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ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か

stmimの回答

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.9

さとりとは1)普通の人間にはわからない感覚で、2)言葉によっては伝えられないものとされているので、bragelonneさんが釈迦がウソをついていると思うのを否定することはできないです。bragelonneさんがさとりが確かに存在すると納得するにはご自身でさとりの境地に達する以外ないですよね。もし、さとりが何か言葉で表現されていたとしても「そんなのありえない」ということはいくらでも言えます。ですから釈迦がさとりについて何かを語ったか、どうかは解決にならないと思います。 もし、甘いものを食べたことがない人がいるとして、その人に言葉によって「甘い」とはどうゆうことか伝えるとすると、ものすごく困難ですよね。甘いものを食べてもらうのが簡単で確実な方法です。さとりについても、さとりに到達していない人にさとりを説明するのは困難で、同じようにその人にさとりに到達してもらうしかないのではないでしょうか。 さとりと言いますが、さとりと言っても、大乗仏教、テーラワーダ、禅宗ではそれぞれさとりの内容が違うようです。どのさとりなのでしょうか?法華経を引用されていますので大乗仏教のさとりということですと、それはもう釈迦の責任範囲を超えている気がします。もとの原始仏教を発展させたものですので、それは大乗仏教の中の話ということになります。 もし、歴史的な人間としての釈迦が意図していた悟りがどんなものかと言う話になると原始仏教を守ってきたテーラワーダ仏教の悟りが一番近いのではないでしょうか。テーラワーダでは多くの人が釈迦とおなじさとりに到達して阿羅漢となったといいます。現在でも阿羅漢と呼ばれる人はいます。これら阿羅漢を名乗る人たちがみな詐欺だという可能性も否定はできませんが、これだけ多くの人たちが信じてきたことなので、それが全部ウソということは私にはちょっと信じられません。 仏教のさとりって本当にあるのか?と思った人がテーラワーダの寺院で1ヶ月ほど修行したところ、ある程度悟りとはどうゆうものか、つかめたと言っていたのを聞いたことがあります。さとりがウソかどうかはテーラワーダ寺院で1ヶ月修行してみると、どうだかわかると思います。日本にも瞑想センターがあります。

bragelonne
質問者

お礼

 すとみむさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  まづ先にお伝えすべきと思うことは  ★ テーラワーダ  ☆ にかんして その一般についてではありませんが 例のスマナサーラとかいう人の思想には げんなりしたことがあります。回答者からおしえられてそのサイトを見たときの感想です。恋愛相談で およそ女性のその意志をないがしろにするような発言をしていました。それからは 百パーセント 蔑みの目で見ています。  さて  ★ さとりとは 1)普通の人間にはわからない感覚で、2)言葉によっては伝えられないものとされているので、bragelonneさんが釈迦がウソをついていると思うのを否定することはできないです。  ☆ そのウソのつき方がふるっています。例によって 意地の悪い批判を繰り広げますが:  ▼ (法華経・方便品 )~~~~~~~~~~~~  唯仏与仏 乃能究尽諸法実相 : 唯 仏と仏とのみ 乃(すなわ)ち能(よ)く諸法の実相を究め尽くせばなり。(坂本幸男訳)  ▼ (正しい教えの白蓮・巧妙な手段) ~~~~~  如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており 如来こそ あらゆる現象を教示することさえできるのだし 如来こそ あらゆる現象を正に知っているのだ。・・・(岩本裕訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《如来こそ如来の教えを教示しよう》と言っておいて 一向に教示しない。というウソ。  また《唯仏与仏》という言葉を出すことによって 《ブッダにならなければ さとりについては知り得ない》というふうに威丈高に語って 一般の人びとを退かせようとする。  これは 高度な詐欺のテクニックであるように思います。ここまでくれば 一流です。  ★ bragelonneさんがさとりが確かに存在すると納得するにはご自身でさとりの境地に達する以外ないですよね。  ☆ もうとっくさとりを得ていますよ。それは 人が生きるかぎりでは 動態なのですから 誰でも 成道したと言って言えないことはないでしょう。それに 即身成仏ないし即得往生なのですから。  ただし 《この上なき智慧のさとりを得た》とか《天上天下唯我独尊》とか言っては 元も子もないでしょうね。  ★ もし、さとりが何か言葉で表現されていたとしても「そんなのありえない」ということはいくらでも言えます。  ☆ いえ。それは その中身によると思います。  《真理がすべてにおいてすべてである状態》を ブッダであることとすれば たとえば よいでしょう。  ▼ (正しい教えの白蓮・二 巧妙な手段) ~~~~~~~  〔如来こそあらゆる現象を正に知っているのだ〕。すなわち それらの現象が何であるか それらの現象がどのようなものであるか それらの現象がいかなるものであるか それらの現象がいかなる特徴をもっているのか それらの現象がいかなる本質を持つか ということである。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というごとく そのとき・その場の人びとそれぞれの心について知っているならば その意志疎通はそれほど困難をきわめることもなく なめらかに進めることが出来るかも知れない。    あのとき・あの場で あいつは これこれと言ったが それは あれそれの事情があったんだと分かれば かなりの程度で 互いの理解は得られるし 深めて行くことができます。  過去のわだかまりや恨みについても 真理がすべてにおいてすべてであるなら そのシコリも溶けて行き わたしたち人間どうしの話し合いは よほど無理なく滞りなく推し進められて行きましょう。  ただしこのさとりは あくまで生身の人間にとっては 動態であり過程的なものにとどまります。そこまで分かっていて ことに処すれば 少しはこの世の中もすこやかになりましょう。  つまり さきほどの《如来のさとり》を推し進めて これくらいのことまでは 明らかにして欲しかった。と言えるのではないでしょうか?  ★ さとりについても、さとりに到達していない人にさとりを説明するのは困難で、同じようにその人にさとりに到達してもらうしかないのではないでしょうか。  ☆ いえ。たぶん 上に述べたような方法がありましょう。  ★ ですから釈迦がさとりについて何かを語ったか、どうかは解決にならないと思います。  ☆ まったく成らないとは言えないでしょう。少しは 努力していたら どうなんだ? とゴータマくんに向かって 言ってもバチは当たらないでしょう。  それにしても ゴータマよ おまえは 何て出し惜しみの達人なのだ?  これは 最大限のお世辞です。おべんちゃらです。  ★ 大乗仏教のさとりということですと、それはもう釈迦の責任範囲を超えている気がします。もとの原始仏教を発展させたものですので、それは大乗仏教の中の話ということになります。  ☆ ちょっと待ってください。ゴータマは どのようなさとりを得たとみづから言ったのでしょうか?  《この上なき智慧のさとり》ですよ。マハーヤーナ―における発展にあっては ゴータマのさとりよりも上の中身が現われたということでしょうか? どうなんですか? おかしかないですか?  ★ 現在でも阿羅漢と呼ばれる人はいます。  ☆ 中身が その阿羅漢のひとの思想より上のものを提出すれば ウソだったとわかるはずです。つまり 批判すれば 済みます。  すべて中身で勝負でしょう。  なるべく嫌味を少なくして批判しました。それでも ご気分を害したとすれば ごめんなさい。  

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     特には創価学会としての見解をたずねます。  次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。   (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~    http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512  (α) 南岳釈して云く     「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、  (β) 是の故に法華経に云く     「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く    「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、    大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は     ○ 一切衆生 悉有仏性  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。    (ε)  法華経に同共して信ずる者    (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは      (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも    (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。  《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち   ◆ ~~~~     (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして         清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ~~~~~   ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

  • 創価学会への公開質問状:なぜ断絶する宗派か?

     または 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか? と問います。  あらためて次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問います。  中で (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  なお ≪神≫と言ったのは ダルマ(法)もしくはダルマ・カーヤ(法身)のことを言います。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~~~~  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …  (α) 南岳釈して云く   「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、    ☆(α‐1: bragel. ) これは ブラフマン神とアートマン霊我との一体を         表わす≪梵我一如≫として 一般化して捉えてよいと考えます。  (β) 是の故に法華経に云く   「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く   「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    ( γ‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ☆ ( γ‐1 )=( α‐1)です。  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)として解釈したごとく:   ○ 一切衆生 悉有仏性 (法華経)  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。   (ε)  法華経に同共して信ずる者   (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは    (3-1)  一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも  (3-2)  人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダルマ)に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-2)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で時には依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。    《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシヘは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。  のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐1) 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないものである(オシヘなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ)《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐2) ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ)《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐3) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであるか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(修行ではなく善行ではない)》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち  ◆ (γ‐1=α‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして           清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す      ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? 普遍神のことではないか? なぜ分派をみづからつくる党派を成すのか?

  • 仏教:「空」と「諸法無我」の違いを教えて下さい。

    気になって眠れません・・・ 般若心経で説かれている「空」 法華経で説かれている三法,四法印の内の「諸法無我」 両者に違いはあるのでしょうか? それとも同じものなのでしょうか? まだ法華経以外の経を学んでおりませんし 法華経自体も学んで日が浅い私の勝手な安易な解釈ですが 空・・・・・・この世は一つである 諸法無我・・・この世のものは繋がっている(関係し合っている) 両者は逆説の関係ではありますが同じでいいのです・・・・・ね? 経は違えどもともと同一人物にによって説かれたものですから 同じであって当たり前だと思うのですが どちらも真理であり真理で無いですよね? まず悟り真理というのを言語化でしている時点で 「空」も「諸法無我」も悟りから得た真理を人々に伝えるために言語化した表現、「方便」なのでしょうか? 結局は自ら考え自ら納得できるかが問題なのでしょうが・・・

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  •  「法華経」に違和感を感じてしまいました。

     「法華経」に違和感を感じてしまいました。  私は、仏教に興味を持ち「スッタ・ニバータ」、「アーガマ」、「仏教の思想1~8」(角川ソフィア文庫)、「この人を見よ=ブッダ・ゴタマの生涯」(増谷文雄著)その他諸々の仏教関係の本を読み独学している者です。この度、現代語訳「法華経」(中村元著)を読んだ時に、かなりの違和感を感じてしまったのです。  原始仏教の経典等からは、ブッダ・ゴータマは、仏陀であるけれども正しく「人間」であると感じられます。また、悟りを開くには縁起を良く理解し、四諦八正道を実践する事だと説いています。また、晩年自らの死を前にしては、自分も諸行無常の理から免れる事はないので、やがて死ぬであろう。しかし、死後は「法」を拠り所として、修行せよと弟子たちに語っています。  しかし、「法華経」に登場する仏陀は、自分は「久遠仏」であり、過去、現在、未来において永久に存在する、とか。仏国土は永遠である、とか。法華経のみが真説であり、他の経は方便だ、とか。法華経を読んだり仏像を作ったり、礼拝すれば仏の慈悲により悟りを開ける、とか。甚だ原始仏教の内容とは矛盾しますよね。諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。  よって、「法華経」は、仏陀を人間ではなく神格化して信仰の対象とすることによって、仏教の大衆化及び教団の強大化を目指すために当時の弟子達が創作したものではないのだろうかと考えるようになりました。悟りを開くには、難解な法を理解し大変な修行が必要と説けば、一般庶民には受け入れられませんからね。  ここで、質問です。  (1)「法華経」は、弟子の創作だと思いますか。  (2)最澄、道元、日蓮などは、「アーガマ」等の原始仏教の経典を読む機会が無かったのでしょうか。  念のため、言って置きますが、私は「法華経」は宗教的には優れた本だと思っていますし、法華経を信心している人を批判しようという意図は全くありません。