現代政治哲学者のベスト5は?

このQ&Aのポイント
  • 現代政治哲学者のベスト5についてランキングを作成します。
  • ロールズがおそらくNo.1と思われますが、他の候補も考慮に入れます。
  • 現代政治哲学の書籍を参考にすることをおすすめします。
回答を見る
  • ベストアンサー

現代政治哲学者のベスト5は?

現代政治哲学者の重要度について… 色んな哲学者さんによって分野も違うし、序列をつけることにあまり意味はないかもしれませんが、仮にランキングをつけるとしたら、 現代政治哲学者のトップ5ってどういう人の名前が上がりますかね? 世界文学ベスト10!みたいなやつです。 おそらくNo.1はロールズではないかと思いますが… ノージックは、消化不良ぎみではありますが一応読みました。 ノージックより極端な、完全な無政府社会を論じる論者は、現実離れしすぎているという意味で序列は下がるのではないか、と思っていますが… 色々な人がいるので、誰の書籍から優先して読むか、参考にさせていただければ、と思います。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 補足 もしディビッド・フリードマンの名前が挙がるならば、むしろミルトン・フリードマンの方が適切でしょう。有名な「経済学者に関する三類型」を理論と歴史へのアプローチとの視点で類型化したことで知られてもいます。  シカゴ学派でありながら対峙するマルクス対してもケインズに対しても 、純粋に方法論とロジックだけを採り上げるとの点でイデオロギー性を一旦横に置いて観察もしています。そうした意味から考えるなら、政治経済学の研究者として評価することも可能でしょう。  こうした点ではロールズもサンデルも社会科学領域としての政治学ではなく、むしろ倫理学的な部分に属する研究者といえるでしょう。  そうした系譜を辿ることでば名前が挙がるのは当然の事ながらアリストテレスの『ニコマコス倫理学』であり、スピノザの『エチカ』そしてカントの『道徳形而上学原論』および『三批判』そしてアダム・スミスによる『道徳情操論(または道徳感情論)』に行き着くことで、漸くと近代を説明できることになります。  サンデルがなぜスミスを外しているのかが未だにわかりません。それほどに無視するならば、その後に登場もするマルクスもヴェーバーも全く西欧社会にとって必要のない人物との評価になってしまい、原点回帰を中心に据えることはまかり間違えば、ヒトラー同様の悪夢をもたらしかねもしないとの危惧も感じます。

その他の回答 (4)

回答No.4

こんばんは。「政治家」とは呼ばないかもですが。 ◇アリストテレス ◇プラトン ◇ジョン・ロールズ ◇マイケル・サンデル ◇クロード・レヴィ・ストロース ◇ミシュエル・フーコー ・配分的正義や調整的正義について考える人 ・国家について考える人 ・個人、公共、自由、平等について考える人 ・文化人類学を探求する人 ・権力について考える人

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.3

 世界文学のベスト10!といっても読者によって嗜好も異なりますから、そんなものは参考にもなりません。政治学でも同様です。  僕も間違いなく、ヘーゲルにはじまりカール・マルクス、マックス・ヴェーバー、ハンナ・アーレント、カール・レーヴィット 、カール・ポランニーを先ずは挙げます。  その上で更に挙げるとするならばベネディット・クローチェ、ジュルジュ・ルカーチ、ダグラス・ラミス、ロナルド・ドーア・テッサ・モーリス・スズキ、それに伴って20世紀後半に新たな地平を切り拓いた例のサミュエル・ハンチントン、アントニオ・ネグリ、ジョバンニ・アリギ、エマニュエル・トッドの名前も上がります。  日本の政治学ならば、この人を外すことができない人物として、南原繁・丸山眞男・藤田省三・萩原延壽・岡義武・神島二郎・石田雄・京極純一・三谷太一郎・篠原一・佐々木毅・藤原帰一・中島岳といった名前も挙がってきます。    若干補足しますが、優れた作家やジャーナリストが同時に優れた歴史家でありまた政治学者であることもヨーロッパではかなり広く知られている部分で、そうした意味からすればトーマス・マンも『非政治的人間の考察』で知られるように政治学者であるといえますね。更には彼の日記を読めばそれがより明確にもなります。  ヒトラーがハイデガーを利用したのかハイデガーがヒトラーを利用したのかは評価も分かれるところですが、少なくともハイデガーの『ニーチェ』は「美と永劫回帰」及び「ヨーロッパのあらゆる価値観の顚倒」との論考が示す様に、明らかにニーチェの持つ政治性をターゲットとしてもいます。  ただ僕としては、ロールズを評価することに抵抗もありますね。本質をさておいて功利主義をモノサシとしたり、二元論的スタイルにはどうしても胡散臭さが伴います。あのスタイルではアメリカ的であってもそれ以外の文化圏での考え方をさほど認めようともしないようですので。  その上にロールズのスタイルでは、「国家」とのソリッドステートな枠組での対立は説明できても、アメーバ状の組織や信仰を規範とするつながりとの向き合い方を説明する言葉が見当たらないのです。この点ではノーム・チョムスキーと鮮やかな対比を見せるところです。評論家ではあっても自らは情報を発信せずあるいは行動を呼びかけたり行動したりしないのでは政治学者としては失格です。  そして何よりも彼はカントを誤読してもいて、「道徳」を全ての価値判断の基準とするならば、そのモノサシもそれこそ信仰や文化、歴史といった土壌により異なりもしますから普遍性を求めるならば特殊性とのバランスをどうとるかとの問題に答えなければならないとの必然性を生じますが、彼は何一つとしてこの問題には答えてもいません。それを見抜いたサンデルは幾分かましですが。それでも二項対立からはどうしても抜け出せないでいますね。  

回答No.2

一位はロールズだろうね。 これは、疑いようがない。 あとは、 2位 ノージック 3位 フリードマン 4位 ??? 5位 サンデル 2位、3位をリバタリアンが占めているけれど、この二人が世界(経済)に与えた影響は絶大だから、この二人が上位を占めるのは当然。 4位は、浮かばない。なんなら、ここに、ニーチェを入れて。ニーチェの思想は、ナチズムの理論武装に用いられたから。 外国人だけがランクインしているのが気に入らないなら、日本代表として、西部邁をここにいれる。 5位のマイケル・サンデルは、人気があって、知名度が高いから。 個人的には、ロックやベンサムも入れたいところだけれど、これはさすがに現代政治学者とは呼べないんで。

kgat0769
質問者

お礼

フリードマンはディビッド・フリードマンでしょうか? 5位にサンデルということはやはりコミュニタリアンよりもリバタリアンの方が影響力が絶大だった、ということを評価してでしょうか? ニーチェは正直イメージわかないですね…ニーチェのどんなところがナチズムに取り入れられたんですかね?ナチスと言えばハイデガーの方が有名かな?とも思ったのですがこちらは体よくナチスに利用されただけだったんでしょうか?ニーチェの方が思想的な影響力は強かったんですかね? 例えばロナルド・ドゥウォーキン、チャールズ・テイラー、マイケル・ウォルツァー、ロスバードと言った人たちは入りませんでしょうか? ロスバードは質問に書いたように極端な無政府主義者のようなので、個人的に若干疑わしいと思ってますが、哲学的価値が高ければ読んでみたい気もします。(でもD・フリードマンもそうか…) 個人的にトマス・ポッゲという人の本がアマゾンで目を引いたのですが、他に政治哲学の中で巨大な存在、というような人がいたらそれも早めにチャレンジしないと…と思ったのです。

回答No.1

現代というのは、今生きている人っていう意味? 過去100年間という意味なら、私が挙げるトップはハンナ・アーレント、次にレオ・シュトラウス、マックス・ウェバー、テオドール・アドルノ、ユルゲン・ハーバーマス、マックス・ホルクハイマー、ライト・ミルズ、位ですね。 中には必ずしも政治哲学者というより、社会学者とか哲学者と言った方が良い人も交じっているけど。

kgat0769
質問者

お礼

レオ・シュトラウス、アドルノ、ホルクハイマーという人たちは名前を聞いたことくらいしかありませんでした。みんな政治学者、哲学者と言った人たちでしょうか? アーレントは、人間の条件だけ読みましたが…さっぱり面白いとは思えませんでした(+o+)人間はできるだけ「活動」の時間を増やさないといけない。ポイントはその辺ですかね?アーレントを勧める人は多いのでそのエッセンスをつかめるようになりたいとは思うのですが… 例えばロナルド・ドゥウォーキン、チャールズ・テイラー、マイケル・ウォルツァー、ロスバードと言った人たちは入りませんでしょうか? ロスバードは質問に書いたように極端な無政府主義者のようなので、個人的に若干疑わしいと思ってますが、哲学的価値が高ければ読んでみたい気もします。 個人的にトマス・ポッゲという人の本がアマゾンで目を引いたのですが、他に政治哲学の中で巨大な存在、というような人がいたらそれも早めにチャレンジしないと…と思ったのです。

関連するQ&A

  • 実存哲学

    ハイデガーの実存哲学(主義)とは現代存在論は同一のものなんでしょうか?いろいろ調べてみたんですがいまいちよくわかりません(>_<)それからカントやデカルトの(近代)認識論から(現代)存在論へと移行したということについてなんですが、どのように移っていったのかむずかしくて理解できませんでした!このことについても詳しい人、教えてくれませんか?お願いします!

  • 20世紀の哲学は科学と文学に分裂した?

    東浩紀さんによると20世紀の哲学は科学と文学に分裂したのだそうです。「科学」とは、英米哲学が源流で分析哲学など自然科学と相性のよい哲学です。「文学」とは大陸哲学の系統でハイデカーとかフランス現代思想が入ります。いかに生きるべきかなど人生論もこちら。普通に哲学というとこちらのようです。両者はまったく言葉が通じないほと違うらしいです。 そこで質問です。今後、哲学は分裂したままなのでしょうか?それとも統合していくのでしょうか?あるいはどちらか廃れていくのでしょうか?今後の予想をお教えください。

  • ロールズを真のグローバルジャスティスにするには?

    ロールズの正義論は学会では多大な影響力を与えたようで、実際私も大変魅力ある学説だと思っていますが、コレってちょっと乱暴に大雑把に言ってしまえば、 弱者の立場に立って考えよう、社会的弱者の立場を少しでも有利な位置に確保しよう、ということを学問的に言っているだけですよね? これはすごく抽象化して考えれば従来の左派、マルクス主義とあまり変わらないんじゃないか…?と思うのですが。 マルクスが資本主義を分析したのに対して、ロールズはあくまでも正義の論に終始していると思います。その点で社会的インパクトがどうしてもマルクスに劣るのではないかと… そこでロールズ哲学の影響力をもっと広げる、世界レベルに拡張するのであれば、現代経済学、あるいは国際政治学などとミックスしたメタ理論を構築しない限り成功しないんじゃないか?と思いますが、いかがでしょうか?というかそういう説得的な理論が登場していないから、影響力がアカデミズムの世界に留まるだけで、現代アメリカ社会は超格差社会に堕しているんじゃないですかね? ロールズの後継者たちは、そういうメタ理論の構築にトライしているのでしょうか?

  • 日本人の「正義論」

    西洋において、アリストテレスやカント、ロールズなどが「道徳的正義」について論じていますが、 古代から現代までの思想史において、日本特有の「正義」観は存在するのでしょうか。 それについて述べられている文献があれば、是非お教え頂きたいです。 (哲学に限らず、社会学、宗教学、文学などジャンルは問いません) どうぞ、よろしくお願いします。

  • 哲学・現代思想は科学や芸術をどうとらえているのでしょうか??

    初心者です。 哲学はある意味、主観と客観の一致の問題を考えてきたと捉えています。(違ったらすいません) (真理は存在するか??客観視は可能か??など) そこに近代哲学批判のニーチェが出てきて・・・ 「真理などはない、すべてあるのは解釈だけだ」と述べ、その考えが現代思想の根本にある気がします。 ポストモダン思想などは懐疑状態に陥ってしまったと思っているのですが(すべては差異だとか戯れだとか)、哲学・現代思想は、ある程度法則が見つかったとされる物理学(運動が説明できる)や生物学(遺伝子など)などをどう捉えているのでしょうか?? また、最近は「人それぞれ」というのが流行っていますが、何処までが人それぞれなのか?? 美しさや善悪の判断など、微妙にそれぞれといえないものがあるのはどのように説明されるのでしょうか??(芸術や道徳がなぜ存在するのか?人それぞれだと存在している意味がない) 気になったので質問させていただきました。よろしくお願いします。 あと、根本的に解釈が間違っていたらご教授して頂きたいです。

  • 認識論は哲学ではない

       問う人: 認識論は意味が無いとゆー人がおるが、実際そーなのか。 「人の道」: はっきりゆーて認識論は哲学ではない。 問う人: なぜ認識論は哲学とは言えんのか。 人の道: 認識論とは、例えば次のよーな問いを発することである。   今わしが食っているこのおにぎりは果たして存在するのか、   今おにぎりを食っておるこのわしは果たして存在するのか、   今わしが生きているこの世界は果たして存在するのか、   今わしが死んだらその霊魂はどーなるのか、存在するのか、             ・             ・             ・ しかし、これらは哲学とは呼べない。 なぜなら、これらの問いを発しても何一つ価値ある答えは得られないし、何一つ価値あるものは生まれないからである。 実際、これらの問いは昔から行われているが、これらが何ら価値あるものを生み出した試しがない。 また、これらの問いには何等の思想も理念もない。 哲学と呼ぶには思想や理念がなければならない。 哲学と呼ぶにはもっと高い位置に立つものでなければならない。 これらは単に漬かろーとする心から自然に生まれるものに過ぎない。 どーやら宗教的精神は認識論が土台になっていると見える。 これらが長年にわたり哲学の進歩発展を阻害し、本来あるべき哲学を蝕み退化させた。 哲学における病巣とゆーてえー。 問う人: 認識論は単に漬かろーとする心から自然に生まれるものに過ぎず、哲学とは呼べないゆーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。    

  • ロールズは全体主義者か?

    アメリカの哲学者、ジョン・ロールズは現代リベラリズムの論客で正義論を書いた人物ですが、一部のサイトでは彼のことをマルクス主義と同系列の全体主義思想の持ち主であるとか、極左だとかしています。これはまともな学界では相手にされる見解なんですか? 確かロールズは原爆投下は不正であると述べており、(指導者・要職者/兵士/非戦闘員の区別、相手国の非戦闘員の人権尊重が理由)またマルクス主義者も正義論を批判していたこと、正義論では個の尊重、自由、平等が記されていたことから、ロールズが全体主義者だったとは思いません。 ロールズの意見への好き嫌いは自由ですが、このようなレッテル張りは良くないと思います。

  • 哲学かてとは何か? その使命と役割

    この哲学カテとは何ぞ? という質問です。 わたしが哲学カテに始めてきた頃には、 カントの○○は、ロールズの△△は、という有名哲学者の思想、 あるいは、 独我論とは、自然主義、懐疑主義とはなにか? といった質問が多く寄せられていました。 しかし、今の哲学カテは、何でもありのカオス状態!! カマキリ踏んじゃった話───この哲学カテに長く巣食う魑魅魍魎どもには、これだけで分かるはず───にはじまり、果てはペット供養の相談などなど何でもありの状態。 混沌に満ち溢れています。 これは、既に哲学カテがその本来の使命を終えたと考えるべきなのか、 人間の生にまつわることはすべて哲学であるという新たな進化発展の段階に達したと考えるべきなのか? 眠り猫から、哲学カテの皆さんにお尋ねします 名にし負はば いざこと問わむ 哲学カテ!! わが思ふ人(哲学)は ありやなしやと? 現在の哲学カテに哲学はあるのか? 次々と寄せられる質問は哲学的質問なのか? 皆さんは、哲学カテの現状をどのように思われているのか? そして、この哲学カテは、どこに向かおうとしているのか? 皆さんの思いを教えてください。 回答をしたら、こんなお礼がきました、という自慢話でも構いません。 この哲学カテゴリーに関するものなら何でもOKです。 皆さんの熱い思いを吐露しちゃってください。

  • 『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないの

    『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないのか?』  ネット苦手人間なので リニューアル後のタイトル文(上記のような)を書く場所が解かりません^^。 あとで重複箇所が出来てしまう場合は 取り消せるなら上記の部分を消すことにしてともかく書いてみますね。 私はアカデミックな哲学の世界にたいへん無知な人間なのですが 現在 アカデミックな哲学の世界に失望しています。 なぜ、 諸学問を統合して、 人間に役立つ論理の構築をしてくれないのでしょう。 同じ生涯の意識内の世界であるならば、すべて学問はすべて有機的なカタチで結びついているはずです。 それをより生き生きと 私たち人間の生涯に役立つように総合的に考察して そこに その礎(いしずえ)となるような精神的バックボーンを与えてくれ、そこに、現代の問題がいかに大きく複雑でも それを解決する糸口や見通しをつけるべく、すくなくとも その実践のための土台を提供し、 そこにコミュニティなり 社会なり 政治なりに実践をともにしてくれる哲学が、    なぜ、 いままでの哲学を多く総合的に学んでこられた方の中から出てこないのだろうか? それが、アカデミックな過去の哲学への 私の疑問です。 現代は情報化時代であり、 昔より多くの人間の問題を よりリアルに認識し、考え抜き、迷い、解決の糸口を求めつづける端緒が私たちの生涯の意識の中には、 そこから目をそらさない人であるかぎり、 育ち膨らんでくるということもあるかとは思います。(昔の哲学よりも、現代から生まれつつある哲学を重視しようという考えです) が、そのための、学問の総合化への意思を、 哲学の質疑に、今のところは見出せないでいます。 建築の図面を描けば、それは建築物を作るときに役立ちます。 その建築が どのように私たちの生涯と関っているのか、より大きく関れるのかを分析すること(哲学すること、総合的に現代の諸学問、科学を活用して考えること)は、さらに役立ちます。  それだけよりよい図面を描けるようになるからです。   が 同時に そこに人間に役立つ諸学問、諸学問の成果とは関係ない、 無数の線を引いてその意味?を問い続けることもおそらく論理的には可能でしょう。  でも 哲学ってそれでいいのですか?  痛みや、幸せへの希求の世界が私たちの意識の内奥にこんなにも 痛々しく、せつせつとして流れているのが現代文明社会なのに、  なぜ、経済を 苦しみをできるだけ少なくしてさらに発展させる産業や商品アイデアの基盤を総合的に誰も哲学者は考えてくれないのでしょう? なぜ、医療がこんなにも矛盾の内に存在を余儀なくされて医療自体すらも苦しんでいる時に哲学は何も答えられないのでしょう? いくらでも 切々とした問題は山済みですが、本来総合的な力を持った思索の世界が 言行一致した実践ととにもあるというのならば、哲学は、この現代にこそ必要な学問(思索)だと思うのですが、 それとも、 例えば事実とか現象とか言う言葉で それを語るのに難しく考えようとすることにこだわっているのが現代哲学者ということであるというのならば、 もはや、わたしは哲学者たちには期待しないで済むのですが(かなり皮肉となってしまいましたが) みなさんは、 このへんをどうお考えですか? 実践派なので^^、 ゆったりとしていられず、 『すぐに回答を!』を選ばせていただきます。 宜しくお願いいたします。

  • 哲学・懐疑論の人たちは科学や芸術をどうとらえているのでしょうか??

    哲学初心者です。 哲学はある意味、主観と客観の一致の問題を考えてきたと捉えています。 (真理は存在するか??客観視は可能か??など) そこに近代哲学批判のニーチェが出てきて・・・ 「真理などはない、すべてあるのは解釈だけだ」と述べ、その考えが現代思想の根本にある気がします。 ポストモダン思想などは懐疑論状態に陥ってしまったと思っているのですが、懐疑論の人たちは、ある程度法則が見つかったとされる物理学(運動が説明できる)や生物学(遺伝子など)などをどう捉えているのでしょうか?? また、最近は「人それぞれ」というのが流行っていますが、何処までが人それぞれなのか?? 美しさや善悪の判断など、微妙にそれぞれといえないものがあるのはどのように説明されるのでしょうか??(芸術や道徳がなぜ存在するのか?) 気になったので質問させていただきました。よろしくお願いします。