D氏の偉大なる探求1
- 不満足な人間を満足させ、豚に変える研究をしているD氏の探求についての趣旨紹介と仮説。
- 「不満足な人間」よりも「満足な豚」が社会にとって望ましい理由の整理。
- 「満足な豚」を生産するためのストラテジーと子育ての経験についての意見を募集。
- ベストアンサー
D氏の偉大なる探求1
§1.趣旨紹介 諸君、私は「不満足な人間」をたっぷりと「満足」させ、いずれは「豚」にしてしまおうという、おそろしーい研究をしているDiekbecという者です。 J.S.ミルという人は「私は満足な豚であるより、不満足な人間でありたい」と言ったそうであります。しかし、実際にそれを実行している人に遭遇するにつけ、「不満足な人間」よりも「満足な豚」の方が、人付き合いが楽であることに気がつきました。さらに仕事でガミガミ言い出す「不満足な人間」は、部下を萎縮させてしまい、成長を促すこともできません。案外、相手を信頼していようと信頼していまいと、ポンと仕事を任せる方がよいのではないか。これには、あれこれ考えて不満や不安を表明せず、ともかく満足していることが必要です。 以上のようにメリットとデメリットを整理するのであれば、「不満足な人間」は有害であって、むしろ「満足な豚」こそ、社会の維持に望ましいのではないかという結論に達しました。しかし私は「不満足な人間」を「豚」に変えるには、どのようにしたらよいのかと悩んでおりました。その手掛かりをつかんだので、ここに問うことにします。 §2.仮説 A.モデルケース 気付いたのは、とある質問でのやり取りの最中です。例えば哲学に関心がある人がいたとします。哲学に期待し、ある意見の細部を吟味し、良い悪いにこだわり、決して満足しない人がいたとします。 しかし、この人に哲学が実は糞便に等しい、思考の排泄物だと教えてあげれば、どうでしょうか。もはや良い悪いの判断をすることさえ、愚かしいことだと悟るのではないでしょうか。そして、うんこがどのような形であろうと、まあ、どうでもいいや、という気持ちになるのではないでしょうか。 つまりここで「不満足な人間」は失意のあまり、「満足な豚」になることができるのです。その成否は、哲学が糞便であることを納得させる話術にかかっていますが、まだこのやり方については考察の段階であるため、ここではそれは省略します(*既に諸君の中でも何人かが、私の崇高な目的のために実験台になっています)。 B.発展的考察 以上のポイントを整理すると、それは失望させることであり、人間の無力さを悟らせることです。人間は生涯を通じて、大したことはできない。人間は下らない。人生は味気ない。このように教え込めば、ちょっとのことで満足する「豚」になれるのではないでしょうか。 私はこれに気付いたあと、似たようなものがないかと考えてみました。 例えば、核兵器についてアインシュタインは「こんなモノがあれば、アホらしくて戦争はしなくなるだろう」という趣旨の発言をしたと言います。確かに、世界が滅ぶくらいなら、争いは即時停止するでしょう。アホらしさを悟らせることが重要です。また多くの宗教は、人間が所詮、生きていても、死んでからも、苦しい思いをすることになると教えています。すると生きていても死んでいても、大差がないと思えてくる。死が怖くなくなる。アホらしいなあと思いながら、死ぬことができる。 しかしこうした大げさなものは、用心されてしまうので、効果が薄いと思いました。私が注目したのは、特に中流感覚と言われるものです。 C.中流感覚 「うちは庶民なんだから大それたことを望まないの」とか、「天才でもないうちらが考えてもしょうがないじゃない」とか。 このように巧妙な形で、人の限界を知らせていけば、子供はあれこれと細かいことを考えることをやめ、大雑把にモノを考えるようになり、いずれ満足で、幸せな豚になることができるのではないでしょうか。もちろん、この豚はあとでおいしく頂きましょう。 §3.質問 §2Cについて、「満足な豚」を生産するためのストラテジーとして正しいか否かの意見を述べてください。また子育ての経験がある方は、それを思い返して、実際の効果のほどを教えてください。 【付記】これは遊びの問いです。 D氏とその探求に伴う実験もフィクションですので、悪しからずご了承ください。
- 哲学・倫理・宗教学
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質問者が選んだベストアンサー
こんばんわ、でぃーくべくさん。 おいらには家畜の気持ちは分からんし、 自分以外の人間の気持ちも分からんです。 いや自分の気持ちさえ分からんこともあります。 本当は悲しいかもしれないのに とりあえず怒ってみたりするからなあ、おいらは。 自分の気持ちも分からなくなることがあるのに、 他人や家畜が満足してるのかは、もっと分からん。 ときどき隣の芝の色を、おいらの主観で 青いなあとか青いなあ青いなあとか 思うことがなくもないけれど。 ___________ >良い悪いの判断をすること :正直めんどうくさいし、おいらには無理だな。 何も感じないというわけではないんだけど。 ああそうだ、「快・不快」とか「損・得」なんかは おいら動物だからよく感じるなあ。 >「不満足な人間」は失意のあまり、「満足な豚」になることができるのです。 :ちょっとぶっ飛びすぎなんぢゃないかなあ。 期待して絶望するのは痛いんだけど、 おいらは絶望の何が悪い?と思うね。 それに絶望できるのは希望があるからなんぢゃ? ___________ あと、「満足している」というのは 具体的にどのような状態をさすのか、 別の日本語をいくつか出して おいらのような頭の悪い人間にも分かるよう 説明してくださらんでしょうか。 (おいらが再び現れるかどうかは分かりません、 勝手ながらこのまま消えるかもしれませんが ご了承くださいませ。) 他の質問でもしゃべったのですが、 「楽(ラク)」を「満足」と捉え 「楽(たの)しくなる」のを放棄する人もいるでしょうし、 「楽しくなりたい」と言って バタバタしてては「満足」している人もいそうですし。 他質問ではおいらなんかの相手をしてくださり ありがとうございました。 他の方の良質な回答を楽しみにしています。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんばんは。 《遊び・フィクション》が どういう前提なのかにこだわらなければ わたしの回答は 単純でかんたんな答えひとつとそして例によって雲をつかむ話による答えひとつ これらのふたつになります。どちらも 質問の趣旨に沿っているか やや自信がありません。 《満足している》ということで言うとすれば 《まだなおおのれのゆく道の先を見て 現状に不満足であるとしても それまでにたどって来た道におけるその成果について――その内容がそのときどきの里程標として誇りうると見てよいと思われる限りで―― 満足している》ということが出来ると思います。 つまり 《不満足の人間》でありつつ 《満足した豚》でもあることが出来ます。 こういった単純でかんたんな答えになるのですが 趣旨がずれていましょうか。 あるいは もうひとつ思っていて つけ添えたいことは じっさいの問題として《不満足なる状態》というのは つねにその人間がこれを引き受けていて その《不満足に思える未達成の部分をも そのつど〈わたし〉がみづからの内面に飲み込んでいる》ものだという点です。 つまり 未来は わたしの現在のうちにすでにある。という点です。雲をつかむ議論です。 たとえば この《あゆみゆく道の先に見ていること(無限)と現状(有限性)との差異》をワタシなる人格が飲み込むのだという命題の文例です。: ▲ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~ 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(――もしくは《時間》――)の高さである。 (『法の哲学』〈§35追加。括弧内は引用者。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《人格》というと わたしにはむしろ語弊が生じるように思うので――道徳や倫理規範を議論しているというふうに誤解されるので―― 《わたしの時間の高さ》と言いかえました。 すなわち 最初の論点で《不満足な人間》と見たそのワタシの状態は すでに同時に《満足な豚》でもあると強引に言いたいと思います。 わづかにその強引さについておぎなわねばならないことは 《自然的なもの》は《この差異・この矛盾を持たないか我慢できない》と言っていて この自然的なものは ここでの議論として《豚》を意味するかも分からないことについてです。 《人格》という表現が むしろあいまいであると考え 《不満足な人間》は 《自然本性》にもとづくからには 《自然的なもの》をも含むと見直すなら だいじょうぶだと思うのですが どうでしょう? あとは 《無限》を持ち出して来ていること これは どうしようもありません。雲をつかむ話に属します。
お礼
こんばんは。遊びというのは、設定上、狂った研究をしているD氏という設定にしてみたからです。しかし本当に狂った人だという風に思われてしまったら、誰も回答はして来ないだろうし、実際、削除されてしまうでしょう。なので、最後の方にちょろっと断り書きを書いておいた。そんな感じです。 趣旨はもう一度説明しないとならないのかと思いました。この問いは満足な豚とはどのようなものか、とか、満足な豚と不満足な人間の関係性はどのようなものか、というものではありません。むしろより具体的なことを問うており、不満足な人間を、満足な豚に変える方法はどのようなものか、というものです。 この問いの趣旨は極めて退廃的であって、賢い人をいかにして馬鹿者にするか、と解釈してもらっても良いものです。実際、残念ながら、これまで寄せられた回答は問いに答えるものではなく、関連性のある話題を提出してくださったというものです。分かりにくいのか、答えようもないのか。まあ、そういう欠陥品なのかな、と思っています。さて、趣旨に照らして考えると、お答えは次のように解釈することができるでしょうか。 >つまり 《不満足の人間》でありつつ 《満足した豚》でもあることが出来ます。 当人が気がつけば、自己満足するというわけですねえ。いや、これは満足な豚ではありません。豚は不平不満を口にしてはならないからです。これは中途半端なやり方で、醜態をさらしている「不満足な人間」に過ぎません。あるいは不満足な人間でも、このように満足することができるのであって、両者の区分は自明のことではないという議論です。両癪の区分が自明ではない、実は同じ一人の人間が両面持っている。この発想は以下でさらに踏み固めるという風に読めました。 >未来は わたしの現在のうちにすでにある。 このように考えると、両者の区分は消滅するでしょう。つまり問いの前提条件が無意味、あるいは事実誤認から出発していると指摘したい。そのような話に思います。ここではそれは望んでいません。 というのも、そうであれば、人間の存在とは何かとまず問うべきだからであり、それは別の主題だからです。ぶらじゅろんぬさんの考える人間とは、そんなに単純に区分できるものじゃないよ、ということだと受け止めました。 さて、ここで、私はどうするべきか。ご回答は全然筋違いです、と答えることはできるでしょう。しかし落ち着いて考えてみれば、私自身が、まず、不満足な人間が豚に変化するはずだという仮説を提出している。つまりこれは、同じ人間が、人間でもあれば、豚にもなると言っているの同じことであって、実はぶらじゅろんぬさんの意見を前提的に認めていることになります。 では、それはそれとして、改めて「不満足な人間」になってしまった結果、袋小路に陥った人が、どうやって「満足な豚」という別の一面を取り戻すことができるのか?と問うことにしましょう。どうでしょうか。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
#2の者です。 >しかし「満足」とは精神的なもの それは「豚の」とつけられている事で、違いが生じます。 それが自由意志による即物的充足か、飼われて肥やされたものかによって、その精神的作用は大きく異なります。 もちろん、生理的に困難を生じるほどの欠乏は、精神的にもマイナスの作用がありますが、一応の生存を可能にする以上の、病気になるほどの飽食は、「精神的」にもプラスとは言い難いでしょう。 逆に言えば、「一応の生存が可能」な最低限の物質的充足さえあれば、それ以降の物質的豊かさの如何は、精神的充足の如何とは無関係だと言えるのです。
お礼
ありがとうございます。家畜である豚は飼われており、精神をもつはずがない。それが出発点であるからにして、彼らの満足とは、最低限の物質的充足のことを意味するはずだというわけですね。なるほど。 しかし、もう一歩、押し進めて考えたいところです。我々の大半が、サラリーマンであったり、年金受給者であったり、どこかに生活資金を供給されて、暮らしています。つまり家畜のように飼われています。しかし我々に精神性がないのか。いや、あるのではないでしょうか。 このように考えて行くと、豚=家畜=物質的満足という構図にこだわる必要はないと思うのですが。ともあれ、比喩としての射程が不明瞭というご指摘は、受け止めたいと思います。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
豚=物質的に充たされる事と、精神的に充たされる事が 一致しない所が問題。
お礼
ありがとうございます。しかし「満足」とは精神的なものです。物質的に充足していることは「満足」とは表現しないでしょう。だから問題は徹頭徹尾、精神的な問題だと思うのですが。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
Diecbecさん、こんばんはです。 徹底したリアリズムに基づいた老子的な考えに、近いものを感じてしまいました(笑)。 わたしなら、まず「不満足な人間」を相手にせず、徹底した愚民化・愚昧化策によって、圧倒的多数の「不満足な豚」を「満足した豚」にしますかね。 ──実はこれ、錯覚。現状の誤認── さらに、徹底的な情報統制によって、そのことに対して不都合な情報・知識を一切与えず、安上がりで、しかも、J.S.ミルのいう《低級な快楽》を与えつづければ、な~にチョロいもんですよ。 基本的に「豚」は自分の《狭い経験》の中でしかものを語れない、考えられないですから。しかも、欲求は、とりあえず満足させられていますので。 さらに、《自足》の思想を教え込む。余計なお金な物を持ていれば、誰かに盗まれるのではないか、と余計な心配をしなければいけない。そんな余計な気苦労を背負い込むくらいならば、食うに困るわけじゃなし、いまの生活を暮らしをエンジョイした方が賢明と教え込む。 も~、豚は自分の生活に満足するしかない。自分と近隣の豚の暮らしのことしか知らないですから。しかも、その暮らし向きは大差がない。ヨソに行こうという気も起こりはしない。あたかも、狭い豚小屋に閉じ込められた豚が、その生活に満足し、不満をいだかないようにです。 こうなれば、しめたもの。 不満足な人間は、世捨て人とになり山野に隠棲するか、《屈原》のように世をはかなんで湖に身を投げる以外の選択肢は残されていない。なにしろ豚はバカだから、不満足な人間の語る言葉を理解できませんので。 かくして、不満足な人間は、この世から一掃され、やがて、絶滅する。もしくは、不満足な人間は、これに屈して、豚になる意外ない。 なんていかがでしょう(笑)。 わたしも遊んでみました。
お礼
ありがとうございます。そうか、ちょろいもんですか。言われてみると、そうかもしれませんねえ。 しかし私の趣旨はちょっと違うのです。頭のいい人、不満足な人間になってしまった人を豚に変える方法を考えているのです。愚か者で、当初より豚な人をどうするか、ではないのです。実際、「不満足な人間」には、自称であるとしても、頻繁に出会う環境なのです。 ここには私も含まれています。ああ、私も豚になる方法はないものか。さらに突き進めれば、紅の豚で主人公が豚になったのと同じことになるでしょう(笑)。
補足
眠り猫というハンドルネームも、 ・眠っている=満足、 ・猫=家畜(ペット)、 というように捉えれば、満足な豚と接点があるように思うのですが、どう思われるでしょうか。 しかし猫様は、残念ながら、N様と違い、まだ満足な豚ではないようだとD氏が申しておりました。。。
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- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
お礼
ありがとうございます。ふーむ。失礼ながら、にゅーとらるさんはすでに「満足な豚」であるとD氏が申しておりました。 ・判断放棄、 ・絶望も厭わない、 ここら辺が決め手でしょうか。 >あと、「満足している」というのは具体的にどのような状態をさすのか なるほど。確かに質問文で定義されていませんね。不満足ではない、すなわち、とやかくと言わないこと、という程度です。これはもう少し考えようかと思います。探求1ですので、考察が進めば、探求2が始まるかもしれません。 ただし、述べてくださった二つのポイントは、重大な点であると思います。どうもありがとうございます。
補足
追記 ちなみに「満足な豚」であることは揶揄ではありません。私もそれを目指しているという趣旨ですので。むしろモデルが現れたと、喜んでいるところです。ご了承、下さい。