我々を守ってくれているという感情を持つような歴史です。  70年前の過去に、このような事実があったという、感情を排除する日本の客観的記載とは全く異なります。  改革開放経済を取るにあたって、共産主義の放棄による共産党への求心力低下を恐れた「江沢民」は、このような歴史教育を強化したため、共産党の無理な一党独裁プロパガンダの裏返しで、日本に対する負の感情も強化されてしまいました。(歴史教育としては、日本のような客観的記述が、本道でしょう。) <参考>  中国国民党の戦い方と共産党の戦い方の差異について   ・明治維新以後、日本は国内統治システムを完全に作り上げ、富国強兵を徹底して「軍」を編成しました。  それに対して軍閥戦争が終わったばかりの当時の中国には、日本軍と同程度の戦闘力を持つ精鋭正規軍部隊は、蒋介石(日本に軍事留学し日本陸軍の将校だった経験があります。)の率いる国民党部隊だけで、日本軍の10分の1以下の兵力しかありませんでした。  この虎の子の精鋭部隊を初戦で日本軍と全面衝突して戦わせても、壊滅してしまい、以後は全く抵抗ができなくなります。  そこで、蒋介石の率いる中国国民党側は、侵入した軍より弱体な軍備しかない場合の、大陸国の伝統的戦術である主力温存策を取りました。 ・具体的には、急造の二線級部隊(=民間人徴発)で人数を膨らませ、日本軍よりも多数の兵力にし、精鋭部隊とともに日本軍と戦いますが、日本軍の攻勢で戦況が不利になると、徹底抗戦せずに戦力を温存して内陸部に撤退します。  ナポレオンがロシアに負けた時と同様に、相手に軍需物資を消費させながら、敵軍主力を補給の届かない内陸部に引きずり込んでいく作戦です。  中国共産党は、このように広大になった日本の占領地内部で、軍需物資を運ぶ日本軍の小規模輸送部隊を中心に、攻撃を掛けました。(日本軍が占領した人口の多い地域の住民は、共産党軍の戦っている姿だけをよく見ることとなります。軍服を着ない場合も多く、便衣兵と呼ばれました。)  中国は絶対に負けず、日本は勝てない戦術で、陸軍参謀本部の石原大佐(満州事変の首謀者の一人)などは、この戦術を中国が取るので戦いが泥沼化するとして、対中戦争を極力回避しようとしましたが、現地派遣軍は戦闘に勝っているので、撤退することなく内陸部にどんどん入り込んでしまいました。  その結果、食糧など補給に苦慮した日本軍は、住民からの軍票による食料徴発で、太平洋の島のような飢えには苦しまなかったものの、捕虜や住民の食料を保証することはできませんでした。(その結果、住民の恨みを買ってしまい、占領地の治安を確保できなくなりました。)  また、民間人を駆り出して作った訓練の行き届かない中国の二戦級部隊は、銃の撃ち方などは習っているものの、戦術的部隊行動などは実戦の場では満足にできません。訓練の行き届いた精鋭部隊がさっさと撤退する後に、取り残されて大量に捕虜となり、日本軍のなけなしの食糧を食いつくすこととなります。  そのうえ、少し前までは普通の民間人でしたから、敗走となると軍服を脱いで民間人となってしまうものも続出し(中国人同士の軍閥戦争の時はそれで何の問題もなかったのです。)、兵士・民間人・便衣兵の区別が極めてあいまいになってしまいました。 ・日本がポツダム宣言を受諾して日中戦争が終了後、精鋭の主力軍を失うことなく戦い続けた蒋介石は、その軍事力を背景に「国民党」のトップとして、戦争後の政府の代表者となりました。  しかし、大した兵力を持たず装備も整っていなかったので日本軍の占領地で便衣兵としてゲリラ戦を行うしかなかった「共産党」との内戦が始まると、『装備の優秀な国民党軍は逃げて戦ってくれなかった。満足な武器がなくても共産党軍は戦ってくれた。』という民衆の気持ちが働いて、国民党は国民の支持を失うことともなりました。

A6M2-1941
質問者

補足

詳しいご説明有難うございます。日中戦争は日本の51勝1負1分けなどと言われる事がありますが、個別の戦争ではほとんど負けていない筈ですよね。 日本軍の戦った主敵は国民党軍で共産軍(八路軍)と戦ったのはそれ程多くないように感じます。国共合作がどの程度実行されたのかも良くわかりませんし、当時の内容を理解するのは難しいです。 終戦後に日本の兵士が”負けた気がしない”と言う話も多く出てきます。 日本は中国戦線で屈服させることは出来なかったが負けてはいないと思っていますがどうでしょうか。

noname#124808
noname#124808
回答No.1

中国・朝日・民主・社民・朝鮮 関連の考えることはゴミと思いましょう。

A6M2-1941
質問者

補足

確かにそうですね、共産主義は民衆を欺く事が基本になっていると思います。

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