闇の中から光を見るには?

このQ&Aのポイント
  • 闇の中から光を見るための方法や手段について、哲学的な観点から考える。
  • 神が人間となって闇の中で光を見せることについて、その当否を問う。
  • 人間として努力することが重要であり、神としての奇蹟を起こすことではない。
回答を見る
  • ベストアンサー

闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

 まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.9

神話をそのまま額面どおりに受けとるのは、危険なんだろう、と考えます。 天津神や国津神の末裔(とされる人々)は、庶民から分離し、特殊に進化したものと考えてもかまわないのでしょう。 bragelonneさんの言葉で言えば、互いに《天上がり》。 ただ、《天上がり》のタイプが異なる。 これは単に権力としてとらえるだけではなく、 知性や心ととらえてもいいんじゃないか、と想定しておりやす。  ───急拵え、しかも、おそらく、この場限りの「天外魔境2+アシカビ」神学!!─── アマテラス知性とスサノヲ知性は、アシカビ知性から分化し特殊に進化したモノ。 そして、  アマテラス知性∪スサノヲ知性⊂アシカビ知性  (等号=でないことにご注目!!) である。 知性よりも心の方が適切なのかもしれませんが。 アシカビ知性は、アマテラスやスサノヲ知性に比べると、力が弱いのかもしれない。 しかし、アマテラスとスサノヲ知性には欠けたモノがあるのに対し、アシカビ知性はすべてを含んでいる。 そして、《天上がり》から地に降りてきて、はじめて人間・アシカビになれるのだ、と想定しておりやす。 それが人間になるということ。  ───「天外魔境2+アシカビ」神学では、です─── アイロニカルに聞こえるかもしれませんが、 アシカビは自然(神)をそのまま内包しているので、アシカビこそ実はもっとも神に近い存在だった(笑い)。 アマテラス(知性)やスサノヲ(知性)は、互いに自然の一部を切り捨てたモノであるからです。 その純粋度が高くなればなるほど、自然・人間から離れたモノ、非人間的なモノになってゆく。 「天外魔境2+アシカビ」神学 by NemurinekoNyaでは、 こういう非常に狡猾な構成をしております。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  いまの問題は スサノヲ人間語を ひとの出発点としての知性〔の基礎〕とするだけではなく さらにそれのほかに隠れた基層があるのではないか? という問いから来ているように捉えます。  それが アシカビ心層とでも言うべき知性のみなもとである。のではないかと。  もう少し細かく言うと スサノヲ人間語を そのあらゆる潜在的なチカラ(≒意志)の発揮による派生形態(たとえば 根っからの悪に落ち入ったすがたや あるいは杓子定規なる振る舞い)を含むかたちとしてみても なおそこにほかの要因としての深層があるのではないかということなのでしょう。  なぜなら あやまちうるスサノヲ人間語は ややもすると そこから普遍的な要素要因を抽象してそれを理念として捉え築き上げた間違わないアマテラス普遍語との対比においてだけ捉えられてしまう嫌いがある。  だから 《スサノヲ語‐アマテラス語》の連関形態の基層になお心のあるいは知性のみなもとがあるのではないか? という問い求めでしょうか。原スサノヲ語: UrS 語。  別様になぜかと言えば  S 語や A 語の組み成す構造を たとえば信仰の場としての神宮・神社として捉えるなら 次のような構図が描けるからです。   UrS 語 ⇒ S 語 ・・・・・・ A 語 / SuperA 語   -------------------------   大神神社::イヅモ大社 ‐ 伊勢神宮 / アマテラシテ(*)   ______________________________   アシカビ心性::スサノヲ知性 ‐ アマテラス知性 / アマテラシテ   * アマテラシテ: amaterasity; amatérasité; Amaterasität    :アマテラスの抽象名詞化。  ☆ すなわち 《イヅモ大社 - 伊勢神宮》の関係は 《臣下 - 王》の関係にたとえられるからです。  そもそも 王制なる国家は 家産国家であって 領土も領民もその他その他もみな 王の家の財産であった。  ゆえに 時にはややもすると理性一辺倒になるアマテラス普遍知性のもとに・その従属物としてのように スサノヲ人間語知性があるとすれば――という意味は たとえ心にヤマシサ反応を起こしていくら王命であったとしても その務めは飲めない・請け負えないとアシカビ心性がつぶやいていても けっきょくアマテラス語なる王命に従わざるを得ないと判断するほかないようなスサノヲ知性であるのならば―― それは・その心は 狭小化している。歪曲化している。  ゆえに A・S 両知性のさらに基層には アシカビ知性がそなわっている。それが 人間である。というところでしょうか? S 語に対してさらに深層の ウァ(原)スサノヲ語。プロト・スサノヲ語。  そういうことですよね?  ◇ アマテラス(知性)やスサノヲ(知性)は、互いに自然の一部を切り捨てたモノであるからです。 / その純粋度が高くなればなるほど、自然・人間から離れたモノ、非人間的なモノになってゆく。  ◇ アシカビは自然(神)をそのまま内包しているので、アシカビこそ実はもっとも神に近い存在だった  ☆ ええっとですね。  次のように考えておけばよいものと思います。  1. スサノヲ語知性を アマテラス語知性に《くにゆづり》する前と後とで――同じ S 語だとしても――使い分けすれば 問題はない。つまり 《原スサノヲ語としての S 語》と 《 A 語従属する S 語》とに分けて使えばよい。  2. あるいは 原スサノヲ語を 《自然本性》として捉えればよい。自然本性の内に S 語とそして A 語との要素要因があって それらが 顕在化したのだと。  3. あるいは やはりこの自然本性――ウアスサノヲ人間語――に 神の霊はやどるという想定です。(=アートマン霊我=ブッダター仏性・自性清浄心)。  4. 葦の芽というアシカビは 萌え出づるちからを感じさせるので それとして使ってもよいと思われる。  5. たぶん《国家》という《 S‐A / Amaterasität 》連関制なる枠組みの中に生きるかぎりで スサノヲ人間語も 多少とも歪んでいると見られがちなのかも分かりません。  6. このような国家としての社会形態の形成のことを指して いまの場合は S 語の A 語化とともにその S 語じたいもがその土壌から浮き上がってしまったという意味において 《アマアガリ》した状態である。と言うのではないでしょうか。これは いわゆる《文化》ですね。《 A 語化を経て互いに意志疎通を行なう》というかたちとして。  こんなところでしょうか。

その他の回答 (10)

回答No.11

~~~~~~  いまの問題は スサノヲ人間語を ひとの出発点としての知性〔の基礎〕とするだけではなく さらにそれのほかに隠れた基層があるのではないか? という問いから来ているように捉えます。  それが アシカビ心層とでも言うべき知性のみなもとである。のではないかと。 ~~~~~~ はい、そうです。 ☆A・S 両知性のさらに基層には アシカビ知性がそなわっている。それが 人間である。というところでしょうか? ◇はい。 ☆S 語に対してさらに深層の ウァ(原)スサノヲ語。プロト・スサノヲ語。 ◇これは微妙ですね。 プロト・アマテラス語もあるのかもしれないので。 ですから、 この点については一先ず保留。 何しろ、チョチョイのチョイと作ったインスタント神学なので(ポリポリ)。 そうであっても構わないし、 プロト・アマテラス語とプロト・スサノヲ語があったと考えてもいいんだろう、とは思います。 大切なのは、どちらもアシカビ基層に由来しているということなので。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~  プロト・アマテラス語とプロト・スサノヲ語があったと考えてもいいんだろう、とは思います。  大切なのは、どちらもアシカビ基層に由来しているということなので。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 基本として大筋では 結着していますね。  たとえば妥協点としては 足して二で割る方式があります。  人間のしゃべり使いこなす言葉というのは 顕在しているものとして:    《スサノヲ人間語‐アマテラス抽象普遍語》の織り成す構造としての言葉  であると考えるとすれば それのさらに基層としては:    プロト《 S 語‐ A 語》構造語  となるでしょうね。  別様に考えるなら スサノヲ語は すでに《人間語》と言っていますので その原形を    ウアスサノヲ語 / プロトスサノヲ語:原人間語  と言っても そこにすでにアマテラス抽象普遍語も そのプロトアマテラス語も 含むと見てよいのではないか。とは 考えられますまいか。  

回答No.10

ちょっと付け足します。  アマテラス知性∪スサノヲ知性⊂アシカビ知性 と書きましたが、 アマテラス知性とスサノヲ知性とアシカビ知性は、階層(発達の段階・レベルと言ってもいいし、類やクラスと言ってもいいのでしょう。天上がり度と言ってもいい)が異なるので、 厳密なことを言えば、比較できないし、包含関係にもないのですが…。 ですから、 アマテラス知性とスサノヲ知性の原初的形態とでも考えてくださいな。 こういうことは正確に言っておかないと、あとあと、厄介なことになるので(ポリポリ)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。だいたいお応えし得たかと思っていますが。

回答No.8

ディベートです。 私は、かつて愛した天外魔境2の弁護に立つことにします(ポリポリ)。 まず、 天外魔境2において、人はマリ、ヨミの2柱の神から作られてものでない(と設定されています)。 これは、古事記の設定からそれほど外れたものではありません。 古事記において、一般の人間は「青人草」であり、自然に生ったものです。 イザナギ、イザナミが生んだものでもなければ、作ったものでもありません。また、イザナギ、イザナミの生んだ神々から生まれたものでもありません。 「次に国稚(わか)く、浮かべる脂の如くして水母(くらげ)なす漂へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌えあがるものに因(より)てなりませる神の名は、ウマシアシカビヒコジの神」 とあるように、 なんだか分からないけれど、人は自然発生したと考えるべきなのでしょう。 火の一族も、根の一族も、そこに住む人間とは無関係な存在であり、ある日、突然やって来た外来の生き物なんです。エイリアンといっていい存在です。 この二つのエイリアンは強い。この両者の激しい争いに巻き込まれ、アシカビの末裔である人々はたくさん死にます。そして、アシカビもこの二つのエイリアンの争いを終結させるために戦わざるを得なかった。 アシカビ族は、何しろ草ですからね~、圧倒的に弱いので、バタバタ死ぬ。 こうした状況、こうしたアシカビ族との触れ合いの中で、火の一族と根の一族の一部に思いやる心が芽生えたんです。火の一族、根の一族ともに、どちらか一方の一族を根絶やしにするために作り出された生物(兵器)だったのにです。火の一族、根の一族を、アシカビが変えたんです、アシカビとの触れ合いによって変わったんです。 長く激しい戦乱ののち、 火の一族とアシカビの末裔である人は、根の一族とヨミを封印します。 そして、マリに逆らった火の一族は、人の中でともに生きることを選択します。天孫系のようにアシカビの支配者とはならず、人として生きることを選択した。 いいお話じゃ~ないですか。 アマテラスファミリー、スサノヲ(オホクニヌシ)ファミリーは、 我々庶民であるアシカビファミリーからすれば、所詮、よそ者です。招かれざる客です。 我々は、この二つのファミリーと系統が違うんです。 方や皇族一派、方や地方豪族の血族なんですから。 こんなものは、どちらも神じゃないわい!! オラッチ、アシカビの中にこそ、神は存在するのだ~。 イエスなんて要らんわい!!

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まづ 次の神の名について知られているところを確認したいと思います。  ▼ (古事記・冒頭・別天つ神五柱) ~~~~~~~~~~~~   http://homepage1.nifty.com/o-mino/page198.html  次國稚如浮脂而。  久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】  如葦牙因萌騰之物而。成神名。  宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】  次天之常立神【訓常云登許訓立云多知】  此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。  ▼ (武田祐吉訳:古事記 / 天地のはじめ)) ~~~~~~~~  http://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51732_44768.html  次に國ができたてで水に浮いた脂のようであり、  水母(くらげ)のようにふわふわ漂つている時に、  泥の中から葦が芽を出して來るような勢いの物によつて御出現になつた神樣は、  ウマシアシカビヒコヂの神といい、  次にアメノトコタチの神といいました。  この方々も皆お獨(ひとり)で御出現になつて形をお隱しになりました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち この神は まづ《ひこぢ》であって あしかび(葦の芽)ではないということ。葦の芽が出るように萌えあがる物によって成った《ひこぢ》です。  このヒコヂについては 結論から言いますが 《こひぢ》の間違いだと言います。ひぢは 泥のことです。こひぢも同じく。  なぜなら この神は 《独り神》であるというのに 《ひこぢ(彦舅)》という《夫》を言う語が当てられているのは おかしいというものです。この五柱の《別(こと)天つ神》のあとに 男女神が現われます。  (坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注:日本古典文学大系67 日本書紀 上 補注15 可美葦牙彦舅尊)  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  古事記において、一般の人間は「青人草」であり、自然に生ったものです。  イザナギ、イザナミが生んだものでもなければ、作ったものでもありません。また、イザナギ、イザナミの生んだ神々から生まれたものでもありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうなんですが 人の誕生については そうでありつつ 微妙ですね。ここは 感触で言いますが けっきょく  (あ) イザナキとイザナミも タカマノハラに成りませる神として出て来ます。  (い) そのあと二人は 国作りを成します。矛をもって掻きまわせばオノゴロ島が出来た。(おのづから 凝り固まったという名ではあるようです)。  (う) この島に降りて例のミトノマグハヒをおこなう。失敗をもなしつつ こうして国を生むことが出来た。日本列島を生んだ。  (え) そのあと 海・水・山・木・野などの八百万の神々を生むというかたちです。  (お) 火の神を生んだとき イザナミは死ぬ。  (か) かのじょをイザナキは 黄泉の国に訪ねる。  (き) 見るなの禁を破って見たとき 妻のイザナミは すでに蛆虫がたかっていた。  (く) 逃げようとするとき イザナミみづからも追って来て言うには     ――別れるのなら あなた(イザナキ)の国の人草を一日に千人殺してやる。     ――ならば 一日に千五百人 産んでやる。     といったやり取りがあった。  (け) これは どういうことか? すでに人間が存在している。  (こ) しかも アマテラス・ツクヨミおよびスサノヲなる三貴子が生まれるのは そのあとである。  (さ) 国生みは タカマノハラから降って来たイザナキらが アシハラの中つ国においておこなった。というより アシハラの中つ国をつくったのであり すでにそこには人間が住んでいた。というような情況ですね。  そこへ 別の物語が入って来るのですね。  ◇ 火の一族も、根の一族も、そこに住む人間とは無関係な存在であり、ある日、突然やって来た外来の生き物なんです。エイリアンといっていい存在です。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  長く激しい戦乱ののち、  火の一族とアシカビの末裔である人は、根の一族とヨミを封印します。  そして、マリに逆らった火の一族は、人の中でともに生きることを選択します。天孫系のようにアシカビの支配者とはならず、人として生きることを選択した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 根のカタスクニは すでに初めから死者の国・黄泉ですから たとえば 上(タカマノハラ)中(アシハラ)下の下ですし 地下の国であるかもあるいは海原(ウナハラ)であるかも分かりません。  ◇ 天孫系のようにアシカビの支配者とはならず、人として生きることを選択した。  ☆ これは そうしますと 日本列島の土着の人びとないし〔スサノヲやアマテラス系のやって来る以前の〕先住民を言うということですね。  イヅモにたどり着いたスサノヲですら よその者だという意味ですね。確かにそうです。  あるいは 神武カムヤマトイハレヒコは 日向の高千穂に降りたと言うなら よそからやって来ている。  ヤマトへ行くと すでに同じように《天つ神》を名乗るニギハヤヒがいた。土着の人びとは ナガスネビコらである。  スサノヲが落ち着くことになったイヅモは その風土記では 国引き神話があって 隠岐やらそして新羅からも土地を引っ張って来たと言っている。  外から来た人びとというのは 何度かにわたって そういう波があったのでしょうね。中国からも 特に王族や教養を身に着けた人びとが来ているかも知れない。亡命のようなかたちが考えられます。  あるいはつまり 天つ神と国つ神とに分けられているとき スサノヲの子孫としてのオホクニヌシは 国つ神に入れられている。けれども この二種の人びとが そもそも外来種である。ということでしょうか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  アマテラスファミリー、スサノヲ(オホクニヌシ)ファミリーは、  我々庶民であるアシカビファミリーからすれば、所詮、よそ者です。招かれざる客です。  我々は、この二つのファミリーと系統が違うんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (し) たぶん 言語から行くなら 次のように区分されると思われます。  1. 古アジア諸語(アイヌ・ニヴフ・・・)  2. アウストロネシア諸語(マラヨポリネシア諸語)  3. タミル語(ドラヰダ語族)  4. トゥングース諸語(ナーナイ・オロチ・エベンキ・・・)  5. トゥングース諸語(高句麗語・朝鮮語)  6. ・・・  (す) アマテラス≒スサノヲ系は 朝鮮語系ではないか。  (せ) 先住民は (1)(2)ではないか。  (そ) 定説ではないですが ニギハヤヒのごとく先にやって来ていた渡来人は (3)のタミル語人ではないか。  (た) まぁ よそ者に対してつまり まれびとは お持て成しをしたでしょうね。先住民は。  (ち) タミル語は 農耕にかんする語彙が対応するという根拠があるかに見られます。つまりは 文明をもたらした。  (つ) 日本語の音節のつくりは 一子音+一母音( CV )から成っています。これは どの言語にも当てはまりません。わづかに (2)のポリネシア語のどこかにそういった発音の傾向を持つ言語があるのだとか。    ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  方や皇族一派、方や地方豪族の血族なんですから。  こんなものは、どちらも神じゃないわい!!  オラッチ、アシカビの中にこそ、神は存在するのだ~。  イエスなんて要らんわい!!  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ (て) ナガスネビコはニギハヤヒとは 仲がよかったようにも見られますが ニギハヤヒが殺してしまいました。  (と) 神話で言う《神》とは だいたい自然の生物や環境あるいはそのチカラについての神格化か 人間の英雄の神格化だと見られます。つまり 経験世界におさまります。つまり 神を名乗っていても 自分は偉い人間だと言っているに過ぎません。  (な) イエス・キリストが 大嘘をついて世界史上最大最高の大芝居を打ってつたえようとしたことは 《人それぞれに 例外なく 普遍で共通の神は――霊として・つまりワケの分からないナゾとして――存在する》です。つまり 《キリストなんて要らんわい》です。それまでの――有る意味でオラッチだけの狭い世界における――神を揚棄した。

回答No.7

そうそう、 根の一族からも神・ヨミの反逆者が出てくるんですよ。 主人公達に術(巻物)を授ける天狗が根の一族の造反組の代表なんですがね。 善神(?)マリと邪神(?)ヨミともに、 自身が産み出した火の一族と根の一族に神に逆らう力は与えていなかったけれど、 互いに殺しあっているうちにその力を獲得した、 その力が芽生えた、 ということになるのですかね。 天外魔境2というのは、そういうお話です。 ですが、 わたしは、話を膨らませるのが得意だから、 実は天外魔境2には大して哲学性なんかないのかもしれませんが(ポリポリ)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 善神(?)マリと邪神(?)ヨミともに、  ☆ 善悪や正邪で規定するのは まづ記紀神話としては なじまないでしょうね。  死者の国は どちらかと言えば 悪かも知れませんが タカマノハラが 正義で善だということは 筋が違うでしょうね。違う設定を持って来たと言えば それまでですが。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  善神(?)マリと邪神(?)ヨミともに、  自身が産み出した火の一族と根の一族に神に逆らう力は与えていなかったけれど、  互いに殺しあっているうちにその力を獲得した、  その力が芽生えた、  ということになるのですかね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《造反》というテーマでしたら エワとアダムとそしてヘビの物語ですね。すなわち 自由意志の問題だと思います。被造物でいて しかも創造者にさからう自由を持つというかたちです。  ◇ 主人公達に術(巻物)を授ける天狗が根の一族の造反組の代表なんですがね。  ☆ たぶん いまの問題としての自由意志は やはり誰もにそなわっているとしたほうがよいように思います。《天狗》を出すにしても 一人ひとりにそれぞれこの天狗の要素またはチカラがあるのだというふうに。  巻物は 話を分かりやすくしているためであって それが一人ひとりにそなわる自然本性の中の自由度であるのかも知れませんが。    ですかねぇ。

回答No.6

ヨミ → オホクニヌシ・(スサノヲ) マリ → アマテラス ほいで、  火の一族 → 天孫系  根の一族 → 地獄の民(?) みたいな対比ですかね。 根の一族の「根」は、 「根の国」、「根之堅州國」からとっているようです。 古事記などの日本の神話を元にして作ったゲーム(RPG)です。  大和VS出雲  アマテラスVSスサノヲ(オオクニヌシ) です。 そのままでは、何かと問題があるので───皇室を侮辱している、とかの話になるので───、 「マリ」と「ヨミ」と名前を交えてありますけれども。 で、 根の一族は、非常に優れた科学技術を有しております。理性の象徴でもある。そして、やることは非常に合理的。目的達成のためならば、みずからの体の改造すら厭わない。大規模な自然破壊も行なう。 これに立ち向かうのが天孫系の火の一族。ヨミの作った根の一族を根絶やしするために、マリによって作り出されたのですけれど、 マリの命令に背いて、根の一族を根絶やしにしなかった。 火の一族は、みずからの意思で創造神であるマリに背くわけですよ。 だから、高天原には戻れない。 地に残った火の一族の中には、生き残った根の一族と交わる者も出てくる。 その末裔たちが、あのRPGに出てくる主人公達と言うわけです。 そして、ゲームの最後の場面で神殺しを行なった。 もう、「支配原理としての神は要らない」と言うわけです。  ───「殺す前に、神は既に死んでいた」と言ってもいんでしょう。神様には引っ込んでもらう─── ニーチェの「神の死亡宣言」ですね。 まぁ、そういうお話です。 日本のコンピュータゲーム、Video Gameには、「神殺し」が結構、出てくるんですよ。 人が、大天使ミカエル、救世主(第二のイエスですな~)に加えて、ヤーハウェを殺すことの出来るRPGすらあります。  ───大日如来を殺すことも出来ますよ(ニコニコ)───

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~   大和VS出雲   アマテラスVSスサノヲ(オオクニヌシ)   ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ であれば     ◇ 根の一族の「根」は、 / 「根の国」、「根之堅州國」からとっているようです。  ☆ ではなくて トヨアシハラの中つ国を持ってこなくては。・・・  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  これに立ち向かうのが天孫系の火の一族。ヨミの作った根の一族を根絶やしするために、マリによって作り出されたのですけれど、  マリの命令に背いて、根の一族を根絶やしにしなかった。  火の一族は、みずからの意思で創造神であるマリに背くわけですよ。  だから、高天原には戻れない。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アシハラの中つ国なるイヅモにやって来たのは そこがタカマノハラなるアマテラスの領土であるから 服属せよということですよね。《根絶やしにする》というのは 解せません。要するに その地での収穫を横取りしようというわけですから 殺してしまっては 分け前がなくなります。  おれたちに従えという《外交》にやってきた使いたちが けっきょくイヅモが気に入って 復命しなかったのは 記事にありますね。アジスキタカヒコネでしたか 何だかそんな名前。三四人来ていますよね。何年も居着いてしまった場合も。  マリは 創造神なんですか。中途半端に途中から現われるのではなく 初めから創造神にしてしまったのですね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  そして、ゲームの最後の場面で神殺しを行なった。  もう、「支配原理としての神は要らない」と言うわけです。  ───「殺す前に、神は既に死んでいた」と言ってもいんでしょう。神様には引っ込んでもらう───  ニーチェの「神の死亡宣言」ですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ニーチェの場合は 《支配原理としての神》であるかも知れませんが 言おうとしていたのは 人びとの観念としてその頭を支配している観念の神のことですよね。《非経験の場》だと言っている気配はちっとも感じられません。  《非知》なるナゾとしての神は ほんとうには《支配原理》であるかどうかも 人間には分からないはずなんです。  《絶対・無限》という概念を当てはめて理解しようとしたその想定のもとでは 経験世界を超えている。経験世界を超えているということは 次元の違う場ないしチカラとして 経験世界をつつんでいるといった推理も出て来る。というかたちで 摂理だとか支配原理だとかとしても 捉えられる。  でも この想定じょうの推理にかんしては それを《要らない》とか《神殺し》だとかとして 人間が操作しても 何にも意味をなさないはずなんですが。  たとえ預言者が出て 神のことばを伝えたとしても ほんとうにはそんなことは人間には それが現実であるかどうかが分からないはずです。その意味では 《神は 初めから 引っ込んでもらっている》とも言えるでしょうし。  ううーん。やっぱり 神が人間世界に対して いかに振る舞うにせよ 問題は 人間が闇の中にいるかどうか そして 闇の中にいるのなら 光を見ることが出来るようになるかどうか だと思っているのですが。・・・  しかも どのように光が見えるようになったか? その仕組みについて 人間は考えたのでしょうね。  《考えた》という視点で言うとすれば イエス・キリストは 人類史上最大の虚構を持って 光を見させた。のだと思われます。これを 再度問いたかった。のですが。・・・

回答No.5

私の質問「神道とは何か?」 の補足に、 ~~~~~~~ よろしかったら、 天外魔境2のラスボス~エンディング、 https://www.youtube.com/watch?v=249jpZet1Xw の7:00(正確には6:58)以降をご覧ください。 記紀神話や聖書を超えているかもしれない(ニコニコ)。 ~~~~~~~ と書きました。 bragelonneさんもよろしかったら、 これをご覧にください。 現代の神話ですよ、これは。 そして、 「人間とは如何なるものであるのか?」 の一つの答えになっているのではないか、という気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  根の民と日の民ってところですか?  正直言って わっかんないです。  根子と日子ですか? それならそれで わたしはすでに書きましたし。  何とも言えず・・・ですが どうしましょう。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.4

No2です >光だと分からないといった意味ではないのでしょうか? そういった意味です >光の中にはいるわけです。《闇の中にはいない》のですから。 >そういうことではないのでしょうか? 光の中にはいないと思います ここでいう闇と光はその論理では捉えられないからです というのも理性の働きは他の人間の能力を発揮するのに必要なものですから 理性の働きがなくなるということは同時に理性以外の能力も失うことを意味してます 故に闇の中にいない人は光の中にいません 例えるなら理性とはPCで言うところのOSです ソフトを動かすにはOSが必要ですから、OSが機能しなくなるということは ソフトも動かせなくなることになってしまいます >その人たちの持つ《目》で 闇の中を見ることは出来るかも知れません。けれども  >この闇を晴らすことは むつかしい。誰もが光を見るのには どうなればよいか? >どうでしょう? >大脳新皮質や言語機能を超えたところではたらくチカラ なのではないでしょうか? 光には理性の光や知性の光、感性の光がありますが bragelonneさんが言う光とはそれらとは別の光のことを言ってるみたいですね 知性の光や感性の光は学問や芸術で見ることができますから しかもそれは大脳新皮質で捉えられない類の光であると どういった光なのかは分かりませんが、その光の働きが我々でも認識できるものへ 影響を及ぼすことがあるのであれば、その影響を手掛かりにしてどういったものか 知る程度が限界だと思います あとは可能性の話ですが、人間が進化してその光を捉えることができる感覚器や 脳の新しい領域を獲得できれば見ることができるでしょう

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  理性の働きがなくなるということは同時に理性以外の能力も失うことを意味してます  故に闇の中にいない人は光の中にいません  例えるなら理性とはPCで言うところのOSです  ソフトを動かすにはOSが必要ですから、OSが機能しなくなるということは  ソフトも動かせなくなることになってしまいます  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ うんとですね。ええっとですね。  神は この経験世界を超えていますよ。  つまり たとえば因果関係から自由なわけです。  《理性も PC の OS もソフトも》みな経験的な存在でありその事象であります。因果関係から自由ではなく この原因によってその結果が現われるといった経験則に従います。  神は 《非経験の場》であり《非知》であり この経験則を超えています。と想定されるわけです。この非経験の場というナゾを わが心に受け容れたなら そのときわが心には《非思考の庭》が成り立ちます。  なぜなら もしそうでないのなら そのような神というのは 人間の考え想像しつくった観念や機械装置やでしかないからです。観念の神は 人間の想像の産物です。機械装置と同じようにです。  すなわち 次のように捉えてくださったそのものです。;  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >その人たちの持つ《目》で 闇の中を見ることは出来るかも知れません。けれども    >この闇を晴らすことは むつかしい。誰もが光を見るのには どうなればよいか?   >どうでしょう?   >大脳新皮質や言語機能を超えたところではたらくチカラ なのではないでしょうか?  光には理性の光や知性の光、感性の光がありますが  bragelonneさんが言う光とはそれらとは別の光のことを言ってるみたいですね  知性の光や感性の光は学問や芸術で見ることができますから  しかもそれは大脳新皮質で捉えられない類の光であると  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち:    信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観    ------------------    考える:《思考の緑野》:理性    感じる:《感性の原野》:知覚。直感。    どうでしょう。

  • pop100
  • ベストアンサー率0% (0/6)
回答No.3

まず キリスト降臨の事ですが 神は手出し出来ない期間に送る為に「間接主管圏」の法則よりも強い愛の力を利用しました・・ 何もしないよりは 助ける事を選んだだけ・・神と人間は「親子」なので 子供の為には 命と引き換えの緊急策もあるのです そして イエスを使命し・・・でも 結局 果たされて無かったのだから 次にもキリストの使命を持った人が現れないと神の元には辿り着けない・・ まっ こんな(教えてgoo)で話す様な事では無いので 此処まで・・・・ 後は あなたの好きな様に・・どうせ この事が明らかになる日は近いのだから・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「間接主管圏」の法則よりも強い愛の力を利用しました・・  ★ 子供の為には 命と引き換えの緊急策もあるのです  ☆ ですから こういう見方は どこから出て来ますか? そう見ると 分かりやすいといったことなのでしょうか?  旧約の時代は すべて《手出し》としては 《直接主管》ですね。その説明を預言者に担わせて。  モーセに律法を伝えたのも 直接主管ですね。  アブラハムに信仰そのものをあたえたのは 直接主管であると見るならば その信仰の中身を 倫理規範ないし法律として――つまりは 律法として――モーセに与えたのは むしろ間接主管だとも見られます。  つまり モーセ自身には 同じ信仰を与えたのですから 直接主管ですが 人びと一般に対しては 規範としての神の言葉を与えたのだから 言わば間接主管です。  いろいろですね。    イエスなる人間に肉化したキリストというのも 直接主管だと見られると同時に 神の手を直接には ユダヤおよびローマに対してくださなかったとすれば 間接主管だとも見られます。いろいろですね。  ★ そして イエスを使命し・・・でも 結局 果たされて無かったのだから 次にもキリストの使命を持った人が現れないと神の元には辿り着けない・・  ☆ これは 真っ向から見方がぶつかります。反対です。  なぜなら すでにイエスはハリツケの姿のとき その木の上で すべては成就したと言ったからです。  こんなところでしょうか。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.2

>闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには? 今は闇の中にいないということは理性が全く働いていないということなので この問いは理性の助けなしに何らかの能力やその働きを認識するにはと言い換えられます また、大脳新皮質が機能してない人は何事かを認識できるかとも言えます 大脳新皮質は思考や言語機能を司るので光を見ても恐らくそれが何であるのか 理解できないと思います 知覚することはできるでしょう目は機能してますから ただそれを光であると認識はできないと思います つまり実質的に見えているとは言えません なので闇の中にいない人は光を見ることができないと思います

bragelonne
質問者

お礼

 あしさい888さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ なので闇の中にいない人は光を見ることができないと思います  ☆ たぶんそれは 光だと分からないといった意味ではないのでしょうか?  つまり 光の中にはいるわけです。《闇の中にはいない》のですから。  そういうことではないのでしょうか?  理性は 肉の目ではなく 心の目です。肉の目の延長として 望遠鏡や顕微鏡があります。ほかにもセンサーがあるかとも思います。そしてそれらではなく 心の目があるということですが この質問で問うているのは じつは この《心の目》でも たいしたことではない。ということです。    たぶんおっしゃっているのは 科学の目であり人格としてそなわる心の目です。  しかも これだけでは せいぜいが どんぐりの背比べで群れを抜け出している気高い人たちのことになるかと思うのです。  その人たちの持つ《目》で 闇の中を見ることは出来るかも知れません。けれども この闇を晴らすことは むつかしい。誰もが光を見るのには どうなればよいか?  どうでしょう?  大脳新皮質や言語機能を超えたところではたらくチカラ なのではないでしょうか? と問うています。

  • pop100
  • ベストアンサー率0% (0/6)
回答No.1

神は神 キリストは人間です 神は 人間に成長過程の時には 神自身も手出し出来ない期間(間接主管圏)を設けたので 何が起こっても(堕落)助ける事は出来ない・・ その為 救いの道として キリストを送ったのです・・ キリストと同じ道を歩んで 神の手出し出来る世界(直接主管圏)に辿り着く事が出来る様に・・ そして それが イエスの使命であったが 果たせないまま 十字架での事になり 霊的な信仰(キリスト教)を世界に示し 次の実体キリストの来る準備を整えた・・ そして そのキリストは この世に送られ 全てを成されました・・ 少しずつだが 変わって行ってるのです・・ 濁った水に綺麗な水が注がれて やがては綺麗な水になる様に・・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ぽぷ100さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 神は神 キリストは人間です  ☆ 神は神。また 三位一体の神は神であり 子の父と父の子と両者から発出する聖霊と すべて個々の神も全体としての神も みな同じ神です。  キリストは 子なる神を言います。キリストは 神の子でありみづからも神です。(ヨハネ福音冒頭)。  このキリストが 肉に造られた。すなわちこれが イエスなる男であり人間です。  ★ 神は 人間に成長過程の時には 神自身も手出し出来ない期間(間接主管圏)を設けたので 何が起こっても(堕落)助ける事は出来ない・・  ☆ いったいそんなことは どこで分かるのですか?  もし《神が手出ししない》とすれば それは つねにどこでも・誰にでもだという見方になると思われます。  《手出しが 出来る・出来ない》については 人間が決めるわけには行かないでしょう。  《何が起こっても助けない》というのは つねにそうだとも言えます。     わたしは 双子の兄のエサウを憎み 弟のヤコブを愛した。   わたしはいつくしもうと思う者をいつくしみ   あわれもうと思う者をあわれむ。   風は 気ままに吹く。  というようにです。ですが 《(間接主管圏)》というのは 知りませんでした。  《間接》にも《主管》しているのですか? 手出しを間接的にはおこなうのですか?    ★ その為 救いの道として キリストを送ったのです・・  ☆ だったら 《主管》しており《手出しをしている》のではありませんか?  ★ キリストと同じ道を歩んで 神の手出し出来る世界(直接主管圏)に辿り着く事が出来る様に・・  ☆ めちゃくちゃです。どうして《神と同じ道をあゆむ》ことが人間に出来るのですか?  ★ そして それが イエスの使命であったが 果たせないまま 十字架での事になり 霊的な信仰(キリスト教)を世界に示し 次の実体キリストの来る準備を整えた・・  ☆ めちゃくちゃです。キリストはすでに来ました。イエスが 自分は父なる神の子であると言っているぢゃないですか。  ★ そして そのキリストは この世に送られ 全てを成されました・・  ☆ 成した《すべて》とは何か? これが 問うている主題ですよ。何ですか?  《闇の中にいた人が光を見たと言えるようになる》ことで よいですか?  ★ 少しずつだが 変わって行ってるのです・・  ☆ いえ。いっぺんに変わったのです。そのあと むかしの傷が癒えて行くのは たしかに時間の過程を経てのことです。百年かかるか。千年 あるいは 万年かかるか? ・・・  ★ 濁った水に綺麗な水が注がれて やがては綺麗な水になる様に・・・・  ☆ いえ。――ことごとく反論してもうしわけありませんが―― もともと《きれいな水がよごれていたのですから もとのきれいな水に立ち還った。その力を・つまり光を見るチカラを与えられた》ということではありませんか?  というふうに考えています。どうでしょう?

関連するQ&A

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味ではないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰を わが心なる《非思考の庭》として現わした。    という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。  (κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう考えますか?

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題について問います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき)

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき)  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題についてあらためて問います。何かを論破するためだけのものではないかとの批判を受けてのことでもあります。それについては この命題は そのとおり論理を問題にしているという答えなのですが ほかの見方による批判についても 受けつけたいと思いました。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  念のために言えばこれは 哲学です。よろしくどうぞ。    * この哲学だけでは 中国の理不尽さには対抗できないという情けなさを噛みしめつつの再掲でもあります。その中国脅威論をからませてもご投稿ください。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。