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秀吉の死後、家康は天下取りへ向けて各大名に多数派工作や威圧を始めます。 伊達・福島・加藤・黒田・蜂須賀・真田と縁組を行っています。 これらはみな徳川より格下の大名で徳川を盟主とする多数派工作を行っているわけです。 一方同格の五大老にはまず前田を脅迫して人質をとっています。 次が上杉(まあ地理的に東国同士ですので標的になったのでしょう)というわけです。 そこで上杉に言いがかりをつけて都で自分に謝らせその姿を天下に示そうとしたのです。 そうして上杉を屈服させて日本中を徐々に自分の色に変えて行こうと思ったところ、腰抜け前田利長と違い上杉は断固一戦に及んだ、そういう流れです。 直江状は結局原本が残ってないので挑戦状か釈明書(可能なら戦を回避しようとした?)かわかりませんが、少なくとも家康に対して下手にでたり悪びれた様子はまったくなかったのでしょう。 榊原は上杉家の徳川家の取り次ぎ役ですので、ありのまま上杉家が城を作ってる、街道を整備しているなどという報告はしたでしょう。それを謀叛と騒ぎ立てて言いがかりをつけたのは家康本人ということになります。
その他の回答 (3)
- あずき なな(@azuki-7)
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直江状を家康に伝え渡したのは本多正信のはずですが… 榊原は徳川四天王の1人で どちらかというと政治家というよりは戦うのが専門の人です 普通に考えれば当時家康の側近だった政治家の本多が伝えたと言うのが正論だと思います
補足
では、直江状が間違っているのですかね?
- ithi
- ベストアンサー率20% (1960/9577)
own3 さん、こんばんは。 URLを参照しました。これは康政が上杉家と徳川家の公式な窓口になっているということを指しています。 言いがかりということを言っていますが、この際こんなことは些細なことです。何故なら家康自身この時点で上杉征伐を決めているようなので、口実を探しているようなものです。家康自身この直江状を見て私はこんな失礼な手紙を読んだことがないといいました。 また、この時点では上杉家も家康と一戦を交えることを覚悟していたようです。たとえばこの直江状ですが、挑戦状のような扱いになっているという説も聞いたことがあります。 それから堀家と上杉家は仲がとても悪いのです。上杉家は越後から会津に移封する際に年貢をすべて越後から徴収したまま返しませんでした。このため堀家は越後入部の際、苦労したとかいうことです。 詳細は下記のURLを参照ください。 堀秀治 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%B2%BB
お礼
丁寧に回答ありがとうございました。 家康にいわれて言いがかりをつけていたのですね。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1960/9577)
own3 さん、こんにちは。 その表現はおかしいのです。何故なら康政は家康の家臣であるからです。 上杉家の領内の築城や道路普請の情報は近隣の最上氏や越後の堀氏らから報告が上がってきました。また、上杉の家臣であった藤田信吉が上杉家を離脱して徳川家に逃げ込んでからことが露見します。 詳細は下記のURLを参照ください。 上杉征伐 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E5%BE%81%E4%BC%90
補足
回答ありがとうございます。 URLもありがとうございます。 堀氏の奏者となってとありますが、これは嘘なのですか? 直江状 http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6
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