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イエスとパウロの言葉、どっちが権威があるの?

Him-hymnの回答

  • Him-hymn
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回答No.1

新約聖書の文書は、どれも等しく、同じように、権威あるものとされている───キリスト教徒でもキリスト者でもない私には、これがどうしても理解できません。なぜ、なのでしょう? イエスの言葉が権威があるという立場で考えるとーー ★イエス自身のことばが語られている。そのことばは権威あるもののようだったーーなどとも書かれている。一方、パウロは直接イエスに会っていない。ましてや、イエスの言行を知らない。 ★パウロの書いたものは手紙ばかりだ。それに比べ、しっかりと福音書という形で本になっているものに権威があるのは当然だ。 ★福音書と使徒言行録は実践編(理論も含む)。しかもそれはイエスの実践。それに対してパウロのものを含め書簡は理論編。理屈よりも、実践が大事。しかも、イエスのもともとのことばは福音書にあり、そこにも理論は当然ある。こう考えると、やはり福音書と使徒言行録には権威があって当然。 パウロの書簡が権威あるという立場で考えるとーー ★そもそも、旧約聖書もろくに学んでいない弟子達とくらべ、パウロらの理論は旧約聖書を踏まえ、キリスト教の根幹を解き明かしている。かろうじてペテロの書簡もあるが、やはり権威はパウロ書簡にある。 ★福音書には体系的なものはない。伝記風にまとめた書物。それに対し、パウロ書簡は、論理的にもしっかり書いてあり、こちらに権威があって当然。 ★福音書は4冊あると言っても、マタイ・マルコ・ルカは内容が似かよっており、実際は2冊あるようなものである。それに比べ、パウロの書簡の数は十幾つかある。新約聖書で一番の執筆者は、マタイでもマルコでもルカでもない。パウロなのである。パウロ書簡に権威があって当然である。 ちょっとこじつけ気味のところもありますが、どちらの権威が上かなど、これでは言えませんね。どっちにも分があるーーということで、下手にどちらに権威があるなどと言えないから、同じ権威としているのでしょう。

NemurinekoNya
質問者

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わかりやすく、丁寧なご回答、 ありがとうございました。

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