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藤吉郎の草履とりの話は誰が広めたのか?

木下藤吉郎…天下人への第一歩となった「信長の草履とり」 しかしこのエピソードは誰が伝えた話なのでしょうか? ・秀吉自身が部下に出世話として語って伝わった? ・信長が、「秀吉はこうやって出世したのじゃ」と部下に語って伝わったのか? ・秀吉が草履を懐で温めていた(実際には尻に敷いていたらしい)のを近くの門番か何かが見て いてそれを人に話して伝わった? このエピソードは実話だと思うのです 作り話なら500年以上経った現在まで伝わるでしょうか? 実話だったからこそ「誰か」が語り継いでいるのではと思うのです

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回答No.1

まあ常識的に考えて100%創作ですね。 この話自体の元ネタと言うか、現在に残る形での初出と確認可能な書物は『絵本太閤記』と言う、江戸時代(1797年~1802年)に出版された今で言う所のラノベです。作者も創作メインの戯作者・武内確斎と言う人です。他にも同じく幕末に出版された『名将言行録』と言う書物にも同じような "美談" が掲載されていますが。こちらも基本、中身は当事者にとって都合が良い様に脚色された創作物と言う見解で、歴史学者の間ではほぼ統一してます。つまりは創作物(基本は幕末当時に信じられていた戦国武将の伝説をまとめたもの)。 信長に関する公式記録は、当時直に信長に使えた太田牛一と言う人物の書き記した文書を下に編纂された『信長公記(しんちょうこうき)』が唯一、今でもそれなりに信憑性が高い歴史書として扱われており。現在の大河ドラマ等の戦国武将に関する描写、特に信長に関する描写や演出はほぼコレに依存してると言って過言ではありません。しかしながらこの中に秀吉や家康に関する記述自体は頻繁に登場するにも関わらず、件の「草履取り」の一件は全く記述されて無い事から、現状では後世の作家たちが上方(関西方面)で圧倒的人気を誇る太閤様にあやかって、大衆受けを狙ったエピソードを創作したと考えられています。 そのものズバリな記述は無いのですが。秀吉(藤吉郎)は信長配下当時、信長城下での冬の暖房費(確か巻藁と炭鉢)を大幅に下げた事を信長自身に大きく評価された~と書かれている物があるので。恐らくはその辺から、寒い冬場の心温まるエピソードを創作したのでは無いでしょうか? P.S. むしろ100%事実では無い、人々が信じたい創作の方が、より多く語られ何百何千年後にも伝わって行くと思いますよ。大体、より長く後世に伝わり広まっているのが真実の証であるならば、キリストやお釈迦様の逸話は全て事実と言う事になります。

azuki-7
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