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経済に強い武士?

経済に強い武士は平清盛と坂本龍馬だけだと、某本にかいてありました。 どうでしょう? 経済に強い武士を上げてください。 何人かいるならランキングなんかもあればと。 あるいはその通りその二人しかいないのか。

  • lafin
  • お礼率26% (33/125)
  • 歴史
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  • ありがとう数0

みんなの回答

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.11

歴史研究の成果が、店先の本や教科書に反映されるのには、タイムラグがあります。 例えば、織田信長の「楽市楽座」だが、80年代後半に、 脇田修先生の研究から、 自由主義経済政策という説から 一種の経済統制策という説に移りつつあります。 その理由は、 (1)楽市は珍しい政策ではなく、一向宗の寺内町でも、よくある政策だった。当時は「大坂なみ」という表現が為されている。信長は、この「大坂なみ」を弾圧している。 (2)安土の楽市楽座令は、街道の封鎖などの流通の妨害も併用している。敵対勢力に対する経済の妨害に主眼があったようだ。 ☆さらに、前述したように、信長の「えり銭令」は畿内の銭取引をマヒさせています。しかも、銀鉱山を手に入れても、不思議なほど貨幣の発行に消極的。織田領内に、武田信玄の甲州一部金が出回っていたのに。織田信長の富強は、濃尾・伊勢・近江の平野・盆地の農業生産力に負った分が大きかったと思います。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.10

経済というものの本質を理解していたのは織田信長だったと思います。超理系脳でしたからね、信長は。 あとは意外にも上杉謙信も経済に明るかったようですね。あんだけ外征しまくっていたのにしっかり財産をたっぷり残していますからね。彼が長尾家代表になったときは「葬式代を出すにも苦労した」というほどお金には困っていたようです。 坂本龍馬は一応武士ってことになっているけど元は商人で実家も商家ですしね。太閤殿下も元は庶民の出身です。彼らは商売というものに肌で接して現場で叩き上げた人たちです。 武士階級にとって経済とは「けしからん」存在なんですよ。江戸時代のインテリ武士が商人に対してどう思っていたかというと、「自分たちはなにもしないで人が作ったものをあっちからこっちに動かすだけで上前をはねるような奴ら」なんです。ちょうど、今でいうと株取引なんかで金儲けをしている人たちを見るようなものです。現代でも「株を売ったり買ったりしているだけでお金を得るなんて、ちゃんと働いてないじゃないか」っていう意見の人は少なくないですよね。それみたいなもんです。 だから、江戸時代には法人税はありませんでした。なぜなかったのかというと、もし法人税みたいな税金をとったら「商売というものを公式に認め、幕府がその恩恵を受ける」ことになりますからね。 あともうひとつ。 海外はどうだか分からないけど、日本の歴史研究の分野にいる人で、経済に明るい人はほぼ皆無です。経済研究の分野で歴史が好きって人はちょいちょいいますけどね。 ある作家が小説にするために江戸時代の幕府の経済政策について調べたんですね。論文を調べればそういうのが出てくるだろうと思ったら、江戸幕府の経済政策について研究したものが見当たらない。専門家に取材に行くとぜんぜん知らなかったらしいんです。んでその作家がしょうがなく自分で調べて本にしたら、その人が江戸時代の経済学の第一人者になってしまったというオチがあります。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.9

lafin さん、おはようございます。 徳川吉宗はどうでしょうか?享保の改革で江戸時代の税制の基本であった米価の調節に努め、上米の制、定免法、新田開発などの米政策を実行したことによって米将軍言われました。 詳しくはこのURLを参照してください。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

  • shin1417
  • ベストアンサー率27% (199/721)
回答No.8

「遠山の金さん」こと、江戸町奉行・遠山金四郎景元でしょう。 どうして遠山金四郎景元が「遠山の金さん」として時代劇の主人公になったかといえば、江戸の町の景気を良くして江戸庶民から非常に評判の良い御奉行様だったからですよ。 景気対策で評判が良かったじゃ時代劇の主人公になりませんから、話を面白おかしくするために「おうおうおうっ、この桜吹雪の刺青が・・・・」っていうのを後から勝手に付け加えたんですよ。 あとっ、遠山金四郎景元は若い時には、本当にチンピラだったという変わった経歴も時代劇の主人公としては打って付けだったというのもあります。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.7

hekiyu氏> 天保の改革は水野忠邦。田沼じゃないですよ。 さらに、今日の作家による田沼の再評価は、行きすぎていると思います。 よく、「重商主義」という言葉を誤用して田沼を評価してたり、 年貢の銭納の増加という史実を無視してたりで。 さて、本論。 意外にも一番は徳川家康。 日本には、独自の通貨は、家康以前にはありませんでした。 朝廷の作った貨幣は流通しなかったし、以降は、中国からの輸入した銭を使用していました。 しかし、この銭の輸入も滞り、 さらに、織田信長の「えり銭令」は、畿内の銭による取引を低下させました。 家康と、その後継者およびその家臣たちが、日本ではじめて国産通貨が普通に流通する社会を築きました。これは大きい。 二番は、太閤検地により、自作農が家を持つ社会を普通にし始めた豊臣秀吉でしょう。 それ以前は、地主に近い者と、その従属民でしたから。 この二人に比べれば、平清盛や坂本龍馬は、金儲けがうまかっただけ。 いつの時代にもいますよ。そんな人は。

noname#229784
noname#229784
回答No.6

上杉謙信(金貸し) 織田信長(楽市楽座) 石田三成   戦国武将って戦闘だけでなく、経済に強くないと生き残れないのではないでしょうか。 岩崎弥太郎  タイプが違うのでランキング難しそう

noname#204885
noname#204885
回答No.5

荻原重秀を忘れてほしくないですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E5%8E%9F%E9%87%8D%E7%A7%80 世界で初めて、「信用貨幣」と言う考え方を財政政策に取り入れた人です。 貨幣改鋳を新井白石に徹底的に批判されたため、長らく悪役扱いでしたが、近年急速に再評価が進んでいます。

  • toshineko
  • ベストアンサー率44% (258/575)
回答No.4

No.1は太閤さんじゃなかろうか。

参考URL:
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume018.html
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.3

田沼意次が挙げられます。 彼は、当時米中心の経済を、貨幣中心に 変えようとしました。 天保の改革です。 米中心では、大量生産すれば米の価格が下がり 財政改革にならないことを知っていました。 だから、米中心の経済体制を、貨幣中心に 切り替えようとしましたが、時期尚早というか、 周りの理解を得られず、失脚しました。 天保の改革は失敗しましたが、当時、貨幣に 目を付けたのは革新的でした。

回答No.2

北条氏康…泣

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