• 締切済み

幅広く意見を求めています

eizip2006320の回答

回答No.6

私はそういう事を考えたことがないのでどういえばわかりませんが、働くということは、私は自分を生かすための手段であると考えています。 それだけのことです。 それは機械運動のように永久に続くものです。 私は病気で身体障碍者の40代の娘がいますが、20代後半で病気になりましたが、普通につべこべ言わず働けと言いました。 車椅子で働きに出て、今は杖を持って働きに出ている。 ちなみに障碍者雇用ではありません。 働くというのは、自分を生かす行為、それが出来ないなら死ねばいいのです。 それが自然というものです。 ですが日本国民は社会的に生きる権利を持っているので働かなくても生きていける生活保護があるがそれは選ばないでにリハビリ病院に叩き込んで、歩く、動く練習をさせる。 痛い、辛い、そんな言葉はいくらでもきいたけど、それでも自分で生きて欲しい(=働く)から、それを伝える。 娘は精神は正常ですから、理解できる。 ただ、肉体と精神は繋がっているから、肉体が動かなければやはり心も動かない。 それを理解と共に、動くという、働くという実践でわからせるだけだとして、そうしました。 私は病気を持つ人も、障碍を持つ人もどんな人であれ働くことは必須だと思っています。 できる人は、できる分だけでいいからやるべきです。 ただね、それが最近はハードルが低い。 簡単に出来ないと諦める人が多いと思いますね。 出来ない人はできる限りそれに近づき努力すべきです。 私はどんな理由も病気も働かないでいい理由などないと思っています。 障碍でお菓子を売る人も売れなくても作る、頭のある人は売れないなら何故売れないか考える。 売れなくても作り続け、毎日働きにでる、なにかを作業する、それが働くことだと機械運動のように覚える。 意味などない。 でも、それが生きていくということでしょう? これは欺瞞でもお役所仕事でもありません、働くことの基本の基本です。 ところでその疑問をお書きになっている哲学者たちに問わないのは何故ですか? 近くに答えがあると思うならきけばいい。 彼らならばあなたの納得できる答えがあるからですか? 彼らから、いいから働けと言われたらあなたは納得できるのですか? あなたは働かなくても生きていける環境がある。 だから考える。 それはあたかも働かなくても生きていけるから働くことに疑問を唱える、考えるのでは? あなたは毎日働く人を馬鹿にしていますか? 考えず生活のために働く人々を。 愚かにも考えず働く人々の税金によって福祉や生活保護が成り立っているとしても馬鹿にしますか? 電車が定刻に走り、店が毎日きちんと開くのも考えない人々によって動いていると思いませんか? そもそも、働くという事に考えることが愚かなのではとは思いませんか? 考えてもお金は落ちてきません。 働きながら考えるならわかりますがね。 少なくとも、あなたには親・妻子は養えない。 確かにあなたの書くように親や妻子は養う義務はないのかもしれない。 しかし、あなた自身を養う必要性があることはどのようにお考えですか? 自分自身を生かすために、働く。シンプルで最も大切なことです。 広く意見をというのなら、働くという事に疑問すら持たない人もいることを考えてください。 あまりに、沢山の人がそのように疑問すら持たず、働く、働ける。 私もそうです。 私は68歳ですが、70まで働いたら延長雇用も終了です。 その後は、再度シニアワークなどでまだまだ働く予定です。 何故なら私は夫もいない、病気の娘と独立し結婚した息子しかいない。 息子は小さい子供がいて私まで養える状態ではない。 だから自分で生きていく、働く意味も考えずにです。 誰も私を養ってはくれないから。 だから娘にもそう教える。 毎朝乗る電車で人身事故をみると、真っ先にまたか、と思います。 亡くなったであろう人を思うことはありません。 なくなった人よりも私は生きていて、毎日の予定があるからです。 まず会社にメールして・・・関係者にメールして・・・ それはすべきことが山積みだからです。 でも、ふと死んだ人を思うことはあります。 それは会社が終わり帰るときにです。 何故、朝のこの時間帯を選んだのだろうかと・・・・。 社会へのルサンチマンか、出勤途中で死にたくなったのか、それとも咄嗟の出来事だったのか・・・ 私が考えを巡らせても答えはありません。 電車に乗っている数分、亡くなった方を考えますが、電車を下りれば毎日の生活をこなさなければなりませんんので又忘れるのです。 あなたは外の風景を見ているけど、ご自分自身は見ていないのではないですか? まずご自分をみて、ご自分の口をどう養うのかをまっすぐに見据えるべきでしょう。

tenku65820
質問者

お礼

コメントありがとうございます 確かに正しいといえば正しいですが、 >リハビリ病院に叩き込んで、歩く、動く練習をさせる。 勝手に他人のところに入り込んでしまいますが 通常、自分で望んで障碍者になりません。 叩き込んでという表現を使うほど、辛く当たってほしくないです eizip2006320さんのことは全くわかりませんし、どういうやりとりがあったかわかりませんが、 彼女は障碍者としての、一人の人間としてとしてどう生きるかの意志を尊重して欲しかったです いろいろ考えさせられました。ありがとうございました。

tenku65820
質問者

補足

コメントありがとうございます 確かに働くのが正しい。という観点ではそうでしょう。 Q 子供はなぜ働くことを法律で禁止されているのか アメリカでは子供もレモンジュースを売っています しかし、日本ではそれをすることはできません 民主主義という、機能してない部分もありますが、 それによって国は成り立っています。 働くという資本主義のみにおいて、国は成り立っていません 子供は働かなくていいという社会的同意があるので、そういう法律があるのでしょうね eizip2006320さんの考えと、私の考えが違うことは民主国家では当然です Q 資本主義がすべてなのか 生きる権利は基本的人権で保証されています。この国の精神の一つです 労働も義務ですが、職業の選択で無職を選択することは可能です。 経済状況によっては失業率が上がります。 失業した人はどうすればいいのでしょうか。 >働くというのは、自分を生かす行為、それが出来ないなら死ねばいいのです。 ホロコーストと根本的には同じ考え方だと思います eizip2006320さんの考えと、私の考えが違うことは民主国家では当然ありうることです そうしない人を「死ねばいいのです」というのはあまりにも恐ろしいです これは、屁理屈ではなく私の恐怖であります 私も働いたことがありますが、どうしても働かなければならないと感じなかったですね >ただ、肉体と精神は繋がっているから、肉体が動かなければやはり心も動かない。 肉体を動かせば動かすほど、働くことへの憎しみが増えていきました

関連するQ&A

  • 教えてください

    社会福祉士の倫理横領に関する次の記述のうち正しいものを1つ選びなさい。 1 社会福祉士が倫理的判断を行う際の指針であり具体的状況においてしたがうべきルールや行動をまとめたものである。 2 倫理横領には社会的信用の確保に関する項目はなく社会福祉士及び介護福祉士法の中に記載されている。 3 倫理横領の「前文」には倫理横領の目的と倫理基準が明記されている。 4 「価値と原則」では人間の尊厳、社会正義、貢献、誠実、専門的力量の五つの価値と原則が明記されている。 5 1996(平成8)年に採用されて全米ソーシャルワーカー協会の倫理横領を元に策定された。

  • オウム真理教って、結局は何だと思いますか?

    オウム真理教って、何だと思いますか? ある著名人は、こう言っています。 「オウム真理教とは、社会のひずみの表れである。ある種の価値観を持っている人がいて、その価値観がたまたま社会に適合していなかった。その価値観自体が悪いのではない。そういった(現代社会に適応できない)人間がいるのに、それを受け入れようとしない社会に問題があるのだ。彼らの価値観を受け入れる場所を作らないから、サリン事件という悲惨な形になって表れたのである。」 一般的に「オウムは悪い集団だ」と言われていますが、オウムをなくしても根本的な問題(=特殊な価値観を持った人たちが社会に適応できないということ)は解決しないんじゃないかと思います。 いくら法律を厳しくして犯罪者を取り締まっても犯罪者がいなくならないように、根本的な解決には繋がらないと思います。 オウムを考えていくうちに、ある意味ではこの社会は一面的で、少し変わった(マイノリティの)価値観を受け入れる懐を持っていないんじゃないかと考えるようになりました。 それらを受け入れるシステムを作るべきじゃないかと。 オウムは、それを示唆してくれたのではないかなと思います。 そこで皆様にお聞きしたいのは、 (1)私の考えをどう思いますか? (2)あなたが考えるオウム真理教とは、どのようなものですか? オウム関連の本を読み、自分なりにサリン事件について考えていますが、考えが自分の中で堂々巡りになってしまいます。 様々な人からの、幅広いご意見をいただけたらなと思います。 すごく簡単なこと、主観的な考え方でもいいので、とにかくご回答をよろしくお願いします。

  • 帰国子女、海外生活が長い方に質問です。

    海外生活を終え、日本に帰ってきて日本社会に適応できますか?適応できるとしても結構、時間がかかりますか?私は日本にしか住んだことがない人は日本という枠の中でしか物事を考えられないと思います。そういう人と考え方、価値観、人生観などでギャップを感じ、悩むことなどはありませんか?もしよろしかったら参考までに教えてください。

  • パソコンを全くしない人と、パソコン依存の私との価値観の違いに苦しんでいます。

    文字化け=しかる という意味です。すいません ネットしすぎだと、ネットを全くしない人(A子=おばさん)から叱られました>< ネットしすぎだそうです。 (とはいえ、今日はずっと、外出し、活発に遊んでたので、家に帰ってから1時間くらいしかしてません。日頃の生活を総括して叱ったのだと思いますが)(私はIT系企業に勤めていたので、ネットを長時間するのなんて当たり前だし、社員には2日徹夜でパソコンに向かう人もいました。みな、パソコンが大好き。でもA子は全くパソコンをしないで、超アウトドア思考な人です) はぁ・・・・↓↓ ネットしたことない人にはネットしてる人(姿)は奇異に映るよね・・・・ でも、私は、ロッククライミングとか楽しんでしてる人(A子)のほうが奇異に映るのだけど・・・・。 う・・・・・・・・・・ん。。。。。。。。。。。。 ネットしてる世代と、しない世代はわかり合えないのかなぁ・・・。 私はロッククライミングとかしてる人には、文句は言わないから「好きにやってくれ」と思います 「私はしたくないけど、あなたがやるぶんにはかまわない」と思ってしかったりしません。 しかったほうが良いのだろうか・・。 しかってもどうせ、変わらないと思っているのがどこかにあるのかも・・・。(怒るという表現は嫌いなので使いません) でもスイーツ(笑)的思考だと、ロッククライミングのほうが、健康的に映るの? 何が正しくて何がいけない? そんな価値観なんて時代によって臨機応変に変わるものじゃないの? パソコン好きな人の多いIT系企業なら、休日にも(勉強で)パソコンさわることが、高く評価されるではないでしょうか。 保育士とか、パソコン全く使わない職場だと休日にパソコンばかりやってると「暗い人」「面倒くさい人」「理解できない」と思われるのではないでしょうか。 仕事で、社会的に適応できてたら、趣味で好きなことをやっても問題ないのじゃないのかと私は思います。 「社会に適応できる=健康 」 「社会に適応できない=不健康」 という考えも、なんかおかしいと思いますが・・・。 攻撃的な人は、戦争の時は英雄と言われるけど、平和な時には犯罪者になるでしょ? 価値観なんて、時代によって、まるで違ってくるのだし。 法律だって時代に合わせて変わってくるでしょう うちの母は、パソコン全くしないけど、パソコンしてる人をしか ったりはしないけどな・・・。 うちの母が甘すぎるのでしょうか? 私みたいな人は、やっぱり、いろんな価値観を認めてもらえるような東京に居るほうが合ってるのだろうか・・・・。 私は、何の個性も無い社会に適応「だけ」してる人と一緒に居ても楽しくないし、つまらないと思ってしまいます。 私はおかしいのでしょうか? 今日のA子さんは、感情的に「怒る」だけで「叱る」とは違うと思いました。「怒る」と「叱る」は違います。 A子さんと同じ気持ちを体験したことがあるのでA子さんの気持ちも分からなくもない。 こうやって、注意してくれるのは、私にそれだけ関心があるということなので、スルーされるより、言ってくれたほうが私はうれしいです。

  • キリスト教の信者だと思うのですが・・・。

    去年の秋、人通りの多い街頭で、プラカードを持った中年の親子の一団が、中数にんくらいで、世の中の物欲がどうの、物質主義ごどうのと、叫んでいました。 彼らは、きっと、この世の中が酷く醜くく、罪にまみれてる、そんなことを主張していたんだろうな・・・、と、思います。 しかし、僕が気になるのは、彼らしきりに騒ぎ立てている偽善や綺麗言ではなく、 彼らだって、きちんと何か手に職を持ってお仕事をされているということです。 なんか、矛盾してると思いませんか? 世を儚んでる、世捨て人に近い人間が、生活のためなら、と、そこはそこで、理屈をまげて社会に適応しつつ、きちんと納税の義務も果たして生活している。 つくづく、自分達の都合のいいように物事を解さない、調子のいい連中だな、と、 僕は思います。 それはそれで失礼として、あの手の手合いにで出くわすと、決まって、何か、気味の悪い、ドロドロした不快感に近い感覚に襲われます。 さて質問ですが、彼らのやってることは、所詮は自己欺瞞、それはぬきにして、 果たしてどれだけの意味を自分達にもたらしていうるのか・・。 きっと、現役クリスチャンの方もお読みの方もいらっしゃるかもしれませんが、 何か、ご意見があれば、遠慮無くおっしゃってください。

  • もうどうでもイイのでしょうか それとも?

    最近の世間の話を見ていると 何が何だかよく分かりませんね。 昔の言葉を使っても通用しないし 価値観は多様というか バラバラだし 金ですかねえ 辛うじて信じられるのは? 倫理社会と言う高校の科目も唐になくなっているから 哲学の話をすると 「学生運動の世代の人は違うなあ」等と言われて そんな事してないって 子供でした。 理屈が通じないというか 仕事が出来ること 明るくて前向きでスーパーマンの様に強い人? それが求められてると聞きます。 何かリヤカーの様な物を引いて雨の中 険しい道を宅配してる人を見ると そこまでしなければ行けないのだろうか?と思いますねえ。 人間の精神会はもうどうでもいい 何でもアリなのでしょうか? それとも中庸や仁や正義は必要なのでしょうか? 正義がなかったら 何を信じればいいのでしょうか?? あなたはどう考えて生きていますか 是非端的に教えて下さい よろしくお願いしますm(_ _)m

  • 社会主義・共産主義的な思想は復活しないでしょうか

    ポスト小泉は格差社会を生み出したといいますが、これからの時代は自分を含め貧しい労働者が増えるようですが、その出来事に加えて、社会主義的な思想は有用になること(支持する人が増えること)はないのでしょうか。低所得しか望めない人間が多いとは言え、まだ日本は豊か過ぎるのか。それとも社会主義は過去の平等思想にあたるのでしょうか。 現代思想の本や大学の受講内容の概要等を見ていると、個人が社会に何ができるか「一人一人の倫理が問われる時代」みたいな切り口で語られる事が多いと思います。でも社会をよくするという意味ならば、貨幣等の生存する為の価値媒体を均等に配分するという思想がなければ、よりよい社会を認識できるわけもなく、倫理もへったくれもないと私は思うのですが…考えが歪んでいるのでしょうか。 個人のモラル(倫理)を追及するならば、共産主義的な社会システムによるルールに決められた経済の方が、人間社会の究極形態じゃないかと思うのですが、資本主義経済において、金になるか否かが焦点になっており、個人のモラルが貨幣に絡め取られている気がしてならないのです。 雑誌を読んでいると何某かの評論家は、よりよい政治にするためにこれからは「格差社会を考えることが急務」といいますが、私は社会主義というキーワードを彼らが持ち出さないのが不思議なのです。このキーワードこそが個人の倫理が完成した形ではないでしょうか。(私の言動について何かつっこみがあったらお願いいたします)

  • 親子間の仕送りに関しての質問です

    「子(自分)が、現在特に生活に困っていない親に仕送りをするのは、親が亡くなったときに結局税金で抜かれるため、結局自分の経済面に関して損である」←今の税制・法制度的に誤りはありますか? 不謹慎な考え方なのは承知ですが、良心や倫理観を抜きにした、実質的な回答をお願いします。 また、上記の考え方にのっとって、または反して皆様はどう考えているでしょうか。 私自身は、お互いにある程度ゆとりがあるため、「金は困ったときにお互い無心するのは仕方がないが、基本的に金は子世代へ受け継がれていくべきで、たとえば親からの仕送りがあったとしても、金銭的余裕がある限りは金で返す必要はない(別の形で孝行するか、孫を養うことが恩返しになる)」と考えています。 ←一般論から大きくズレているでしょうか 特に、今後社会福祉が減退していくであろう子世代が、仕送りしなければならない価値観を押し付けられるのは、アンフェアという気もします。

  • 「ビジネス」勘違いか?

    「ビジネス」に必要を遥かに超えたプライドや価値を与えている人が多いと思う人はどの位いますか? 例えば、あくまでも例えばなので過剰な反応はご遠慮頂きたいのですが。 上司だから部下にキツく当たる。 ここには建前の陰に隠れた醜い感情や弱さなど様々なものが含まれている事があります。 しかし、「仕事だから」それは当然の事とみなされていますでしょうか。 ビジネスマンである前に人間であり、ビジネスマンとしてのルールやマナーの前に人間としてのマナーやルールがあると思うのですが「仕事だから」の一言でそれらは全てどこ吹く風。 こんな事があなたの周囲にあったらどう思いますか?

  • 閏年の意味を知らないのは面接で落とされるほど非常識でしょうか?

    二月が二十九日あるのは四年に一度。オリンピックがあるのが四年に一度。二つの年が同じ年。それは知っているし、特別な呼び名があったよな、程度のことは覚えていました。ですが、閏年といわれて「なんだっけか?」と思ってしまいました。で、それを正直に口にしたとたん、「そんなことだからもう四年最後だっていうのに面接で合格できないのよ・・・」と愚痴られました。閏年というのは聞いたことありますし、覚えていましたがとっさに二つが結びつかなかったのです。 私は人間が生活したり社会人として生活をするためにはある程度の良識といいますか、他人に迷惑をかけず、法的社会的倫理的なものに反しなければ大丈夫だと思っています。実際、倫理的に問題のある人たちが平気な顔で社会生活を送っています。 閏年を知らない外人だってしっかり働いてるし。