宗教芸術家の宗教的位置づけは?

このQ&Aのポイント
  • 宗教芸術家の役割や宗教的な意義について調査します。
  • 仏師や書画家などの宗教芸術家が悟りに近づくためにどのような行為を行ったのか考察します。
  • 宗教と芸術の関係や宗教建築における外部の協力についても述べます。
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宗教芸術家の宗教的位置づけ

古今東西、どうだったんでしょうか? 円空のように僧が仏師をやる場合は たくさん彫る行為は他の修行と等価とされ 悟りに近づいたとされたんでしょうか? 僧籍でない仏師はどうですか? 以下印象で。 大仏建立なんかは宗教者というより 技術者寄りな気もします。 写経は修行扱いですよね。 暗記や解釈ができてなくても、写しただけでも 徳を積んだことになるんでしょうか? 近い分野の書、歌、禅画はどうですか? 宮大工は微妙な気がします。 トリビアの泉でやっていたネタですが 見えないところに下ネタ落書きがあったり。 神道、キリスト教、イスラム教、その他宗教の話も大歓迎です。 新興宗教の建物、グッズは外部で作ってるケースが 多いような気がします。

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noname#224207
noname#224207
回答No.1

宗教芸術家とはどのような人を指しておられるのかが良く分かりません。 芸術と呼ばれるものづくりは、作者の意図の表現方法です。 西欧でよく見られて今日も行われているのは、聖書などを読んでそのなかの情景を作者なりに解釈して絵画や彫刻として表現する手法です。 あくまでも作者の聖書解釈の表現です。 現代では逆に自分の意図の表現として聖書の物語を題材とされる人もいます。 これを、教会に飾るか宮殿に飾るか、自宅の居間に飾るかは、作品を入手した人の判断次第です。 宮廷画家などと呼ばれた人達は、所有者(王、貴族etc)からの以来で制作をしていたいわば職人です。 肖像画を描くこともあれば聖書を題材としたものを描くこともありました。 イコンと呼ばれる絵画は一定の習慣的ルールに基づいて、修道院などの修行神職者が描きました。 この場合には一定の宗教的な意図が含まれていました。 教会外の絵描き職人が描くこともありました。 古くはエジプトのピラミッドも専門の建設集団がいたと考えられています。 当然ピラミッドや王墓の内壁を飾る装飾画や彫像の宗教的な意味は理解していたでしょう。 ご指摘の円空仏のようなものは、仏教の社会への浸透が一つの目的でした。 仏像を沢山造るという行為そのものが宗教的な行為でした。 山野を行脚するなどの修行と同じ仏僧としての修行の一つのかたちでした。 写経というのも修行の一つです。 書き写したお経の出来栄えの問題ではなく、精神を集中させて経典を書き写すという行為の問題です。 禅宗では料理や掃除も重要な修行の一つです。 典座(てんぞ)と呼ばれ上位の修行僧が受け持っています。 このような場合は当然製作者は宗教心を持っています。 禅画は禅の境地を表現するための一つの手法でした。 視覚化することで文字では表現ができない境地を表現して弟子や修行僧に示す働きを期待していました。 このために描くのは禅の僧侶達でした。 これを職業画家が取り入れて襖や屏風の装飾絵画として制作しました。 この場合には習慣的に題材や技法が決められていました。 絵を描くことを職業としていますから、禅の僧侶のような宗教心の有無は問題にはなりませんでした。 これ等の作品を寺院に飾るか城中に飾るかは西欧同様所有者の判断次第でした。 仏像彫刻は絵画と同様に、仏師と呼ばれる専門の職人が制作に当たっていました。 仏像の場合には、仏一人一人に特有の姿形の特徴がありました。 この仏はこれこれこのような点を満足したものでなければならないとされていました。 卑近な例として仏像の手の形や指の形を見れば、その仏像はどの仏を表しているのかが分かります。 詳しくは下記をご覧下さい 印相 tobifudo.jp/newmon/shinbutu/inzo/ 仏師と呼ばれる職人に求められるのは、その宗派への信仰心ではなく、仏像製作者としての技能でした。 宮大工と呼ばれる職業の人達は現代でこそ特別な職業ですが、保有している技術は古来から伝承された技術で近代建築技術が導入されるまではごく一般の木造建築技術でした。 古い寺院を解体修理した際に羽目板の裏などから落書きが出てくるのはこの為です。 現在宮大工とされている人達は、法隆寺の専任職人の方が中核となったグループです。 法隆寺は創建当初から専任の職人集団をかかえていました。(現代まで続いています) 寺院や神社建築にはそれぞれの様式が定められています。 これを忠実に再現できるだけの知識と技能が温存継承されていたのがこの法隆寺専任の職人さんでした。 現在はゼネコンとタイアップして、日本中の寺院の解体修理や復元などの仕事をされています。 同時に技術を継承する職人の養成もしています。 このような性格の集団ですから宗教心の有無は問われません。 以上のように完成された絵画、彫刻、建造物が宗教的なテーマを扱っていたり使用目的が宗教的なものであるからと言って製作者の宗教心とは必ずしも直結するものではありません。

その他の回答 (2)

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.3

日本の仏教美術は芸術家というよりも職人やその集団組織で作られています。そしてその職人達に宗教性はなかったと思われます。僧侶が作る仏像や仏の絵も宗教性はあっても美術工芸品として作られてはいないと思います。 本来は美術や芸術は宗教とは別物ですが、布教の道具として作られたものです。

hazukichi
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10482/32974)
回答No.2

美術史には詳しくないですが、そもそも中世以前であれば我々が「芸術」と呼んでいるもののうち音楽を除くほとんどが宗教絡みじゃないですかね。音楽も讃美歌なんかがありますから、密接な関係があると思いますけれどもね。 西洋美術史においては、「風景画を描く」というのは非常にエポックメイキングな出来事だったらしいですよ。それまで絵画というのは王侯貴族の偉大さや、神の偉大さを絵画という手法で表現するものであって、「そこにある日常を描く」ってのは「そんなことをやっていいのか」みたいな芸術論争はあったそうです。そういう画家が新教国家であるオランダから主に出てきたってのが象徴しているでしょうね。 だから、昔の人たちが「宗教行為」と思っていたものを現代の我々が宗教と切り離して「芸術」と呼んでいるのではないでしょうかね。あまり詳しいことは分からないですが、ルネサンスとは「芸術の発見」といえるかもしれないですね。 曹洞宗では仏像なんかの偶像崇拝はアカンけど、絵で禅の価値観を描くのはOKみたいな線引きがあるみたいですね。まあどこからがOKでどこからがNGというのは他の宗教の信者にはちょっと分からない部分もあります。イスラム教なんか、偶像崇拝絶対禁止で宗主ムハンマドを擬人化しただけでテロを起こすほど怒るのに、ビンラディンとか宗教指導者の写真を掲げるのはOKと、線引きがサッパリ分かりません。

hazukichi
質問者

お礼

回答ありがとうございました。ルネサンス、思い出しました。イスラムの指導者の写真、言われてみればその通り。結局ケース・バイ・ケースということですね。

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