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アイラヴユー/我爱你は 線形の論理に過ぎる。

 非線形の構造に親しんでいるわれわれ日本人は この一直線の論理になじまない。  直線だけの論理は 人間の論理ではない。  アソビがない。    アソビがないということは 相手との関係を見ていない。  それとも 言葉による表現の外で 目や仕種でおぎなっているのだろうか?  人間関係をおもんじるなら 自己表現は構造的であるはずだ。  相手の意志自由をとうとぶゆえに。  《アイラヴユー / 我爱你》は 言いっ放しに過ぎる。    のではないだろうか?

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回答No.3

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。 夏目漱石が英語教師をしてた時、 生徒が「I love you」を「我君ヲ愛ス」と訳した所、 「日本人がそんな台詞口にするか。 『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ。 それで伝わるものだ」 と言ったそうな。 ちょっと大げさかもですが。 ___________ たとえば、の話。 閉じられた質問と開かれた質問があるようです。 ◇  親:今日(は)、学校(が)、楽しかった? 子:Yes(or No)。 ◇ 親:今日は(あなたにとって)何が楽しかった?   ついでに何がイヤだった? 子:給食と体育の授業と休み時間が楽しかった。   イヤだったこと?書道の時間に叱られた。 親:給食は何を食った?体育の授業は何をした?   休み時間は何をした?書道の時間は何で叱られた? 子:あーだこーだ誰々がうんぬん&%$ぁ★wが’*。 ちょっと大げさかもですが。 ___________ またまたたとえば、の話。 AさんはBさんを気に入っている。 だからAさんはBさんにも自分を気に入ってほしい。 Aさんは、わたしの気持ちはこれぐらいなのだよ、と 「 i love you」と刻印されたハート形の巨大な岩石を 思いっきりBさんに投げつける。 Aさん→すっきりする。期待までするかもしれない。 Bさん→ハート形の岩石の下敷きになって動けない。    「重いからどけてちょうだい、ああ血が出てるわ、     これぢゃあのんびり話もできないぢゃないか。」                    ちょっと大げさかもですが。 ほぢゃ、お邪魔しました。                              

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。  この質問は 手さぐりしながらの問い求めです。  昔は 英文等が簡潔で直截な意志表示〔を可能にする文例〕であって 話がしやすいと思って受け留めていましたが どうもそうではないような側面が 大きい。のではないか? ここから出発しています。  ▲ 『月が綺麗ですね』  ☆ でしたか。そういった話があったようなもう覚えていないような。  ということは その文脈がものを言う。あるいはつまり その場やふたりのそれまで過ごしてきた歴史があって それが言葉よりも多くを語るというようなことでしょうか。  ★ 閉じられた質問と開かれた質問があるようです。  ☆ なるほど。そういう観点から捉えることが出来るのですね。文型が一直線で成り立っているというのは その直線の延長線上に答えが予定されていて それ以外の道には寄り道をしない。その意味で 非常に合理的で しかも 《閉じられた質問》である。――こうですよね?  ここまでのお話は 想定しようと思えばできました〔と思うのです〕が 次の世界は わたしの想像の範囲を超えていました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  またまたたとえば、の話。  AさんはBさんを気に入っている。  だからAさんはBさんにも自分を気に入ってほしい。  Aさんは、わたしの気持ちはこれぐらいなのだよ、と  「 i love you」と刻印されたハート形の巨大な岩石を  思いっきりBさんに投げつける。  Aさん→すっきりする。期待までするかもしれない。  Bさん→ハート形の岩石の下敷きになって動けない。    「重いからどけてちょうだい、ああ血が出てるわ、     これぢゃあのんびり話もできないぢゃないか。」                     ちょっと大げさかもですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほどですね。たとえば こういうふうにわたしも言いたかった。  あ_ほなさんが どう受け取って考えるだろう。  こういった問題は ありますよね。  つまり・つまり  ★ だからAさんはBさんにも自分を気に入ってほしい。  ☆ というとき おのれの愛なる気持ちをストレートに――むろん 表現の自由なんですが――表わすと言っても 《気に入って欲しい》のであり そのために話をするのであるならば まだその直球がど真ん中のストライクであるかどうかは分からない。そういう互いの気持ちの段階であるはずだ。  たとえ純真でウソイツワリのない直球で確かにストライクだったとしても さあ打てというような問いかけになってしまう。  あるいはそれとは違ってすでに ふたりのあいだの気持ちも心もかなり定まって来ていて 信頼関係も築かれて来ている。といった段階にあるなら 今度はぎゃくに いま上のようなど真ん中のストレートを投げても それは かえっておかしい。いまさらの言葉になってしまう。そんな直截な表現で表わす必要がなくなっている。  (たぶん 場合によっては・または 何かのきっかけによっては 一本調子の表現がふさわしかったり必要だったりするのでしょうが)。  というように考え その思いはやはりつよいのですが どうなんでしょうねぇ 現代人は。

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回答No.4

こんばんはです。 語形や語順がすべてに優先する中国語ですから、言語の構造的にも、アソビはないんでしょうね。 他者との関係性などをすべて無視し、むき出しの感情や考えがあらわに、ダイレクトに表現されてしまう。 ムード・Moodなんてものはない!! じゃないですか、 中国語には(笑い)。 特にわたしが読むような、千年以上前の中国語の古典は簡潔な表現で、余韻といったものがまったく感じられません。血も涙もないといった印象を受けますね。簡にして要こそ中国語の特色といった感じを受けます。 ただ、中国語には、四声とかあるじゃないですか。これで、こうした欠点をある程度補うことは可能なのかもしれませんが。 ですが、そこは中国語、文字の国、(昔の)中国、 膨大な漢字群がその背後に控えています。 この漢字の組み合わせによって、かつては、この欠点を抑えられていたに違いない。 ですが、今は……、 TVなどで拝見する中国の人たちは、ただうるさく騒いでいるだけのように思えます。 互いの、むき出しの感情、エゴ、利益が噴出し合い、カオス・混沌状態を形成しているような・・・。 I love you.のアメリカさんにしても、権利と義務ばかりが目立って、世知辛くていけませんよ。 加藤秀俊か多田道太郎か誰かの本で、 アメリカの家庭では、旦那さんは奥さんに対して毎日のように「I love you」なる言葉を言い続けなければならない。これは義務。これを怠ると、ある日突然、奥さんから離婚をつきつけられてしまう、 といった内容が書いてありました。 「I love you」なる言葉を発しないと、相手、先方は愛情の存在を確認できない・・・。 日本のような《察しの文化》や《察しの土壌》がない。 夫婦間は権利と義務で結びついている。 アメリカ(ピューリタン的なアメリカ)人の奥さんは、日本人の奥さんとは比較にならないほど働き者。キッチンやオーブンなどは舐めてもよいほどに綺麗に磨き上げる。旦那さんから「I love you」という言葉に値するほど、家事をよくこなす。そして、ホームパーティーなどを開き、旦那さんの出世に役立つような働きをする。 ということで、旦那さんにとって、家庭は安らぎの場所とならない。できうることならば、この地獄のような環境から逃げ出したいと、ひそかに願っているとか、いないとか・・・。 こういったことを書いておりました。 わたしが思うに、アメリカ(ピューリタント社会)において、「I love you」という言葉は、誓約の言葉なんでしょう。あるいは、努力目標に違いない!! で、 日本語、和語には、中国語の「愛」や英語の「love」に該当する言葉がないじゃないですか。 これを無理やり日本語・和語、ヤマト言葉に当てはめるとすれば、 「好く」とか「思ふ」になるじゃないですか。 和歌の世界ですと、もっぱら「思ふ」ですよね。 そして、「思ふ」の連用形「思ひ」の「ひ」と「火」が結びつき、その思いの強さ、激しさを表現する。 この歌を受け取った相手は、それを読み取る、察する。 何とも雅の世界ですね~♪

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ひさびさのご登場ですね。  ◇ 夫婦間は権利と義務で結びついている。   ☆ ほんとうに こうなんでしょうか? たしかアラブの世界でも 結婚に際して 離婚のときの財産分与についてもきちんと決めて契約書を作成するとか。  そしてあるいは 感情や愛情やあるいは所帯を持つことの責任感などは これらの権利と義務の世界とは 別にあると見る必要があるのかどうなのか。  ◇ アメリカの家庭では、旦那さんは奥さんに対して毎日のように「I love you」なる言葉を言い続けなければならない。これは義務。これを怠ると、ある日突然、奥さんから離婚をつきつけられてしまう、 / といった内容が書いてありました。  ☆ であるのならば まるで人間関係ないし信頼関係が 直線的な――線分としてつながってその両端で応答するだけのような――つまりその言葉のやり取りによって 成り立っているというのでしょうか?   ぎゃくに言えば 言葉は 重要なのですね。別の意味で はじめにロゴスがあった。となるのでしょうか?  いやぁ 分かりません。いままでは それはそれで アメリカ人も ほかのヨーロッパ人もセム族の人びとも けっきょく生活をしているのですから 言語のつくりの違いによって それほど違いが出るとは考えませんでしたが どうもよくよく思いをめぐらしていると おかしい。いちゃもんをつけるようながら どうも おかしい。  《毎日のように言う「I love you」》は 義務であり あたかも《仕事》なのでしょうか? 家庭生活が 職業に就くのとあたかも同じような人生のつとめなのでしょうか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  アメリカ(ピューリタン的なアメリカ)人の奥さんは、日本人の奥さんとは比較にならないほど働き者。キッチンやオーブンなどは舐めてもよいほどに綺麗に磨き上げる。旦那さんから「I love you」という言葉に値するほど、家事をよくこなす。そして、ホームパーティーなどを開き、旦那さんの出世に役立つような働きをする。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ そういう一面もあるのですか。それは 大きいですね。それが ふつうにやれるとすれば 非常に活動的な人びとなんでしょうね。  でも やっぱりまるで結婚して築く家庭へ就職したかのようでもあります。  ◇ ということで、旦那さんにとって、家庭は安らぎの場所とならない。できうることならば、この地獄のような環境から逃げ出したいと、ひそかに願っているとか、いないとか・・・。  ☆ あぁ。やっぱし。ですよね。ううーん。なんでそんなしんどいことをし続けるのでしょうね。  ◇ わたしが思うに、アメリカ(ピューリタント社会)において、「I love you」という言葉は、誓約の言葉なんでしょう。あるいは、努力目標に違いない!!  ☆ ううーむ。理想を措定しこれを実現するよう問い求めて行くのでしょうか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  日本語、和語には、中国語の「愛」や英語の「love」に該当する言葉がないじゃないですか。  ・・・・  そして、「思ふ」の連用形「思ひ」の「ひ」と「火」が結びつき、その思いの強さ、激しさを表現する。  この歌を受け取った相手は、それを読み取る、察する。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 思ひのヒは火のヒなんですか。これは 聞いたことがないなぁ。そういう言い回しができるほどだということですかねぇ。  縁側があるのも いいですね。  さて 漢族の人びとは どうなんでしょう。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  語形や語順がすべてに優先する中国語ですから、言語の構造的にも、アソビはないんでしょうね。  ・・・・  簡にして要こそ中国語の特色といった感じを受けます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いま うまい応答を探していますが なかなか出て来ません。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ですが、今は……、  TVなどで拝見する中国の人たちは、ただうるさく騒いでいるだけのように思えます。  互いの、むき出しの感情、エゴ、利益が噴出し合い、カオス・混沌状態を形成しているような・・・。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 会議や大きな集まりなどで発言する場合 あらかじめ文字でつづったものが配られるというのを聞いたことがありますが そこのところなども どうなのか。知りたいですね。  話し言葉で発表したり演説をしたりしても 必ずしも聞き取れない場合がある。よって 文書でおぎなうというようなことだったと記憶しているんですが。  くわしい方がいたら おしえて欲しいですね。  《我爱你》論は 持ち出した割りには 線香花火に終わりそうです。というより 社会事情や生活感覚は 知りません〔のに 出しました〕。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.2

この、一生に一度言うか言わないかの言葉は遊びではないので、真っ直ぐでいいのです。当然受け答えもまっすぐで、横槍の入らないことがいいのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですかねぇ。  まづ それを母語とする国の人びとは しょうっちゅう言っているのではないでしょうか。  そして もし日本人のばあいには  ★ 一生に一度言うか言わないかの言葉  ☆ だとしますと どうなるか?  おそらく そうなると  ★ 遊びではないので、真っ直ぐでいいのです  ☆ ということだとは考えられます。つまりその意味は こうです。  ふだんは意志表示をあいまいにするクセがついているけれど ものごとにははっきりさせなければならない場合がある。  職業やあるいは会社を選択するのは おおむねひとつに決まっているし はっきりと決めなければならない。それと同じように 連れ合いを決めるとき 特定のひとりだと決まっているし 決めて意志表示しなくてはならない。  問題があるとしたら ひとつに 片や結婚の申し込みやそれへのこたえは 《真っ直ぐでいい》し むしろそうでなくてはならない。のだけれど 片や愛の告白は どうか?  《真っ直ぐでいい》場合もあるし 普段つかっている言葉で伝える場合もある。のではないだろうか?  ひとつに 日本語で《真っ直ぐな表現》とは 何か? 将来を見越しての愛の気持ちを伝える際の表現として 何か?  いまでは この《アイラヴユー/我爱你》なる直線的な言い方が ふつうになっているだろうか?  日本語で何と言うのだろうか?    ★ 横槍の入らないことがいいのです。  ☆ という考えから ストレートな表現がよいとして その場合 この《アイラヴユー/我爱你》に似た表現に落ち着くのだろうか? そんな表現はあるだろうか?  日本語には そうではなく 互いのあいだに言わば縁側をもうけていて さらに内側に入るかどうかの言い回しでやり取りするのではないか? 構造的におのれの心をも表わし 伝え合うのではないか?  いやぁ どうなんでしょうねぇ。  もうすっかりアメリカナイズされているということなんですかねぇ。

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     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • 《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。

     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • ZFCの論理式の表す内容について

    集合論と形式的な論理式の関係についてです、よろしくお願いします。 ZFCで扱われるのは煎じ詰めれば、有限の文字列(∋などを含んだ論理式)だと思うのですが、そんなZFCにより再帰的でない関数や実数から実数への関数全体などのいろいろな無限構造を表現し議論することが多いと感じます。しかし再帰的ですらない関数全体などを有限にすぎない記号列で表現できるのでしょうか。 つまりZFCはどうして十分な高い表現能力を持っているといえるのだろう、ということなのですが。 もちろん、そのような複雑な無限構造も考えたり、思い描いたりすることはできると思いますし、可能ならば数学的に扱えるようにしておくべきだとも思います。 誤解されるかもしれませんが、哲学的な話をしたいわけではありません。そうではなく、フォーマルな意味で有限の形式的な文字列がきちんと意図した構造を表現している、ということは数学的にはどのようにして保証されているのか、ということを伺いたいのです。

  • 暴力とは 感情のよりは理性の産物だ。

     なぜなら 本能として感情のままに動く動物の物理的なチカラは 暴力とは言わない。  それは 一面として自由意志によるものだと見られる部分が乏しいからでもあるが 実際の側面としては 獲物である相手の動物に対して こいついっちょうやったろかと思ったり 借りがあるから倍返しだと考えてチカラを振るうわけではないだろうからである。  つまり 人間だけが いちいち相手とのいやな関係を思ったりしてそのゆえに危害をくわえようとする。のだと もしするなら 人間だけが 《暴力》をふるうのだ。  【Q:暴力とは 相手の意志を無視することだ】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8286426.html  から まさに――自由意志の振る舞いであるとともに――理性による産物である。  糺してください。

  • 「論理的」の意味

    論理的という言葉の意味について、特に決定的な定義が見つからないので、自分で考えてみました。 この解釈はおおむね正しいと思いますか? また、間違いやズレがあればご指摘をください。よろしくお願いします。 論理とは、何かを正しいと認めることから派生する法則のことである。 論理以外の法則として物理がある。物理は存在そのものによって現れる法則である。 つまり、論理=論(言葉)の理(法則)。物理=物(存在)の理(法則) たとえば、「すべての物体は重力の影響を受けて下に落ちる。(A)」といったとき、「Aだから、目の前のペンも放り投げれば落ちる」という構成は論理的であり、実際に物が落ちるのは物理的である。※物理は論理の影響を受けない。引力の法則(論理)が存在しなくても物は落ちる(物理) 言い換えれば、論理は物理を組み合わせて作られた法則である。 さらに、論理が間違うことはなく、ただ、物理と食い違ったときに価値が無くなるだけである。 たとえば、太陽が回っている(物理)、ということは空が回っている(論理)。というのは、論理的な間違いではなく、物理を通して構成された論理が、物理と食い違ってしまった。という誤りである。 ゆえに、論理的というのは、「正しい」という意味ではなくて、あるものを正しいとしたときに構成された法則にしたがっているということである。 このことから、論理的に話すというのは、次のようになる。 [極論的な論理的] ある個人自身が決めた法則にしたがって話す。 [社会的な論理的] 一般的な人が正しいと認めている法則にしたがって話す。 非論理的な例 ・言葉の定義を自由自在に変更する。(ステレオタイプなど) ・矛盾している。(結論が正しいとき、前提が正しくなくなるなど) ・根拠が無い。(人間は悪だ。)※法則(論理)について述べていない。論理と物理が食い違うことは「科学的に間違い」。 ・嘘。 非論理的とはいえない例 ・根拠が間違っているまたは薄い。(おなかがすいたということは12時だ)※物理とは食い違うかもね。 ・冗談、お笑い。(騙すという法則が構成に含まれている) メモ 社会的に正しいと認められていると思われる会話や議論の法則 ・論理学の基本法則(論理和・論理積・否定など)。 ・日常言語はすでに共通了解されている。(犬のことをサルということはない)

  • わが《固有の時》とヒラメキ

     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • 日本語と英語の論理展開の重要視の度合いがかなり違うのはなぜでしょうか?

    日本語では文と文、パラグラフ間の関係が英語に比べてはっきりしないと聞きます。また英語は文のはじめのほうで言いたいことが言われるのに対して日本語では最後まで話を聞かないと言いたいことがわからないともよく耳にします。 1.上記の2つの日本語と英語の違いはどうして生まれたのでしょうか?言語の構造上なのか、考え方の違いなのか、地理的、環境的なものなのか、、、 2.英語の論理がしっかりしてると上にも書きましたが、私の勉強不足故あまり実感がわきません。このことに関してなにか体験(実感)されたことのある方、教えてください。 お願いいたします。