• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ニヒリズムにそもそも意味があるのか?)

ニヒリズムについて考察する

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.1

「絶対的な真理などは人間には分からない」というのは、 「存在を絶対的に確定しようとすると、無限不確定性に 発散する(=無に還元される)」という事だ。 「真理は無い=本質は無に還元される」という意味では、 ニヒリズムは、「意味が無い=意味があると錯覚しない」 というだけの意味は「有る」。 「無いとは分らない事が有」なのだからして。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  (あ) 「絶対的な真理などは人間には分からない」というのは、  (い) 「存在を絶対的に確定しようとすると、無限不確定性に発散する(=無に還元される)」という事だ。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この(い)は 成り立たない推論ですよ。もしくは 問い求めているものが別だという話になります。  すでに《真理ないし絶対》についての命題(判断・定義)を提出するその時点で   ★ 絶対的に確定しようとすると  ☆ というように《絶対的に》という概念を用いてしまっているからです。  おそらく  ★ 無に還元される  ☆ というときの《無》についても 前もって・もしくは同時に 定義をしておく必要がありましょう。     *   ですから くわしく述べる必要があるとすれば    ○ 絶対的な真理などは人間には分からない  のではなく そうではなく     ○ 絶対としての真理は 人間には分かるか     分からないかが分からない  となるはずです。  その意味で 《不確定性》の考えを持ち出すことには いくらかの関連性があるとは考えますが それでも  ★ 存在を絶対的に確定しようとする  ☆ というときの《存在》は 人間から見てのそれ(一般にモノという存在)であり あるいはもっと言えば 《人間であるわたし》が認識しようとしているそれのみを言っていると考えられます。  そこでは それだけだと 《絶対》の問題は素通りしてしまっていることになりましょう。  (このくだりは 余計なことかと思いますが 念のために添えました)。       *  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  (う) 「真理は無い=本質は無に還元される」という意味では、  (え) ニヒリズムは、「意味が無い=意味があると錯覚しない」というだけの意味は「有る」。    (お) 「無いとは分らない事が有」なのだからして。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (お)は 経験思想としては 仮説ですね。言いかえると 《非思考の庭》においてヒラメキとして得た観想をそのまま推測として提出しておられる。つまりは 先ほど出て来た《無》の定義の問題になるはずです。  ですから (う)=(え)も まだ定まらないという受け取りになります。  (う=え)の結論は いくつか定義し論証することによって明らかにしなけれならない概念があると考えます。  (か) そもそも《真理》とは何を言っているのか。これが 互いに共通の理解に立っているか まだ分からない。  (き) 《本質》あるいは《無》についても おなじようです。  (く) 《真理は無い》と《真理は それが何であるかが分からない》とは 同じ判断ではありません。後者が 共同化されうる主観ではないかと言って 問いを問うています。それについて触れられていないのは 残念です。  (け) ★ 「意味が無い=意味があると錯覚しない」  ☆ ということと   ▲ ( d-2 ) 自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度  ☆ とは 同じではありません。  この( d-2 )および( d-1 )を批判の対象にしているのですから その点について触れたあとに 《少なくとも これこれのことは言える》といった議論をするのが ふつうです。  (こ) しかも その《少なくとも これこれのことは言える》というその中身は   ☆☆ Q-2 ・・・・すなわち《いま起きている現実における仮象と向き合って 一生懸命に生きる》のであって いちいちわざわざあたらしく仮象を《生み出す》こともない。と考えるからです。  ☆ という批判点をないがしろにしています。《仮象と向き合って 一生懸命に生きる》のは 《仮象に〈意味があると錯覚し〉ている》という批判点なのでしょうか?  つまり ニヒリズムでなくても(ニヒリズムを標榜しなくても) 《もし意味がないことならば 意味があると錯覚することはない》と言えるはずだからです。  (さ) というより 《現実の世界のものごとが 意味があると見る場合と意味がないと見る場合との互いに相い容れないかたちで対立するふたつの立ち場に区分している》ことのほうが マチガイでしょう。ヰキぺの解説では そうなっています。つまり ニヒリズムと称する思想は そのような二項対立の見方しか出来ないと思わせるようなしろものであるという問題です。  (し) 同じくだりでは けっきょく  ★(え) ・・・・だけの意味はある  ☆ というのは たたき台の提起した論点と同じことを言っていますから その点について触れられることをおすすめします。  すなわち:  ☆☆ Q‐4 ・・・世の中は《無価値》だとは けっきょくのところ 言っていない。ことになるにもかかわらずです。  ☆ という論点と同じことを言っているのですから   質問者の側も けっきょく《真理》から始まって用語の整理や定義をおこたっていると言われても仕方のない問い方ですが その間隙を縫ってご自身の立ち場やその主張をうったえるというのは これもいかがなものかと思いました。残念ながらニヒリズムについて問い求めるという問題に向き合った思惟であるようには 受け留め得ませんでした。どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。

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