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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ニヒリズムにそもそも意味があるのか?)

ニヒリズムについて考察する

noname#221368の回答

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noname#221368
noname#221368
回答No.5

 お久しぶりです。正月休みは山にこもってのスキー三昧で(酒屋ない,テレビ写らない,インターネット来ていない,帰りのバスもない(^^;))、やっと下界に戻って来ました。  [再考:神は死んだか?]の#1さんほどではないですが、ニーチェの言説にはやはり、歴史的文脈は無視できないと思います。  中世ヨーロッパの思想および神学においてギリシャ哲学は、無視しえないまた、無意識の土台になっていたという事実は賛成してもらえると思うのですが、その一つがイデア論です。  極端に言えば、超歴史的で超地理的な普遍的真理なり真実を最初から想定していた、という事になると思います。この伝統の中には純粋理性を唱えたカントもいます。そして人間は、イデアそのものは見られないが、その歪んだ像「仮象」を見る事はできると・・・。  これは結局、全面的な素朴実在論で、実際には観念論と紙一重だと思えます。思考したり感じたりするものは全て、現実にどこかに存在するのだと。それは別世界かも知れないが。  どこかで書きましたがニーチェは、典型的な西欧的理念型モデルのタイプです(注:西欧的理念型モデルはウェーバーの理論にはありません)。しかし個人的な理由から、それを超克しようとしました。精神は中世的なままで。  (神が定めたような)絶対的な真実や真理は、確かにあなたの言うように、知りえるか知りえないかさえわからない事です。ニーチェはそこで、そんなものは無い!、と判断したのだと思います。それはイデア論の否定です。これはニーチェの判断です(神は死んだ)。  その結果を、ニーチェは中世そのものの言葉で語り出します。 > 2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。  上記の趣旨は、(仮象という言葉を使っていますが)雑多な現象の集積である現実世界を体系づけるという意味において、私は創造主であると読めないでしょうか?。これは超人と言うにふさわしいものだと思いますが、そのような行動が可能な根拠は、神が死んだからです。カントも似たような事を言いましたが、先験的理性形式は、神が与えたものでした。この差は大きいと思います。  上記のような言説は、論理的分析では矛盾していたり無意味かも知れませんが、歴史的文脈を考慮すると「とても気持ちが良くわかる」一文にならないですか?。ニーチェは中世の言葉しか使えなかったんですよ、きっと・・・。  一方ウェーバーは、明らかに中世的貴族主義的残照を受け継いだ人で、二人とも当時ヨーロッパ最後進国であったドイツに前後して現れた人達です。ウェーバーの言説にも、歴史的文脈を無視して言葉だけ取り出すと、現在では危険思想につながるものは多々あります。学問価値自由論などは、その典型です。  二人とも当時ヨーロッパ最後進国であったドイツにおいて、「近代人の理想を一つを中世の言葉で」語ろうと努力したのではないのかな?、と自分は思っています。ニーチェは、ウェーバーの言う「認識の木の実を食べてしまった」一人であった、と自分は思います。  全く対照的な二人ですが、そこに時代を感じます。

bragelonne
質問者

お礼

 しばらくぶりですね。ご回答をありがとうございます。  歴史的な時代背景を捉えると 植民地をつくることは黙認されており 売春は合法的であった。というような議論とは ちと違うでしょうか。  ★ 歴史的文脈  ☆ ですね。  ご主旨は けっきょく次のように受け取りました。そこにこちらからの批判点もふくまれています。すなわち重要ですので長く引用しますが:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それはイデア論の否定です。これはニーチェの判断です(神は死んだ)。  その結果を、ニーチェは中世そのものの言葉で語り出します。    > 2.すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに     考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、     一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、     積極的・能動的ニヒリズム)。  上記の趣旨は、(仮象という言葉を使っていますが)雑多な現象の集積である現実世界を体系づけるという意味において、私は創造主であると読めないでしょうか?。これは超人と言うにふさわしいものだと思いますが、そのような行動が可能な根拠は、神が死んだからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこういう・みづからの意図をも伴なう世界観をニーチェは提出したのだとすれば それに対しては次のように問い返して 批判を差し出すことが出来ると思います。すなわち   ○ ぢゃあ 神をふたたび復活させればいいぢゃん。  これです。なぜなら 《私は創造主であると読め》るのなら そうなります。まったくはっきりしています。  要らぬ二番煎じを提出しただけではないでしょうか。  あぁ  ★ 上記のような言説は、論理的分析では矛盾していたり無意味かも知れませんが  ☆ とことわり書きがありました。  ちなみにもしニーチェに同情するなら わたしなら あまりにもクリスチアニズムのオシエを中心とするナラワシ(エートス)が 堅苦しく まるで世の中は自由が成っていない こんなんでは 人びとは息苦しくてどうしようもない状態にある。これを一点突破するにはうんぬんと考えて 神は死んだと言うなり 超人を考えつくなりしたのではないか。とは思います。  つっぱねたカッコウのままにて。

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