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原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

 ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。

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  • lv4u
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回答No.1

>>原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。 キリスト教の信者たちに対し、そう言っておけば「あなたは罪を犯した。そのために贖罪をしなさい(私の命令に従え!)」という論理展開でコントロールがしやすくなります。 この手法は、韓国の統一教会が日本人信者をコントロールする手法でも使われています。 また、キリスト教信者以外の、多くの日本人に対して、中国・韓国が「日本人は、過去において、慰安婦、南京虐殺の罪を犯した(嘘だけどね)そして、韓国を侵略し併合した(これも朝鮮から頼まれて日本は嫌々ながらも併合してやったのだけど)。だから、どんな酷い扱いをうけても、奴隷になっても日本人は我慢すべきである」というデタラメな反日理論にも使われています。 つまりは、洗脳のツールになるから言われているんですよ。 ちなみに、幸福の科学において、エルカンターレは、「キリストが主と呼んだ存在」とされています。 そして、その教えの中で「あなたたちには原罪というものはない!」と説法で述べられています。 私は、最近、正心館にいくと海外の方(黒人)を見る機会が増えたような気がしますけど、毎月、布教所以上に配布されるDVDに海外の方が登場していました。 その方は、アフリカのどこかの国の方でしたが「大川総裁の教えを聞くことで、私の中にあったキリスト教の原罪という重しが消えて心が軽くなりました。ありがとうございます。」という感じのことを言われていました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・そう言っておけば「あなたは罪を犯した。そのために贖罪をしなさい(私の命令に従え!)」という論理展開・・・   ☆ 分かるのですが・そうなのですが そのように どう言いますか 手続きじょうの問題としてあるという見方は 言わば理論として・また問い求めとして主流ではなく支流として付属していることだというのが この問いをなお取り上げた理由でもあります。  つまり もし――もしですよ もし―― 一般に人びとが 原罪などというのは お為ごかしのような子供だましだと分かっていれば(つまり そういう常識が普及していれば) いま言った支流としての手続き上の問題は 何でもない。ことになるはずです。  せいぜいが 物好きな人間がちらほらと その誘蛾灯にさそわれて行くくらいのものでしょう。――だから 何かまだある。のかも知れないのです。  つまりたとえば よほど太宰治流の罪意識――つまり理屈抜きで《生まれて来てすみません》と言う負い目を感じているような――が 人びとになお蔓延しているのかも分からないわけです。そこんところを しっかりと把握してみたい。というモチーフです。  ★ つまりは、洗脳のツールになるから言われているんですよ。  ☆ なぜなるのか? という発想は ずるい問い方ですか? そうだったら そのようにあらためて説いてください。  ★ ・・・その教えの中で「あなたたちには原罪というものはない!」と説法で述べられています。  ☆ 何ごとについてもざっくばらんに考えるところを述べてまいりますが この説明ないし理論だけでは これまた あやういとわたしは考えます。  なぜなら 人びとは とにもかくにも《ウソをついたことのない人はいない》という共通の相互理解のもとに わが心に逆らった経験があるという負い目を誰もが持っていることは 実際のことだからです。  つまり げんざい? つみ? というコトバを聞いて 少しは心が動かない人はいないと思われるからです。  ただ 《原罪というものはない》と言っても それだけでは 説明不足でしょう。  しかも 《エルカンターレ》が 《あなたたちには原罪というものはない!》とお経かお題目を唱えただけでは それは どう見ても いわゆる上から目線なわけで むしろちょっとまじめな人間なら ドン引きになること 請け合いではないでしょうか。  すくなくとも ブッダターの宿ることを――想定ですが―― 互いに思い認め合おうという仲間のあいだでの共生感覚において声をかけるのでなくては ダメでしょう。くだらん題目は やめて欲しい。とこの際 はっきりと申しあげておきます。  ★ 「大川総裁の教えを聞くことで、私の中にあったキリスト教の原罪という重しが消えて心が軽くなりました。ありがとうございます。」  ☆ 中世以来 そんなコトバは何度も誰れかれなくどの人からも聞いた歴史を経て来ているのではないでしょうか。確かに 原罪を前提としてその原罪があがなわれたことによって わたしは自由が与えられたといったようなニュアンスであって 少し違いますが それでもそのような一番煎じがすでにあって そのあとすべてが 二番煎じであるようです。そちらの会は。  もちろん わたしは 怒って言っています。存在理由はゼロです。とはっきりお伝えしておきます。  そもそも組織宗教ということ自体が 犯罪行為です。ヒエラルキアのもとでの共生が 非人道的な人間支配になっています。すみやかに解放されて 人間としての共生の道をあゆまれんことをのぞみます。    

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     詳しい内容をおしえてください。単純に捉えていましたが 注意しなければならない意味があるのかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。   (ヘブル 書8:7-13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • われわれは原罪を犯せしや?(つづき)

     次のように表現しては 間違いでしょうか?  神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。    こう表現しては 間違いでしょうか? という問いです。    *  以下に 原罪についての考え方をも述べます。  1. 光は 曲がります。光も 曲がります。われわれ人間の心も かなしいかな 曲がります。  2. しかも じつは じつに わたしが曲げるのです。  3. うそをつかなかった人間は いません。本心を曲げて いつわりの証言をしたりします。  4. 本心とは何か この問いも 必ずしも容易には 分かるものではないところがあるようですが うそをつくときには やましさを感じるものです。気持ちよいものではありません。  5. 要するに このへそ曲がり・始原的にして普遍的なへその曲げ これを 原罪と言ったのだと考えます。  6. 言いかえると へそを曲げる自由も 曲げない自由も どちらも備えた意志の自由を われわれ人間は 与えられている。これが 生まれつきの自然本性だと言う。  7. へそを曲げるとき たしかに わたしたちは いわゆる良心の責めを感じます。ですが この世は 似たりよったりの人間が おもしろおかしく生きていくだけだ 寿命が尽きればあの世行き という考えを持つようになる人びとも出て来ます。  8. こうなるとまた 一生のうちの《へそ曲がり》の積み重ねについて 死ぬときには すべてを清算して逝くのだというおとぎ話も紡がれ得ます。あまりにも無責任ではいけないという見方が現われるのでしょう。  9. 良心は良心ですし 自由意志は自由意志として 大事なものです。これはおそらく存在の基本ないし生きることの基礎というものであって とうといものだと思われます。そうでないと 社会における人びとの振る舞いは 判断の決まらないのっぺらぼうの交通(まじわり)関係となって収拾がつかないことになります。  10. したがって へそ曲がりの清算をめぐって何らかの交通整理が必要になるという一面も 社会に現われます。最後の審判といった大いなる物語にまで 発展しうるというわけのようです。    11. へそ曲がりの清算とは言うものの 原罪をあがなったというイエスの物語は いくらか 毛色を異にしています。  12. イエスというひとは ナザレ出身のふつうの人間でした。それでも人間にも 互いに 交通整理をする意志があれば その能力もある。そしてこの人間の能力をも超えるチカラのハタラキが問われました。  13. 光は たとえ曲がっても 光である。腐っても鯛と言ったかどうか知りませんが さらに 光を超えた光もあると――もともと いわゆる旧約聖書の伝えるような人びとをつうじて 言われて来ましたし そのことを―― 明らかにする仕儀に かれは 到りました。  14. へそ曲がりを 曲がったへそのまま 何ものかが包み(あるいは 覆い) 心も体も 何ものかによってわたしたちは それぞれ 掬われると言いました。人をすなどるとも言いましたからね。魚のごとく たも(網)で掬うというわけです。  15. 原罪というとげが われわれの良心には刺さったままになっていたのを この棘は引き抜かれたと言い この言葉のままを 生きました。生き切りました。そのように伝えられました。  16. 棘の刺さっていた患部は まだわれわれの存在に 残されているかも分かりません。すでに癒えていても あざや ほくろや 蒙古斑のごとく 残っているかも分かりません。原罪というのは つまり原初のへそ曲がりというのは 現在つまりイエスのあとの歴史においては そういう状態にあると考えられます。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。