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関ヶ原 西軍勝利の場合

 歴史の可能性を考えるとして質問。 関ヶ原で小早川・吉川の裏切りがなく、西軍が 勝利していた場合、戦後処理はどうなったでしょうか?  史実では、上杉・毛利減封、宇喜多取りつぶし、等 西軍が削られたうえで、関東平野、東海道、機内は 徳川親藩・譜代でほぼ固められ、他の地域にも 要所要所に親藩譜代を配置。有力外様は京から できるだけ、遠くに。どさくさまぎれに 豊臣家の領地が50万石になっていたそうですが。  西軍勝利の場合、上杉、毛利、五奉行西軍派に加増、 東軍についた武功派、徳川、前田は取りつぶし、減封などでしょうか?  できるだけ、くわしい想像があるとうれしいです。

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  • jkpawapuro
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回答No.4

IFを話すなら徳川軍の主力である遅参した秀忠軍が無事江戸に帰国できるかどうかで話が大きく変わってきます。 秀忠軍が無事に帰国したとして話を進めますと、徳川家康は関が原敗戦の場合盟主としての立場は失うものの関東での領地は依然存続して豊臣家と反発した大大名として依然存続することになります。 となると前田加藤福島といった東日本の日和見や東軍についた大大名に対する大きな処分は豊臣家にとっては難しい話です、結局敵を増やすだけになってしまいます。 おそらく毛利家および両川には黒田官兵衛の侵略した九州の北半分を加増(現実には切り取り次第)、上杉に対しては北関東および最上領伊達領の加増(現実には切り取り次第)、前田浅野加藤福島は今後秀頼に忠勤を尽くすという形で本領安堵、他の諸大名には西日本についた西軍大名の領地と豊臣領の一部を恩賞として分け与える形になるかと思います。特に福島と浅野は東西で籠絡合戦になるので決して悪い扱いにはならないでしょう。 うーんこれでは確かに西軍の士気があがらないはずですよね。家康について豊臣家を食い物にした方がよっぽどおいしいです。 特につらいのが上杉家の地政学的位置で、勝って周りじゅう敵だらけ負けたら最悪お家断絶まであるのによくもまあ西軍についたものです。

sg10000
質問者

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 回答どうも。

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  • titelist1
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回答No.5

秀吉恩顧の大名が徳川についたのは、秀頼が秀吉の実の子でないからです。だから北の政所も徳川に味方したのです。関が原の合戦の建前は豊臣と徳川の戦ではなく、豊臣政権五奉行と徳川の戦いなのです。西軍が勝っても光秀の采配では天下は安定せず、それこと西国と東国の分裂国家に逆戻りです。その先はどのようになるかは、混沌としています。

回答No.3

三成云々と言っていますが 西軍が勝っていれば豊臣家の天下が存続したわけで 三成は豊臣の忠臣ですから秀頼に従ったでしょう しかし当時秀頼は子供で だれかが戦後処理を行わないといけません 関ヶ原の戦いで西軍の総大将は毛利輝元でしたので 彼が領地決めなんかを行ったのでは? 恐らく毛利・吉川・小早川を手厚く固めたでしょう 福島や加藤がうるさく騒いだと思いますが あいつらは絶対的な豊臣恩顧です 「秀頼公のご命令じゃ」と一喝すれば黙ったと思いますよ 実際徳川の世でもウラでは秀頼に忠誠を尽くしましたからね

sg10000
質問者

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 回答どうも。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10507/33046)
回答No.2

東軍が戦後処理を断じて行えたのは、徳川家康という「実力を兼ね備えたリーダー」がいたからに他なりません。戦国武将たちがみな家康に従ったのは「逆らったところで絶対に勝てない」ことが分かっていたからです。徳川家単独で大軍を動員できますからね。 一方、西軍にはこれといったリーダーがいません。主導権を持っていたのは石田三成ですが、彼の実力は19万石に過ぎず、福島正則単独でも50万石です。もし福島正則が生き残って「城を枕に討ち死にする!」と言い出したら、後の福島家取り潰しのときの家臣団の行動からみて正則と一枚岩になって死戦の構えを見せるでしょうから、三成単独では到底敵いません。仮に三成を100万石に加増しても、家臣団の成長がそれに追いつきませんから意味がありません。三成の盟友である大谷刑部も然り。 名目上の西軍の大将は毛利輝元ですが、このときの毛利家というのはよくいえば集団合議制、はっきりいえば君主は名目上の存在に近く、君主が単独でリーダーシップを発揮できない仕組みになっていました。だからこそ安国寺恵瓊が勝手に西軍につくことを決めて、吉川広家が勝手に家康に内通できたのです。これはどちらも輝元の意向を受けての行動ではなく、彼ら独自の判断による「勝手な行動」です。輝元は御輿の上の存在に過ぎないので、もし西軍勝利となったら安国寺派がデカい顔をするだけとなったでしょう。 さて、関ヶ原のときにあの黒田官兵衛は隠居の身から突然行動を起こし、あっという間に九州のほぼ北半分を平定してしまいました。戦後は「これは家康どのにお預けします」とサッとこれまた身を引きましたが、あの有名な「そのときお前の右手は何をしていたのだ」という発言から考えると、野心満々です・笑。 西軍の戦後処理が混乱している隙をついて、九州で勢力を拡大するでしょう。もちろんその拡大の実力を背景に、三成のいうことなんか(あの爺さんが)聞くはずもありません。 さてそうなれば、もうひとりあの「野心の男」を忘れるわけにはいきません。そう、伊達政宗です。政宗は、上杉討伐の「北の関ヶ原」で、上杉軍に攻められる最上義光をあえて「見殺し」て、この行動が家康を怒らせて(そりゃ当然だ)例の「百万石のお墨付き」を反故にされています。関ヶ原で東軍敗れる、の報に接するや迅速に「我が野望」のための行動をとるでしょう。どうでるか、例えば上杉家と単独講和をするか、それともあえて上杉軍に攻めるか、それはわかりません。ただ、最上義光をあえて見殺したのはその先を見据えての行動だったと思います。 京都・大阪から遠く離れた九州と東北で「私戦」が勝手に行われて、豊臣家はそれに対する対策がとれなければ、そりゃあちこちで同じように「勝手な戦い」が始まるに決まっています。上杉家は悲願の「越後奪回」を図るでしょうし、島津家はこの時点でお約束の「内ゲバ」に忙しくて関ヶ原に兵が送れませんでした。 どう収拾するかは想像もつきませんが、一時的であったとしても、戦国時代に逆戻りしたでしょうね。

sg10000
質問者

お礼

 回答どうも。 史実だと関ヶ原でほぼ徳川家の天下が 確定した感じがありますが、もし、西軍が勝っても、 徳川家が消えるか小さくなるだけで、豊臣家の 末長い安泰が確定するわけでも、毛利家の天下の 確定や、三成の指導者としての確立があるわけでも ないわけですよね。  可能性としては、三成がそのあとも(豊臣家にとって) 上手く事を運んで、足利幕府の義満のような状態に もっていけたかな、と。  違う質問になってしまいますが、よほど上手く 事が運ばないと豊臣政権は徳川幕府のように 強固な政権にならず、足利幕府のような 感じになっていったのでしょうか、例え、 関ヶ原で西軍が勝っていても。

  • tzd78886
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回答No.1

石田三成に人望などありませんから、戦国時代は続いたでしょう。その後のことは分かりません。豊臣家は天皇家のような形で存続した可能性はあります。

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