• ベストアンサー

絶対有と絶対無とは同じである。

 一口メモによる情報交換です。  相対と絶対。  経験世界と非経験の場。  変わりゆくものごとと変わり得べからざること。  経験事象としての有ると無い。  これを超えるものとしての絶対は 有ると言っても無いと言っても どちらも当てはまる。  自由なご見解をお示しください。

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回答No.5

ここで唯識を説明する気はありません。紙面が限られております、あらましだけでも不可能です。あらましは「空とは有無を超越した相互依存、万物流転」以上も以下もここで書く気はありません。中村元博士の「空の原理」にあるはずですが?それにあらましなら本をお読みになったとの事。ご理解されているのではないですか?意見が違うのならそれはそれで良いのでは?ここで論争する気はありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ももちゃん_0110さん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。  あらましが だめですか。  読んだことと しっかり覚えていること(またはその内容にもとづいてこの質問の趣旨を書いているかということ)とは別だと思うのです。  つまり 問題は 問いとして《絶対有と絶対無とは同じである。》と言い切っていますので それについて 然りとか いやいや 否だとかというズバリのご回答をいただければありがたいと思っています。  つまり あらましというのは そのようなイエスかノーかの回答につながる部分の内容が知りたいという心つもりで言いました。  もう少しみなさんのご回答をも合わせて 質問者としても考えようかとは思っています。  これに懲りずに またどうぞお越しください。この質問にも あらためてのお考えがありましたら どうぞお寄せください。

その他の回答 (7)

回答No.8

今回、妖精という言葉を使ったがね、神々が見届けようとする者は人のほかにもいるんだ。 君が記憶の荒野を歩く時、多分ないだろうが、もし振り返るとするならば、すぐ後ろをついてくる者がいる。 祝福するのは私の役目じゃないんでね。 多くは語らなくてもいいだろう。 私は自らを誇り、黒き明星と名乗るが、君は誰に会うのか。

bragelonne
質問者

お礼

 たぶん 自分の中に何もかもがというほど おさまっているのだと思う。  一つひとつを取り出して 妖精だ何々だということは しない。  なぜしないか? もともと しないで生きてきた。ただそれだけ。    妖精は 人間のチカラを超えているのかも知れない。  ただし それはけっきょく 霊なる神のしわざであると見ることになる。さまざまなハタラキをぜんぶ 神の霊におさめたかたちで 自分の中にはたらいていると見る。はたらいてくれるわけなり。  わたしは 何もしない。  後ろを振り返るか。   誰に会うか。  たぶん そういうひまを持たないのだと思う。  そのときただ今の情況を見ている。  そのときの相手を見ている。  それで手詰まりになる。  あとは わたしの中で 妖精なら妖精がはたらいてくれている。  ご回答をありがとう。

回答No.7

実は、 天才的な私ですら、 永遠は心にしみているが、 絶対がなにやらさっぱりわからない。 以前ちらっといったと思うがね。 時の流れを自覚する永遠の中で、絶対と言えば今と言う刹那だ。 あんたは確か反論的だったよね。 ところでこの前聞いた、あんたというか人間の知覚能力には疑問点があってね、 現在がすでに過去の記憶なのではないかい? たくさん抱きしめ続けた、妖精たちがそう言っていた。 妖精たちは泣いていたよ、死の運命がもたらされるのは、人間ではなく私たちだと。 人類として君達は生き延びるかもね。 愛せないまま犠牲を作って生き延びるんだ。 私にしかわからない話で、私にしかどうにか出来ない話だけどね。 荒野の記憶がある君はどう見るかい?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  《絶対》とは 《永遠》のことだよ。  われわれは 何百年も生きるわけではない。つまり 《永遠》なんて じつは知らない。分かっていない。  それでも 永遠という言葉を使っている。  ♪ あなたへのわが愛は永遠です♪ とか。  それと同じように 絶対なんて まったく肌で感じるなんてことはあり得ない。それでも 使う場合がある。  うつろいゆかざるものは 永遠であり絶対である。    ★ 時の流れを自覚する永遠の中で、絶対と言えば今と言う刹那だ。  ☆ それは このいまの一瞬におさまるかのようである。という意味だと思う。  ★ 現在がすでに過去の記憶なのではないかい?  ☆ それは そのように言われていると思う。  過去は 記憶として現在にあり 未来は 予期・期待としての現在であると。    ★ 妖精たちは泣いていたよ、死の運命がもたらされるのは、人間ではなく私たちだと。  ☆ だとすると その妖精というのは 守護霊のようなハタラキをするということなのかなぁ。  もしそれなら 妖精は わたしの場合は自分の中におさまっていると思う。

回答No.6

bragelonneさん こんばんは。 仏教を批判するつもりは、ありませんが、「有」と「無」の二項対立を考えるにあたり、論理的な矛盾を提示します。 聖書の出エジプト記に、新共同訳聖書には、神がモーセに言った言葉は 「私はある。あるというものだ。」 と訳されていますが、古い文献の70人訳聖書 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%BA%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8 において正確に訳すと 「私はあるというあるだ。」 だそうです。何が言いたいかというと、前者のあるは「存在のある(有)」であり、後者のあるは「本質のある(有)」とのこと。 この言葉をそのまま、仏教の「無」に当てはめると「私は無いという無いだ」となります。 後者の仏教の本質の「無」は肯定できますが、存在が「無」というのは、いかがでしょう。 色即是空 空即是色 と言いますが、色の「形」がないという意味は、存在がないと解釈できるのでしょうか?難問です。 これは、現世におけるbragelonne哲学の経験事象の論理的矛盾でしょうか? 私が幼い頃、テレビで見た、アニメ「一休さん」のように、 ポク・ポク・ポク、チーン。ひらめいた!と私もなりたいものですが、まだ修行が足りぬ(笑)。 bragelonneさんの得意のヒラメキか、他の回答者様の回答を欲しいところです。 では、お礼にて考察をお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。    ▲ (新共同訳聖書 出エジプト記 3:14) ~~~~~     「私はある。あるというものだ。」  ▼ ( Septuaginta Exodus 3:14 ) ~~~~~~~~~~~  http://www.ellopos.net/elpenor/greek-texts/septuagint/chapter.asp?book=2&page=3  〔καὶ  εἶπεν  ὁ  Θεὸς  πρὸς  Μωυσῆν  λέγων·〕     ἐγώ  εἰμι  ὁ  ὤν.     egoo  eimi   ho   oon.     I   am   the  Being.    ○ かつての訳:わたしは ありてある者なり。  △ ( Hebrew Exodus 3:14 ) ~~~~~~~~~~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Exo&c=3&t=KJV#s=t_conc_53014    3:14 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים אֶל־מֹשֶׁה אֶֽהְיֶה אֲשֶׁר אֶֽהְיֶה     Ehyeh  ser  ehyeh .     I-am  that   I-am.    ○ 《わたしはある》 これがわたしである。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  70人訳聖書において正確に訳すと    「私はあるというあるだ。」  だそうです。何が言いたいかというと、前者のあるは「存在のある(有)」であり、後者のあるは「本質のある(有)」とのこと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そんなに複雑なのかなぁ。   へブル語聖書の英語逐語訳:    I-am that I-am.   七十人訳ギリシャ語聖書の同上:  I am the Being.  こうですけれどね。ギリシャ語訳文は 《わたしは the Being です。》と言っているはずですが。  ですから もし言うとすれば むしろ最初の《ある》が 存在そのもの――たとえば《生命とか 生命存在とか》――を言っていると受け取られます。あとの《ある》は 《わたしは》を承ける《です》のことです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この言葉をそのまま、仏教の「無」に当てはめると「私は無いという無いだ」となります。  後者の仏教の本質の「無」は肯定できますが、存在が「無」というのは、いかがでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。えらい複雑なことを考えるんですね。  なんで《無》にあてはめるんですか?  あぁ。《絶対有が 絶対無と同じである》と言っているからですか。  だったら 《わたしは・・・です(である)》の有るは 相対的な存在(存在者)のことです。  《わたしはある》の有るは 確かに――神のことですから―― 絶対有のことです。  ですから 神の名前は 《わたしは〔絶対として〕無い》であると言えばよいのではないですか?  問題は それより 人間が神をどう捉えて語るかです。  有るという言葉で捉えるか。無いという言葉にするか。――この選択は ひとによってまったく自由にえらべばよい。と言っています。  つまり 無いをえらぶときには 《「私は無いというものだ」》となります。きちんと言えば   《わたしは 〈わたしは無い〉である》  というかたちです。このとき 《わたしは有る》は そのまま感じとして絶対的な存在を言っているようにひびきますが 《わたしは無い》と言うと 感じとして《単に 有ったり無かったりするときの無い》を言っているように響きますね。――趣旨は そういう意味ではないわけです。《絶対的に無い》という者だと言っているわけです。  ★ 色即是空 空即是色 と言いますが、色の「形」がないという意味は、存在がないと解釈できるのでしょうか?  ☆ 《空観》というのは 色=かたちが――そして受も想も行も識も同じく―― 仮りの姿でしかないと見る見方です。すべての現実の事象は 仮象であると見る。ただし それらは仮象としては じっさいに現象しているのだとも言い添えています。これが 空観です。両面を同時に見ています。(詳しくは 空仮中の三諦という理論です)。  有ると無いとに直接にはかかわっていないはずですよ。

bragelonne
質問者

補足

 マチガイの訂正です。  出エジプト記からの引用文で 次について正します。  x  Ehyeh  ser  ehyeh .  ○  Ehyeh  aser  ehyeh .    エフイェー アシェル エフイェー。です。

回答No.4

No.1です。参考文献として唯識独自の概念である「阿頼耶識」を解説した(1)「阿頼耶識の発見」横山紘一著幻冬舎新書 (2) 小説の立場から三島由紀夫「豊穣の海」全4巻 (3)一通りの解説本として「唯識とは何か」横山紘一著 春秋社 (4) 極め付けとして難解でしょうが中村元博士 「空の論理」中村元選集第22巻 春秋社を挙げておきます。 

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (3)と(4)は読んだと思います。  思いますというのは 横山紘一にしろ中村元にしろ ほかの題名の本であり((1)は知りません)ほかの主題ごとに編まれた全集の一巻としてだと思います。  というより あらましをまだ あ_ほなさんが言い表わし得ないならば 質問者としては その回答をお待ちすることになると思うのですが。

bragelonne
質問者

補足

 momochan_0110 さん たいへん失礼しました。  蛙のマークでてっきり あ_ほなさんだとばかり思っていました。別の方だったのですね。  回答の問題としては まづあらましを――みなさんにとってもそうだと思うのですが―― 知りたい。こういう順序になるかと思っています。  お名前をまちがいましたこと 重ねておわび致します。すみませんでした。

noname#210968
noname#210968
回答No.3

 これは哲学の領域から問われ続けてきた問題です。  それも古くから、しかも西洋哲学史と東洋哲学史、 仏教、キリスト教、そしてイスラム教、古い中国の 儒教などが、答えを用意していますが、いまだに 解決してません。  上にあげた各宗教は、発生した地域と時代の哲学 を内に採り入れているので、結局哲学上の問題とな ります。  さて、古代ギリシャの哲学が世界最古のそれか、 そのなかのひとつなのはご存知でしょう。  たとえば、「万物は流転(変化)する」といった 哲学者もいれば、理念的な「イデア(観念)」説を 唱えたプラトンもいました。   イデアについて簡単に説明すると、たとえば、 現実の世界には色々なテーブルや椅子があり、今日 のアイテムとしては、さまざまなパソコン、スマート フォンが存在します。それらは形あるもので、やがて 壊れたり無くなったりするのですが、ひとつひとつの スマホやテーブルなどが無くなる、つまり、非有の 状態になっても、スマホやテーブルといった観念は無 くならず、私たち人間の頭脳に思いうかびます。  その想念、イデアこそが絶対的な存在だと、プラトン は説きました。  しかし、そうなると、たとえばゴミやガラクタのイデ アはあるのか、という意地悪な質問をする反論者が出て きました。  また、スマホやパソコンというのは、ただの名前じゃ ないか(これが唯名論)。それに、話す言語がちがえば、 別のイデアがそこに「在る」のか?  こうした展開から、「唯名論」と「実在論」がキリスト 教の教義論争を生みましたが、現代の哲学では、有限 な存在であるヒトと、ひとりひとりの個人が死んでも 在り続ける世界は、存在のあり方がちがうのか、という 論争になっています。これが、実存主義という哲学の 一派をかたちづくりました。  面白いのは、こうした実存主義の議論は、すでに仏教 の教義でも展開されていたことです。  あなた自身のことをふりかえってください。  生まれた時のあなた、幼い子供時代のあなた、そして その時身のまわりにあった街など、今は有りません。  それでも貴方は、自分が今生きて存在すると自覚し ているでしょう。  これが中観派とよばれる仏教の一派で、すべては 「空」(無いというのではなく、変転して止まらないこと) であると説く思想です。   経験事象としての有ると無い という、  あなたの設問の核心に、一番近いところまで来ていると おもいませんか?  といっても、以上にのべたことは最終的な答えでは ありません。  今では難しい哲学や宗教の中身をわかりやすく解説 しているガイドブックが数多くあります。  それらをご自分で読んで、理解を深めていくことを おすすめします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  おっしゃっていること おっしゃろうとしていることは おおむね分かりましたが――つまりその概観や展望はわかりましたが―― ご自身の答えは どうなのでしょう?  質問は すでに趣旨説明として 答えを出しています。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~  経験事象としての有ると無い。  これを超えるものとしての絶対は 有ると言っても無いと言っても どちらも当てはまる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これです。どうでしょう。

回答No.2

相対性理論にしても量子論にしても、認識体との相対によってしか 存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。 客観的絶対時空や認識から独立した存在はない、というものです。 それは、不確定性原理において、ある性質を絶対的に確定しようと すると、それに実体を与える他の性質が無限不確定(=無)に発散 する、換言すると階層的現象を表面的に(経験によっていい加減に) 捉える事で有限的な存在性は(現象表面性に付随して)生じる事に つながります。 さらに換言すると、無=無限の潜在的な認識可能性(感受表面 (量子相互作用)=現在=光速)からの自我仮説(経験(時間の流れ) =過去=超光速)と空間仮説(予測(空間の広がり)=未来=光速下) の相補分化なのです。 それが先の、階層現象的表面性の非光速性(「いい加減に捉える」 事による)に基づく時、存在性は本質的な根っこを失うのです。

bragelonne
質問者

お礼

 補足要求にはいっさい――最後までは――答えないご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ)客観的絶対時空や認識から独立した存在はない、というものです。  それは、不確定性原理において、  (い) ある性質を絶対的に確定しようとすると、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この(あ)と(い)とは その内容がかみ合っていません。  言いかえると 《絶対》という言葉の定義が 違って来ています。相対的な経験世界においてその《究極性》といったような意味で このご回答では《絶対》が用いられています。  《絶対》とは 《客観的〔窮極なる意味での〕絶対〔の〕時空や認識から独立した存在》ないし《領域 または 場》のことです。  言いかえると 《認識から独立した》というよりは 《認識することが出来るかどうかが 人間は知解し得ない》その場ないしナゾのことです。  さもなければ 相対世界において どこが・何が 果ての果てであるかなどという探索を延々とつづけるのみになります。  ★ 無限不確定(=無)に発散する  ☆ これが 《究極性》の問題です。それは 経験世界に属します。《絶対》ではありません。  ★ 無=無限の潜在的な認識可能性  ☆ この《無=無限》は 絶対のことである可能性があります。つまり 絶対無であるかも分かりません。  そうだとして その絶対無は けっきょく絶対有と同じである。どうか? と問うています。  

回答No.1

仏教の唯識思想の見解です。仏教では両極端を排除致します。この場合絶対有と絶対無は最初に排除されます。ですから同じといえば同じなのです。また、>変わりゆくものごとと変わり得べからざること とありますが唯識では「総てのものはうつろいゆくもの」ととらえております。  唯識の「空」の見解を一言で著すと「有無を超越した相互依存(縁起の意味)・万物流転が前提である。」  ちなみに唯識は日本では奈良時代の仏教の煩瑣哲学で体系的なものです。私も舌足らずな面もありますからご希望とあらば参考文献を提示致します。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとございます。  今回の内容は 疑問符がわたしの中ではつきます。  参考文献は あらましをまづ知りたいですね。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~    >変わりゆくものごとと変わり得べからざること   とありますが唯識では「総てのものはうつろいゆくもの」ととらえております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《変わり得べからざること》というのは むろん現実ではありませんからそれは 想定に成るものです。  うつろいゆくすべてのものと言うときの《すべて》とは この経験世界におけるものごとの全体であるはずです。  それを超えたところに《非経験の場》を想定するという意味です。  想定してはいけないという立ち場である場合には その根拠をお知らせください。  ★ 仏教では両極端を排除致します。この場合絶対有と絶対無は最初に排除されます。  ☆ ここですが 微妙であるわけですが 《両極端》というのは やはり経験事象としての極と極でしょうね。  ならば《絶対(その有も無も)》は 《排除される》のではなく もともと含まれていない。こうなるはずです。 相対世界に絶対が ふくまれることはない。ですよね。  この疑問符をほどいてください。  つまり 結論は同じようなのですが それをみちびく筋道が異なっていると思われます。  ★  唯識の「空」の見解を一言で著すと「有無を超越した相互依存(縁起の意味)・万物流転が前提である。」  ☆ このくだりを避けて通ろうと思ったのですが 触れます。  《有無を超越した》というのは 《非経験》ということであるはずです。  《相互依存(縁起)》というのは 《原因と結果や 依存関係にあるそのものごと》が有るということです。《有無を超えて》いません。  このような疑問です。

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     1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。  2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。  3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。  これを 問います。  表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。  ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~   http://okwave.jp/qa/q8207934.html  (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており  無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  この「絶対無=不確定性無限」において、  その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、  相対的に無の風は光になり、  認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに  自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この文章についても 問います。  4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり  ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?  次のような文脈です。:  ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり  ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。  ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。  6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。  7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。  8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。  9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。  10. そして それだけでじゅうぶんである。  11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。  忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

  • 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか

     ふたたびの問いです。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。  たたき台を示します。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:   ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:      : これは 無根拠である。      : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。      : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか      についての疑問すらが起きる。      : 《神》とも《無い神》とも言える。         ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:      : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の      原野)》に移行している。      : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに      する場合にすら用いられることがある。《真理》として。      : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり      《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に    《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》  を成らせていると想定され そして    《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》  が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか

    どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか  たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。  ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~  たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。  時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。  しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。  永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。  ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。  (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。  これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?  表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。  この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか?   いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。

  • 「100パーセント○○だ」「絶対○○だ」はなんですか?

    聞けば、科学の世界には「100パーセント○○だ」というものは無いみたいですね。 世の中のいろいろの事象にも、「100パーセント○○だ」「絶対○○だ」というものはないのですか? 私はかなりあると思います。 例えば、ネット社会がぎゃらしい、といってももう絶対後戻りは出来ない、とか。 あなたの、「100パーセント○○だ」「絶対○○だ」はなんですか?

  • 《絶対》と日本人

     どう扱っているか? 早くうまく扱うようになって欲しいと思うのですが どうなのでしょう?  《相対・有限・可変性の経験世界》とそれを超える《絶対・無限・不可変性・非経験・非思考の場》とです。  ○ 司馬遼太郎が短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  (第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。  ○ すでに同じ趣旨で問うたことがあります。  【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3738300.html

  • 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

    0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。