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イエスとパウロの言葉、どっちが権威があるの?

hhitujiの回答

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  • hhituji
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回答No.5

この質問はとても良い質問なので何とか力を振り絞って答えてみましょう。 ただわかってもらうのは大変難しいです。 ちなみに私はクリスチャンであり、キリスト教を信じる前に、史実的な面でキリスト教を徹底的に調べた 経験のあるものです。そして、大学では理工学を専攻し、現在企業で研究開発の職にあるものです。 まず、キリスト教の本質は「どのような道徳規範に基づいて行動せよ」という通常の宗教とは異なります。キリスト教のもっとも大きな本質は「イエスキリストとは何者であるか?」ということなのです。 誤解を恐れずに言えば、 「イエスキリストは受肉した神であった」ということを信じられるかどうかがクリスチャンとその他の人を分けているのです。どんなに道徳的な人生を歩んでも、このことを信じていない人はクリスチャンでは有りません。 イエスの言葉は人が道徳規範を語ったものではないのです。神が地上に降りてきて、人間に「悔い改めなさい。私があなたたちの罪を引き受ける。私に倣うものとなりなさい。私こそは神の子であり、救いは私を通してしか得られないのです。」と語っているものなのです。 新約聖書を注意深く読んでみてください。驚くべきことにイエスは自分のことをはっきりと「神」と語っている箇所が何か所もあります。 イエスが語る道徳観というのは人間の良心に照らして特別ではありません。それは確かに恐るべきスタンダ ードの高さですが、すべては「私は神である。だから一切の罪を犯さない。あなたたちも私に倣うものとなりなさい」というメッセージが込められているものなのです。 そして、イエスは、その道徳観以上に、大切なことを口にしています。それは自分こそが旧約聖書に預言されたメシアであり、また神の子であるということです。 誤解するといけないので言っておきますが、当時のコンテクストでは「神の子=神」です。神から生まれしものは神であり、当時自分を神の子ということは自分を神ということと同じで大きな罪でした。 ここで大きな問題が生じます。イエス自身も旧約聖書はすべて正しいと言明しているし、その中には神は一人しかいないということが繰り返し書かれています。それなのに自分は神だといったのです。 イエスの死後残された弟子たちはそのことに疑いは持ちませんでしたが、イエスと天の神の関係、また、イエスが地上に来た理由、またその死の意味を深く考えるようになりました。 そして、イエスの教えとも矛盾せず、その死の理由を旧約聖書の預言や記述と矛盾なく説明できる教義を、初期のキリスト教会のリーダーたちの中にはぐくんでいったのです。その中には当然イエスの弟子たちが中心でしたが、中にはパウロのように恐ろしくユダヤ教、旧約聖書に精通したスペシャリストも入っていたのです。ですから、パウロ書簡は新約聖書でボリュームが大きいですが、それはパウロ一人の意見ではありません。むしろ、パウロは自らが受けた啓示とイエスの死の意味を一人では自信が持てなくて、ペテロをわざわざ訪ね、確認しに行っているのです。その中でイエスの弟子たちとペテロはお互いの考えの正しさを再確認し、一般の人にわかりやすい形で教義として布教していくことになるのです。 長くなりましたが答えを言います。キリスト教で大切なのは、「イエスが何者であり、なぜこの世に来たか」であり、イエスの言行録だけだとそれをわかりやすい形で一般のひとにわからせるのが難しいのです。クリスチャンは、それをわかりやすい形で説明したパウロやペテロ、ヨハネの書簡集を聖典として認め、またそれをイエスの死後神の啓示によって書かれたものと信じているのです。また、イエスは存命中に自分の死後、神の啓示(聖霊)が使徒たちに下ることを予告していたので、そこからも使徒の権威が認められているのです。パウロは弟子ではありませんが、「使徒」として初代教会に認められていました。 こんな感じです。わかってもらえたでしょうか? また、実はイエスは存在しなかったなどというバカな説はお話になりませんよ。 参考URLを示しておきます。私も最初はキリスト教というのは神話か作り話だと思っていましたが 調べれば調べるほど史実に基づくはっきりとした証拠が見つかってくるのです。 今ではれっきとしたクリスチャンです。

参考URL:
http://okwave.jp/qa/q1868987.html
NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆キリスト教のもっとも大きな本質は「イエスキリストとは何者であるか?」ということなのです。 キリスト教で大切なのは、「イエスが何者であり、なぜこの世に来たか」であり、イエスの言行録だけだとそれをわかりやすい形で一般のひとにわからせるのが難しいのです。 ◇なるほど、なるほど。 だから、 パウロの書簡集は、極めて重要であると。 パウロの手紙は、 「イエス・キリストとは何者であるか?」 という問いお答えを、 キリスト教徒、キリスト者がみずから追い求める上で、 極めて重要である。 その手がかりを与えるものである。 この重要さ、大事さといったものは、 福音書とパウロの書簡集では、 本質的に異なるものである。 質や種と言ったものがことなるものであり、 同列に単純に比較することはできないし、 比較は無意味である。 「福音書とパウロの手紙集が等しく権威あるもの」というコトバは、 このことを言い換えているのである・・・。 ご回答をこのように理解してヨロシイでしょうか? hhitujiさんは、理系出身者なのですね。 わたしと同じ匂いのするヒトなのかも、とニコニコしております。 遅れましたが、 わかりやすく、丁寧なご回答、 ありがとうございました。

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