• ベストアンサー

歴史上、死=無という解釈が出たのはいつ

死=無という解釈の登場時期、死んだら無という価値観が支配的になったのはそれぞれいつごろでしょうか。 そもそも無の解釈、空間や入れ物自体が存在しないという概念の登場時期はいつでしょうか。 分かるものだけでもいいのでお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#224207
noname#224207
回答No.2

>死んだら無という価値観が支配的になったのはそれぞれいつごろでしょうか なぜ支配的になっているとお考えになられましたか? もし、支配的であれば、臓器移植に関する法の制定に当たって紛糾することはありませんでした。 質問者さんが、日常的にそのように感じておられるのであれば、人の死が身近なものでなくなった昭和50年代以降の日本の社会現象の結果でしょう。 このころから、核家族化が進むと同時に、人は自宅ではなく病院で死を迎えるようになりました。 現在の若者の大半は、死体を目にしたことも、触れたこともないのではないのでしょうか。 まして、肉親の臨終に立ち会うなどという経験はほぼ皆無かと思います。 現在の若者達が知らされるのは、医療関係者が処置した後です。 御質問者ご自身は如何でしょうか。 世界的には、人々にとって親族の死は極めて身近なできごとです。 死=無とは受け取りません。 これで済むのであれば、宗教による補助を必要としなくなります。 >無の解釈、空間や入れ物自体が存在しないという概念の登場時期はいつでしょうか 「無」という言葉をこのように解釈した例は寡聞にして知りません。 「存在」とはなんぞや、という議論は存在論と呼ばれギリシャ時代から今日まで続いています。 「存在」と「無」という言葉を同時に使った例としては、1943年1にサルトルが発表した「存在と無 - 現象学的存在論の試み - 」という書籍があります。 仏教哲学で使われる「無」という言葉の意味は、ご質問のような内容ではありません。 参考までに、下記の書籍に目を通されることをお薦めします。 死生観を問い直す 広井良典 ちくま新書 般若心経を読む 水上勉 PHP文庫

noname#194073
質問者

お礼

本の具体的な名前をありがとうございます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (1)

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.1

そもそもヒトが知恵というものを持ち始めたときから「死んだらどうなるんだろう」というのはあったと思います。だから最初の最初は「死んだら無になってしまう」だったんじゃないでしょうか。 そこから、「死んでも死後の世界がある」というような「宗教」が生まれたのではないかと思います。 >無の解釈、空間や入れ物自体が存在しないという概念 これはいわゆる「ゼロの発見」ということでいいですかね。記録に残る限りは、6世紀にインドで0は発見されていたようです。インド人は割とすんなり0を受け入れていたようですが、ヨーロッパでは「ないものがあるっておかしくね?」と0の存在を認めるかどうかの論争が何百年も続きました。 おっしゃることが仏教でいうところの「空」の概念であれば、それを持っているのは仏教です。仏教独自の考え方なので、仏教圏だけの話です。おそらく質問者さんが漠然と考えてるのはこの仏教用語でいうところの「空」の概念だと思います。それは西洋哲学にはない概念ですね。 >死んだら無という価値観が支配的 原則的にそれは現代日本での話であって、キリスト・イスラム教圏では支配的ではないと思いますよ。アフガニスタンあたりでそんなことを口走ったら「この共産主義者め!」といわれて殺されてしまいますよ・笑。いやガチでアフガンで「お前は何教だ?」って聞かれて「無宗教だ」と答えると殺されるらしいです。

noname#194073
質問者

お礼

無が先で、宗教が後というのは考えませんでした。 教えていただきありがとうございます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 『無』は、その意味の通り存在しない?

    私は無という状態も存在しないと思います。 その例を3つ考えました。 例えば、仮に、1立方メートルの『無の空間』があったとして、その『無の空間』に普通のボールを投げ込んだらどうなるか? という事を3つ考えます。 (1)無の空間にボールを投げ込むとボールが消え失せてしまう場合。 これでは、無の空間がボールの存在を打ち消してしまうという、性質を持っていることになり、存在(ボール)を打ち消す力を持つ、という性質を持つ存在(有)になってしまう。 (2)無の空間にボールを投げ込むと、ボールが無の空間の中へ飛んで行き、放物線をかきボールは無の空間の中へ落ち、ボールは存在し続けた場合。 これは、言わずもがな、無の空間ではなく普通の空間である、ボール(存在)を存在させるという性質を持った存在(空間)である。 (3)無の空間にボールを投げつけると、ボールは無の空間に入らず跳ね返ってしまう場合。 これでは、無の空間が物体を跳ね返えす、抵抗力または斥力という性質を持っていることになり、抵抗力という性質を持った存在(有)になってしまう。 結局、無という空間を想定してしまうと、何らかの性質を持たざるを得なくなり、何らかの性質を持った存在になってしまう。 また、『無とは不可知だ』、と言ったところで不可知な性質になってしまい、不可知な性質を持った存在になってしまう、それは不可知な有(存在)である。 また、無という状態というのも、存在を一切存在させないという性質を持った有(存在)になります。 そもそも、無が存在したら矛盾な気もします、無いのに存在すると言うのは。 ということは、つまり、無は存在しないのでしょうか?

  • 死の概念は業を境に二分して解釈できる。

    死の概念は業を境に二分して解釈できる。 死後があり、誰もが彼岸に行き着くならば、そこでは誰もが業因がないことを悟り苦もないであろうと考えます。このように彼岸に置いて非業が判るゆえに予め安らかな死を迎えるならば、それが非業の死です。 ところが未だ現代にでも業の観念というか噂の類が、まかり通っているゆえに、(これは信仰ゆえでしょうか?)苦痛に満ちた死を想起して実際にそのように見える死を迎える人もいます。 そして冒頭に戻り死後があるならば彼岸は非業です。 非業の死に苦の響きがあるのは業があるとする者が良性の業、(功徳とも言う)を失う事を恐れる「苦」です。 現代の死の(観念でなく)イメージでは、死のイメージがそのように業の痛みに覆い隠されて判らなくなり、何が苦痛であるかについて、死ぬ事に勘違いというか濡れ衣のような間違った解釈がなされています。そして本来の死は宗教的な言葉で「往生」と表現されています。 本来の死がないがしろにされ違う解釈がなされていることになります。 そうであれば、業とは、その論は無であり虚構であると、理解しない業の信奉者が想起する苦痛に満ちた死にざまであり「死」を知らぬ妄想でありましょう。 社会を見聞した限り死を知らぬものは生をも知りません。 その姿は屍であり、死を知らぬゆえに屍のまま地獄のごとき娑婆を徘徊するのです。 まさにそうであり娑婆世界観を徘徊するものは屍をさらしその自らの姿を悲しむのみです。 そうしてお釈迦様がその悲しみを理解する慈悲を発露して救ってくださるのを待ちます。 ところがお釈迦様はすでに入滅していると伝承されています。 ますます屍のままの生きざまを体現するのが仏教の祈りでしょう。 信仰のうち訳は無いものすがりのとりすがり教団以外ではありません。 生きながらに入滅し、娑婆とおさらばする事をお勧めします。 業を「そんなもんありゃしねー」と理解できないものの死のイメージとは苦が付きまとったまま屍のごとく生きる事です。 死の概念とはそれとは別の喜び。 そして、業を信奉する者は死を知らず屍の概念をもって死を汚す。 以上に、伝統的概念をもって論説してください。 哲学的思索の助けを募集する質問です。

  • 佛教の「無」と無神論者の「無」は違うのでしょうか?

     佛教は印度の遥か昔は仏像等本尊も無く、  私の心の煩悩からの開放 当たり前であるが苦しき事(老病死)を受け入れていく 事により、覚りの世界へと到達すると云う事が根本にあったと思います。  その象徴として、本尊や浄土や霊山というものが生み出されたと考えられます。  「死ねば唯のカルシウム」と云われる方が居られますが、  「唯のカルシウム」「無に還る」という意見は私も同意できますが、  私の生命も遡れば「無」と云う事から始まり、その繋がりの中にある、  そして、亡き方からご縁があった、そこに「今科学的に観て生命が生きている   「有」ものと成る「無」という世界では解釈できない「有無をはなる」という  世界だと思うのですが?」  説明が悪く申し訳ありません?  1 無神論者の方にとっての「無」は仏教の「無」とは違う「無意味」「無価値」なものであり、死ねば完全な「もの」として捉えていくという事なのでしょうか?  (私自身も死ねば「遺体」「白骨」と解釈しますが、何処かに亡き方とのいのち   の繋がりもあるそれこそが同じく「無に還る」という事なのではないかと思います)  2 無神論者の方は 今が良ければそれで良いのでしょうか?    葬儀の参列 墓参りは科学的に何の根拠もないので無意味 無価値なのでしょ  うか? 遺体は処理し、遺骨は捨てる、それで終わりという感覚なのでしょう   か?

  • 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • 量子論に《本質・絶対・無》といった概念はなじむか?

     または 量子論は ふつうの存在論を形成しうるか?  つぎにかかげる質疑応答をそのまま問いとします。  質問として成立すると思うのですが 対話の行方をめぐって第三者の視点をほどこし結論へとみちびいていただきたい。というのが 趣旨です。  主題は デカルトのコギトをめぐってですが 《思考(ないし認識)と存在》といったかたちになるかと思います。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が  有なのだ。  無(不確定性無限)の潜在としての認識可能性を含む、  現象表面的な仮説(=自我仮説(記憶(過去)=時間の流れ)  と空間仮説(予測(未来)=空間の広がり)の相補分化)  『何かあるかも知れない』という疑問(われ思う)として  の時空的広がりに対する、『本当は無いんだけどね』とい  う無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)  としての量子(感受表面~超弦)。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか?  (2) また同じく 《絶対化》とは何か? おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは?  (3) 《有限的存在性》は すでにヒトとしてわたしがわたしであるとさとったわたしが その或る種の生物であることの存在をそのまま言い当てた言葉です。何が言いたいかと言えば そのような《わたし――人間――存在》といった自己到来の地点が 出発点に成る。ということです。そのあと 量子論といった世界認識にもおよぶ。こういう順序ではないのですか?  (4) ですからたとえば:  ◆ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。  ☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか?   (5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか?  (6) 《不確定性原理》は 言わばこの・いま見て来ている《わたしなる存在》の中におさまっているもの(こと)ではないのですか?  (7) さらに畳み掛けるようにですが:  ◆ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  ☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。  ◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  ☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか?   (9) 先ほどは わたしの内に原理がおさまるというようなことを言いました(6)が それはその原理が外には及ばないとは言っていないのですし また内におさまるというのは わたしより先にそして別のものとして原理が運動しているとは見ないほうがよいと言うためでした。  ◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。  ☆ (10) これは 分かるようで分からない命題ですね。  それは まづ《本質的に》と言うのが 何を言っているのか定まりません。  (11) 《本質的に無である》 これも定まりません。  (12) おそらく もし先ほどからの《わたしなる存在》について言えば それは――生身のからだで生きるのは 限りある時間であり 心(精神)までも移ろいゆくものだと分かっているのですが そのものの源泉であるかのような《生命》を取り出すなら(類は或る意味で永続していますから) この生命は―― 《有であるか無であるかが分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》といった内容を言っているかに思えます。――これとの対比では どういうことが言えるか? ぜひお聞きしたい。  ◆ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。  ☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。  (14) もしそうではなく経験事象として確定しているのなら それはその《無》が どういう内容のものかをさらに説明しなければならないでしょう。《無》と言っているけれど それは経験事象であるとも言ったことになっています。そのことを説明しなければ話は始まりません。  (15) もしこの《無》も 《無であるかどうか分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》というのであれば それは 経験事象ではありません。《非知》です。――というように議論をはこぶのが ふつうの経験合理性だと考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《第二の死》と呼ばれる《顔無し》状態はあるか?

     《第二の死》とは?  《死が死ななくなった状態》を言うらしい。  死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして 死ぬものである。   わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。  これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。  このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的で限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われがわれに還るとき 死なしめられる。  つまり 《第一の死》は 死ぬことが出来る。  《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。  あやまちをなぜ《第一の死》と言うか?   それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が 相対的な経験存在であるそのままのかたちを映して 実際に《果て》によって限られて来るからである。  物ごころのつく前のわが広大な宇宙が 時間を見出しこの時間によってわが存在の歴史として《果て》が限られることは 実際の死によって限られることだからである。  あやまちは 心を失くし《われ無し》となる死である。ただし われに還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。  われわれは 人生において 第一の死に突っ込むようにして落ち入りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生きる。巡礼の旅路である。  ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?  かんたんである。われに還ることがなくなるときである。  あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。  《われ有り》の状態に復帰することがなくなるときである。  心にさからう《われ無し》の状態が・つまり第一の死が 固まってしまうときである。  そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。    第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。    基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。  のではないか?   ひとつに みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認したとき。  ひとつに みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸入もしないという蛸壺哲学に落ち入ったとき。  ほんとうにそうか?  それだけで 第二の死が起こるか?  いやそもそも・果たして 第二の死は あるのか?  みなさんのご見解についてその方向性やそもそも中身について 予測がつきません。  この主題について いろんな角度からいろんな見方が得られればと思います。  ふるってご見解をお示しください。

  • 真空自体にエネルギーは存在するのでしょうか?

    真空自体(何もない空間)にエネルギーは存在するのでしょうか?何もない空間自体がエネルギーなのでしょうか?もし、そうだとしたら、その理由はなんですか?もしかしたら、説明という概念では説明できませんか?^^

  • 空間と時間について

     空間と時間に果てはあるのでしょうか。もしあるとすれば、その先はどうなっているのか。空間と時間は無限に広がっているのだろうと思いますが、もし空間が無限大であれば、我々が住んでいる、おおよそ130億光年の広がりがある、この宇宙も、無に等しいくらい微細なものになります。時間も同じです。時間が無限に続くのであれば、130億年もまったくの一瞬のことです。いずれも無限大であれば、我々の存在自体無であると思いますが、どうなんでしょうか。無であれば考えること自体無意味ということにもなるのでしょうか。こうなってくると天文学というよりは宗教あるいは哲学の部類になるのしょうか。

  • 宇宙の誕生の前はどうだったんでしょうか?

    よく、宇宙はビックバンによって生まれたと聞きますが、その前はなんだったんでしょうか? 無、真空ではなく空間、時間、エネルギーもない無の歪みの影響で・・・・とか何かの本でよみましたが、無が歪みとは?無でしたら空間さえないと解釈すると、そこから歪みを生むもの力(エネルギー)はどこにあったのでしょうか?例えば、無=∞であり、ひとつの物?エネルギー?意思?では一つのもでしかないのでその存在自信が無であり∞であるのではないかとおもいます。同じ物が無限にある場合それを対象とする物がない限りそれ自体認識できないのではとおもいますが?ビッグバンの前は、多数の無∞があり、それがなにかの影響で干渉しあって、初めて無∞が何かという存在が確認でき空間、エネルギー、時間がうまれたのではないかとふとおもいました。+と-、男と女、悪と正義、光と影があるように、宇宙もできたのかなとおもいました。それもビックバンの前の二つの無∞が均等ではなく(均等では均等の無∞になり認識できなくなる)少しの割合の違いで不均等になり存在できるようになったのではないかとおもいます。その為、今存在する宇宙はπがいつまでも続く様な不均等な空間になったのではないかとおもいました。数冊宇宙についての本を読んだ位で物理の公式とか何もしらない者の考えなどで陳腐な質問かとおもいますが、何かしらの考え方がある方がいましたら教えてください。私には公式を使った説明ではわかりませんので、推測でかまいませんので教えてください。

  • 死が怖い、について

    他サイトで同様案件は拝見はしていたのですが、すみません、改めて皆様のご意見や解決方法がもしあれば伺いたく思い質問させていただきました。お恥ずかしい変な質問で申し訳ございません。 単純に書くと、死について、というよりは、そもそもの生について考えると異常に怖くなります。 人生でこの衝動は何回かあり、最初は中学生の頃でした。なので、もしかしてこれも中二病の一種なのかな、なんて先日思ってしまいました。 話がそれましたが、軽度な時は死について考え軽く青ざめる、もう少々重い時は加えて何故か宇宙を想像する(恐らく宇宙空間の黒がイメージに連動しているのと、後述しますが私の死への考えが無なので宇宙の塵になる、と思っているからなのかな、と何となく自己分析しています。)ようになったり、何かしら訃報を目にしやすくなり、それを議題に重く考えたり、などなど、ともかく死について、脳内で出ない答えを見つけてループになり、段々怖くなっていきます。 実はお恥ずかしいついでで、もう一段階あるのですが、もっとまずい時は、そもそも生とは、というところまで考えてしまうようになり、精神状態も、この上なく恐怖と絶望感にみまわれてしまいます。 中学生の頃は、変な言い方ですが、まだ今からしたらピュアな、哲学っぽい事を考えて、布団にしがみつきながら耐え抜きました。恥ずかしい話ばかりですが、一度だけ、どうしても耐えられなくなり、母親に打ち明け、中学生にも関わらず抱きついて慰めてもらったこともありました。恐怖心的には強レベルに近いくらいのものでした。そして20代になるまでは殆ど忘れていたのが、20代前半になりいっとき軽度レベルを再発し、また20代後半のいっときまで忘れていましたが再発しました。 そして、29・30・31と、半年~1年のペースで中~やや強レベルで襲って来て、32歳後半からは、特にここ1~2ヶ月は、考え方は違うものの、中学の頃に負けない、人生最大かもしれない恐怖で押しつぶされそうになりました。 最近については、私自身生活習慣が悪いとかといって怖いとか言っておきながら普段健康面を気にしない感じになってしまっていて、それがきっかけで反省して改善できればいいものの、性格上早々出来ず、といった事から死を考えたり、今までの人生の時の早さを考え出して最近早くなった事で気付いたら死期になっていそうと考えたり、中学の頃とはまた違う哲学的な事を考え出したり、身内の将来を考えたり、有名人の訃報を重く考えたり、ともかく、そういう状態の時はとことん色々考えてしまい、直近はとあるプライベートの時に電車に乗っていたら、乗車時間がその時連続で2~3時間あったのですが、過去最長の思考時間および最大の恐怖心が出てしまい、その間ずっと普通列車で両隣に人が座ってる中で必死に耐え抜きました。途中発狂しそうになったほどでしたが、少しため息程度の声が漏れてしまった程度で収まりました。その時は最終的に本来の用事をキャンセルし、気分転換をし、少しは落ち着きました。 が、それがきっかけで、ここ一月ほどそれから今に至るまで、連日の時もあるものの毎日と迄はいきませんが、前述の出来事レベルまではいかないものの、怖い怖いが続いてしまっています。 先にどうでもいいお恥ずかしい赤裸々話を綴ってしまいましたが、私自身は、死後の世界とか前世などといった、変な言い方になってしまったら申し訳ございませんが、非科学的?な事はいまいち信用出来ず、科学的?物理的?に死=無という解釈をしてしまっています。まだ、死後の世界や輪廻など、続く方向のものが信じられていれば違うのでしょうが。あ、ちなみに、霊の存在とか、死後の世界とか、その様な説および教えられている、考えられている、信じられている方を否定したりしているわけではないので誤解なき様願います。私自身の性格上、どうしても頭では理解していても、深層心理が私自身でもどうなっているのかは分かりませんが、そちらが納得出来ていないと信じれない様で、現状私自身の考えに関しては、やはり死=無となってしまっている様です。ただ、その衝動の時に、死=?という議題になる時もあって、その時には?を埋められず無限ループし精神状態が落ちていく時もあります。 考えてもしょうがないこと、避けられないこと、といった事はわかっているし、何でもない時は冷静に考えられるのですが、衝動時にはどうしようもなくて、ただ過ぎるのを待つしかない、で済む話なら問題はないのですが、前述の通り、長い時間抜け出せず、しかも公衆の面前で、といったときに、前述の時は何とかなりましたが、この先また同じ様な時があった時にどうしよう、と思っています。 長々となりまして、本題ですが ・他にも同様の若い方がいらっしゃる、というのは他のサイトを拝見して分かりましたが、私の歳でこの様な事になっているのは、ちょっとおかしいでしょうか。他にもいらっしゃいますでしょうか。 ・恐らく、どうしようもない事、だとは思いますが、何かしら緩和するための改善策はありますでしょうか。 ・上記はそもそも死の恐怖そのものに関してですが、そこまで行かなくとも、前述しましたような緊急時に何とかする手段はあったりしますでしょうか。 あとは、どう質問していいかわからない状態ではありますが、変な質問で申し訳ございませんが、同じような感じの方や、既に克服された方など、また御指摘など、色々とよろしければご回答頂戴出来ましたら幸いです。本当に変な質問で申し訳ございませんがよろしくお願いします。

このQ&Aのポイント
  • マルチエフェクターのスピーカーシミュレーターについて調べています。ギターアンプへの出力について疑問があります。
  • AIRD PREAMPを使用する際、ギターアンプへの出力は不要なのでしょうか?
  • プリセットのサンプルはPAやモニターに直接出力する前提で作られているのか疑問です。
回答を見る