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命には命で詫びるべきです。

命を奪えば 生きる資格はないといえます。遺族の気持ち を考えれば死刑は唯一最大の復讐の砦です。 そこで質問です。 みなさんは 命には命で詫びるべきという考え方を どう思いますか?

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  • ベストアンサー
回答No.6

そろそろ被害者遺族の侮辱もやめたほうがよいと思うよ。 「遺族の気持ち」「遺族の気持ち」って言うんだけど…… そもそも、遺族ですらない質問者が遺族の気持ちの何を知っているの? 無関係な第三者が、「被害者遺族はこう思っているに違いないから、こうすべきだ!」と被害者遺族の意志を捏造してものを言う。これって被害者遺族に対する侮辱以外の何者でもない。 そもそも、統計的な事実として、被害者遺族と加害者家族が一致する、ということは珍しくも何ともありません。 何しろ、殺人の加害者と被害者の関係が家族、というケースが日本でおきる殺人のほぼ半数ですから。 家族である被害者の復讐のため、同じく家族である加害者を死刑にしろ! っていう人がどのくらいいますかねえ……

Erdbeerkegels
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

その他の回答 (5)

回答No.5

基本同意です。 ただ死刑ってだけじゃ甘すぎる。 遺族・恋人が名乗り出た場合、執行方法の決定(絞首以外で可)と執行役を勤めることが出来る制度も入れるべき。 関節一個一個切り落として数時間かけてじっくり・・・

Erdbeerkegels
質問者

お礼

>関節一個一個切り落として数時間かけてじっくり・・・ 残酷ですね。殺人者も殺人を犯すまでは Deathscytheさんと同じようなことを考えていることが多いです。

noname#196251
noname#196251
回答No.4

誰が生きる資格がないと決めたの? 他人の生死を他人がとやかくいう事でないと思うけど・・・・・ 殺された遺族が殺した方を死刑にしてほしいといえば そういえばいいだけで、赤の他人がとやかくいう資格もないと思うけど。 それならば交通事故だって同じで 赤の他人が故意でなくてもひき殺したら あなた、殺したのだから、あなたも自殺してくださいねって流れだし まぁ、自動車関連にしても殺された方が事故を起こした人間がのうのうと生きているのは腹立たしいかもしれないけど。

Erdbeerkegels
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.3

”遺族の気持ちを考えれば死刑は唯一最大の復讐の砦です。”     ↑ だとすると、遺族がいない人の場合はどうなる んですかね。 遺族もろとも皆殺しにしたらどうなるんでしょう。 ”命を奪えば生きる資格はないといえます”     ↑ 議論が粗いです。 正当防衛の場合は、過失は、死刑執行は、戦争の 時などはどう説明するのでしょうか。 ”命には命で詫びるべきという考え方を どう思いますか?”     ↑ 理論で考えるなら、何故人を殺してはいけないのか、 というところから入るべきです。

Erdbeerkegels
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 hekiyuさんは筋金入りの死刑賛成派でいらっしゃいますが、やはり 死刑の矛盾点を認識されているようですね。

回答No.2

死刑肯定の論旨を、命の償いを命でとしてしまうと、No.1さんの言うような問題もあるし、 命を人間が裁くのか、では裁きで命を奪った者はどうなんだ…… など迷走するばかりです。 こういう罪を犯したら、このくらいの罰。 一番重いのは死刑。故意に、悪意を持って人を殺したらたいてい死刑だから。 と決まっているんだから、死刑になりたくなかったらやらなければいいだけ。 自分は死んでもいいと思っている人には抑止にならない、なども言われるが、 そんなのはどんな罰にしたところで変わらないわけだから意味のない意見。 今現在はそう決まってる。 それだけで済む話です。

Erdbeerkegels
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >自分は死んでもいいと思っている人には抑止にならない、なども言われるが、 そんなのはどんな罰にしたところで変わらないわけだから意味のない意見。 日本では殺人件数が年間1000件程度に対し、自殺者数は3万人近くにのぼるということは、単純に考えて この世には 娑婆で暮らしても この世には 死刑よりも辛いことも多いということなので、私自身 死刑に抑止力には疑問視する面もあります。

  • yaasan
  • ベストアンサー率22% (2714/12238)
回答No.1

例えば殺意なく殺してしまった。往来でぶつかったら打ち所が悪くて死んでしまった、これは死刑にするほどひどい行為でしょうか? 例えば何人も殺した。死刑は当然とは思いますが、命には命で詫びるべき、という考えなら一人の命に一人の詫びる命、となれば二人目からどうなるのでしょう?二人の命に一人の、となれば三人目からは?やっぱり一人殺しても死刑にはならない? 論ずる観点がずれていると思います。犯罪に対する量刑はやはりその犯罪行為の内容により決まる、と考えない限り矛盾は大きくなると思います。 最高刑は死刑であり、死刑を超えるような凶悪犯罪の刑は死刑でしか収められない問題は残りますが、一人殺された時、単純に死刑ではなく、殺意の有無、計画性、残虐性などを加味して量刑が決まる現在の手法で良いと思います。

Erdbeerkegels
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 OK Waveの回答者らしい回答ですね。

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  • 命を奪えば 生きる資格はないといえます。

    遺族の気持ち を考えれば死刑は唯一最大の復讐の砦”だと言う人もおります。 しかし、例えば殺意なく殺してしまった。 往来でぶつかったら打ち所が悪くて死んでしまった、これは死刑にするほどひどい行為でしょうか? 例えば何人も殺した。死刑は当然とは思いますが、命には命で詫びるべき、という考えなら一人の命に一人の詫びる命、となれば二人目からどうなるのでしょう?二人の命に一人の、となれば三人目からは?やっぱり一人殺しても死刑にはならない? 論ずる観点がずれていると思います。犯罪に対する量刑はやはりその犯罪行為の内容により決まる、と考えない限り矛盾は大きくなると思います。 最高刑は死刑であり、死刑を超えるような凶悪犯罪の刑は死刑でしか収められない問題は残りますが、一人殺された時、単純に死刑ではなく、殺意の有無、計画性、残虐性などを加味して量刑が決まる現在の手法で良いと思います。 また、死刑肯定の論旨を、命の償いを命でとしてしまうと、先ほど書いたような問題もあるし、 命を人間が裁くのか、では裁きで命を奪った者はどうなんだ…… など迷走するばかりです。 こういう罪を犯したら、このくらいの罰。 一番重いのは死刑。故意に、悪意を持って人を殺したらたいてい死刑だから。 と決まっているんだから、死刑になりたくなかったらやらなければいいだけ。 自分は死んでもいいと思っている人には抑止にならない、なども言われるが、 そんなのはどんな罰にしたところで変わらないわけだから意味のない意見。 今現在はそう決まってる。 それだけで済む話です。 そこで質問です。みなさんは 死刑に存在意義について どう思いますか?

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