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江戸幕府公文書の配布

dayoneの回答

  • dayone
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回答No.3

>右筆はそれだけの部数の公文書を書いたのですね。 幕府側は触等の伝達の負担(表右筆の書写等)軽減のため 諸藩留守居に負担が転嫁されるに至った様子が伺え、 伝達経路のうち(老中→)「大目付→各藩(留守居)」間については、 いわゆる「大目付廻状」形式などが多く散見されます。 (下記参考URLでは江戸後期の事例に過ぎませんが、 …網羅的に調べたわけではありませんが… 遅くとも江戸中期(延享・寛延等)頃までは遡れそうです。) 例えば下記URLでは以下のように解説されています。 <国文学研究資料館>史料館所蔵史料目録 http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku.html 第37集(1983年3月)/信濃国松代真田家文書(その2)/解題 133~148 「信濃国松代 真田家文書目録(その二)解題」 http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/37-k1.pdf 史料の表題について 「大目付廻状」 <5・6/16>(137・138頁) 幕府の「触」の伝達を媒介する中心文書である。… …右の触書の通達手続きは、老中が触書を大目付に渡し、 大目付は廻達の便に従って区分けされた大名群ごとに (その留守居を宛所にして)右触書の写しを添えた廻状を発する。 廻状を伝達された各大名の留守居はこれを写し留め、 廻状宛所の大名の名の下に承付を記し(通常は「奉」の一字を記す) 順達していくものである。 「同席触廻状」<6~8/16>(138~140頁) これも幕府の触を媒介伝達するもので、… …さて「同席触廻状」の伝達手続きは老中より触文が大目付に交付され、 大目付は諸大名の殿席(江戸城中の控間)の区分に従って、 各殿席ごとに二家(二家以上の場合もある)の留守居に対して触文の書付の写しを伝達する。 受けとった二家の留守居は連名の廻状を作成し、これを同じ殿席の大名諸家の留守居を宛所 にして廻達していくものである。 右事例の廻状は帝鑑間席に廻達されたものである (廻状宛所に見えない帝鑑間席大名家に対しては同様の廻状が 別途に数通作成されて送付されたものと思われる)。 同様の行為が帝鑑間以外の諸殿席においても行われ、 こうして幕府の触が全大名に通達されるという仕組みを採る。 「同席触廻状」において伝達される幕命は一般に小事であり 『御触書集成』にも収載されないようなものばかりである。 そしてまたそれ故に、その発布手続きも随意的、便宜的であり、 「大目付廻状」のような発布手続き上の安定性を得ていないことを付言しておこう。 以上 御質問の一部に過ぎませんが、疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「触」という名の文書が大量に発行され、それらは「大目付廻状」として全大名に通達されるしくみがよく解りました。 「廻状」は幕府から見れば合理的で、やはり中央省庁の発想ですね。 大名屋敷は、だいたい「殿席」ごとにかたまっていたようですので、近くの屋敷まで誰が持参して、誰が受け取ったのでしょう。想像が膨らみます。 今の自治会の回覧板のようです。 中にはのんびりした人もいて、なかなか回してくれませんが。 参考URLは大変参考になりました。 読みだすと止まりません。 “付き合い”ってものは大変だな、と思いました。

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