日本人のコミュニケーションを疑った

このQ&Aのポイント
  • 日本人のコミュニケーションについて疑問を感じた経験について語る。
  • アメリカ社会での積極的なコミュニケーションと日本人のドラマ視聴の関係について考える。
  • 日本人とのコミュニケーションには衝突や摩擦がつきものであり、その力を発揮することが重要であると述べる。
回答を見る
  • ベストアンサー

日本人の<コミュニケーション>を疑った

わたしがアメリカの大学に通っていたとき,ある日本人の留学生に出会いました。彼女はたびたび,「日本のドラマ」などを観ていましたが,その理由が,「日本人と話題を合わせるため」だったことに,わたしは「ショック」を受けました。 おそらくは,彼女にも「彼女の話題」があったのだと思います。それにもかかわらず,わざわざビデオショップに足を運び,「日本のドラマ」を観ていることに,わたしは「違和感」を感じました。すると,どうやら,ほかの日本人の学生のみならず,周辺の地域に住んでいる日本人のなかにも,そのような「傾向」があることがわかりました。 アメリカに住んでいるのですから,積極的にアメリカ社会と「接触」すべきだと,わたしはそのように考えていました。わたし自身は,アジア系アメリカ人の歴史を勉強していたこともあって,日系人の人々とよく些細な話をしたり,インタビューをよくやったものです。一緒に教会に行って,礼拝のあとに一緒に昼食をとることもしばしばありました。気がついたら,わたしはアメリカに住んでいたとき,多くの時間を「日本人以外」の日系人,アジア系,ヨーロッパ系など,さまざまな人々とともに生活をしていました。わたし自身,それは「正しい選択」であったと考えています。 日系人のみならず,アメリカ社会では,「自分のトピック」を持つことが大切です。それは,日本人のひとりひとりにも,あるものだと,わたしはそのように考えています。それは,いわゆる「自分自身」のアイデンティティをつくることでもあります。 コミュニケーション,あるいは,「対話」とは,ひとりひとりの「アイデンティティ」の「違い」を認めつつ,お互いが「理解しあえる部分」を見出す「作業」のひとつであると,わたしは考えます。アメリカ社会の影響もあって,わたしは日本人にも,そのような「傾向」があることを「期待」していましたが,日本人の多くが,「観ているドラマ」などで「話題をつくっている」ということに気がついたため,すごく「失望」してしまったことを,今でもよく覚えています。(後日,「指で数えるほどの人々」ではありましたが,そうでない日本人がいたことに,「感動」しました。)日本人には,「和して同ぜず」という教訓があることを,わたしは知っていましたが,どうやら日本人の多くは,「和して同ぜず」ではなく,「和して,同ずる」という,「誤解」をしていることは,わたし自身にとっては,とても残念なことでした。 日本人だって,他者との積極的なコミュニケーション,「対話」をのぞんでいると,わたしは考えています。しかしながら,その過程において発生するだろう「衝突」,あるいは「摩擦」を避けていると,わたしは考えます。コミュニケーション,「対話」には,それらは「必ずついてくるもの」です。日本社会だろうが,アメリカ社会だろうが,かならず,「衝突」,「摩擦」が起こります。しかしながら,そういったものを「乗りこえる」ための「力」を,日本人は真に発揮していないものと,わたしは考えます。そのような「能力」を発揮させない一方で,まるでコミュニケーションを「放棄」したかのように,いわゆる「行動する保守」の組織の活動が非常に活発なものになっているのが,いまの日本社会の<現状>であると,わたしは考えます。 皆さんは,他者とのあいだに,どのような「対話」,コミュニケーションの「経験」がありますか?これは,「恋愛」にも直接関係しているものと,わたしは考えます。たとえば,あなたはパートナーとのあいだに,どのような「対話」を実践していますか?

noname#181693
noname#181693

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • yannnonn
  • ベストアンサー率25% (5/20)
回答No.2

日本はアメリカと違い、自分の主張だけ言えば通る社会ではありません。 人の話を聞いて、自分の主張だけ反発すると、周りから疎まれます。 (自分の意見しか通らない人、人の意見を聞かない人と) もちろん社会では、たくさんのアイデア出して自分の意見で成功する人もたくさんいますが、日本には上下関係があり、先輩に反発などありえないです。生意気なやつと、言われてはぶられます。 友達関係も、同様、主張ばかりでは我侭な人ってなります。 他人に同調するのもあり、他人が興味ありそうな事を知って、話題をふり、そこから仲良くなろうとしていたのでは? 衝突を避けているのではなく、相手の興味あることを知ろうと(ある意味勉強)しているのです。 と、私は思います。 留学先の日本人の方が、アメリカで将来暮らされる予定なら、質問者様の意見のアメリカ文化を学んだ方が良いかも知れませんが、日本に帰ってきて暮らすなら、問題はないと思います。 恋人の趣味と自分の趣味が違っていても、少しでも話題が合うように自分も興味持ってみようとか、恋人が好きなドラマ見てみようとか思いませんか? それによって自分の世界観も変わるかもしれません。 その留学生も、話を合わせるためだけに見ているのではないと思います。 自分は野球興味ないですが、旦那が野球好きで、なんとなく見て、野球を通して会話します。 別に苦痛ではないです。旦那も変わりに私が好きなドラマ見て、ドラマについて話したりします。 もちろん、TVの話題が全てではありませんよ!ちゃんと、仕事の話や自分の話題もありますよ。 話のネタの一つとして。 文化の違いもありますので、失礼申し上げてましたらすみません。

noname#181693
質問者

お礼

実例を含めた具体的な回答,ありがとうございます。 回答者さんは,配偶者の方とのコミュニケーションのために,野球に興味を持つようになったとおっしゃっていますが,それもひとつのコミュニケーションのあり方であると,わたしはそのように理解をしています。お互い,「引く,押す」の関係があることは,健全な人間関係においては,良いことだと,わたしは考えます。 そういったことが現在の日本社会のなかで実践されていないのではと,そのようなことを「懸念」したため,このような質問文を出しました。重ねて,回答ありがとうございました。

その他の回答 (4)

回答No.5

あなたは最初の回答者さんに「質問の主旨を理解して回答しろ」と言っていますが、単にコミュニケーションの「経験」、対話の「実践」についてたずねたいのなら、最後の数行だけでいいのでは? 僕もあなたが日本人を批判しているように感じました。 あなたが長々と日本人に失望したとか、アメリカ社会ではこうだとか、自分の価値観を押しつけるようなことを書くからわかりにくいのだと思います。 僕は日本人だろうがアメリカ人だろうが、誰かと接するとき、最初に相手を否定することはしません。 一方がそういう態度では、互いに信頼関係を築けないからです。 意見が違った場合「こうあるべきだ」と主張するのではなく「自分とは違う考え方もあるのだ」と、まずは相手を受け入れる。 そうして距離を縮めています。

noname#181693
質問者

お礼

具体的な考えを提示した回答,ありがとうございます。 回答者さんは,いわゆる「引く」のメンタリティを持っているものと,わたしは考えます。それは,日本社会に特化した,典型的なコミュニケーションのあり方でもあると,わたしは考えます。 日本人同士,あるいは,日本社会のなかにおいては,そのようなコミュニケーションが,最も好ましいとされるでしょう。 それでは,回答者さん自身は,どのような「異文化理解」,「異文化コミュニケーション」の経験があったのでしょうか?おそらくは,さまざまな経験があったのだと思います。そういった,異文化理解・異文化コミュニケーションの「経験」と,日本社会における,あるいは,日本人とのコミュニケーションの経験との「比較」をされたことがありますか?そういったことから,さまざまな異文化の姿のみならず,「日本人像」が理解できると,わたしはそのように考えます。

noname#208392
noname#208392
回答No.4

教えて!gooは質問と回答を行う場です。 (...) 自分の考えを主張するための投稿をすると、Q&A形式ではなくなってしまうかもしれません。(...) http://oshiete.goo.ne.jp/ask/guide/netiquette/question.html

noname#181693
質問者

補足

これは,質問文です。 あくまでも,回答しやすくするために,いわゆる「アネクドート」の部分を含めているため,主義主張のように見えるだけです。

  • e_177
  • ベストアンサー率14% (27/186)
回答No.3

それをここで聞いてるあなたもおかしい

noname#181693
質問者

補足

あなたが主張したところの「おかしい」とはどういうことでしょうか? うっぷん晴らし,または,不満をぶつけるような場ではありません。 「おかしい」のならば,どのような部分が「おかしい」のか,それを具体的に示す必要があります。

  • mathammy
  • ベストアンサー率30% (336/1097)
回答No.1

共感することにたけているのかも、 アメリカの格差社会は異常ですよね。日本ではあり得ないとおもいます。 アメリカが好きならそちらで暮らせば良いのです。 いいとこ、わるいとこあってあたりまえ。

noname#181693
質問者

補足

わたしが質問文を出してから,数分後に回答文を出されましたが,質問文をしっかりと読みましたか? 回答してくださったのはありがたいのですが,回答文になっていません。 コミュニケーションの「経験」について質問をしたのであって,日本社会とアメリカ社会の「比較」をしているわけではありません。 あなたは,この質問文を「単なる日本<批判>・日本<非難>」の一種であると,そのように受けとめているでしょう。さらには,「アメリカで暮らせばよい」などと書いていますが,そのような,いわゆる「島国根性的なもの,島国メンタリティ」は,今回の質問文とは関係のないものです。 回答をされたいのであれば,質問文をよくご覧になって,趣旨を理解されてから回答をおねがいします。

関連するQ&A

  • 「日本が好き」を伝えるために

    「物は言い様」という言葉があります。わたし自身はマイノリティの立場ではありますが,日本のことが「大好き」です。 それにかんして,どのような「表現」(言葉の使い方なり,選び方)であれば,その「思い」が肯定的なもの,ポジティヴなものとして,他者によって受けとめられるのでしょうか? 参考までに: わたしは台湾系日本人です。長いあいだ日本社会のなかで生活をしていますが,日本社会という,「単一民族」とうたわれた社会において,みずからの「台湾のアイデンティティ」と,「日本のアイデンティティ」の双方と「対話」をしながら,生活をしてきました。 台湾系日本人という,「特殊な立場」ではありますが,わたし自身は,日本にたいしては「特別な思い」をもっています。その「特別な思い」を,日本社会におけるマジョリティである,いわゆる純日本人とされる人々に「伝える」ことが,ここ最近の排外主義的な社会風潮や,ヘイトスピーチの問題などがあったことから,「非常に難しい作業」であると,わたしは思うようになりました。 「日本がとても好きです! 日本人の味方です!」と主張したとしても,「親がガイジンの,“準日本人”という“身分”で,そんなはずはないだろう,口先だけで,“心は外国”なんだろ? 日本がどっかの国と戦争になったら,まっさきに日本から逃げるだろう?」,などと思われることが十分に考えられます。それが,たとえ,日系人という,日本人とおなじエスニシティを分かちあった人々の歴史に向きあってきた「わたし自身」であっても,「しょせんはどこの馬の骨だかわからないガイジンの子供,日本のことをわかろうともしないし,わかってもくれない,日本のことは純日本人にしかわからない!」,と「一蹴」されてしまうだろうと,わたしは考えています。 「半分しか日本人じゃないけれど,いわゆる純日本人よりも,日本のことが好き。」 このような言葉は,少々「攻撃的」なのかもしれません。では,「日本のことも,台湾のことも,色々と知っているけれど,序列がつけられるものではないけれども,わたしにとって日本はかけがえのない存在です」,と主張したところで,それが日本にたいする「特別な思い」として,いわゆる純日本人とされる人々は,それをポジティヴなものとして受けとめるのでしょうか? あるいは,「単なるリップサービス」として認識するのでしょうか?

  • 多様化した日本社会におけるコミュニケーションとは?

    「多様化」した日本社会における,コミュニケーションの「あり方」 1990年代より,日本社会は急速な多様化の時代に突入しました。 労働力の確保として来日した外国出身者,日本人配偶者として来日した外国出身者,さらには,彼ら彼女らの子供たちである,外国につながる子供たち,また,難民として受けいれた人々など,日本社会にはさまざまな「バックグラウンド」をもつ人々がいます。 さらには,それまでに日本社会のなかにおいて可視化されなかった「多様性」についても,しだいに理解がされるようになりました。たとえば,同和地区出身者,同和地区につながりをもつ人々,アイヌ,沖縄出身者,沖縄につながりをもつ人々,障碍者,ホームレス,ハンセン病患者,エイズ患者,おたく,ニートなど,「内なる多様性」が再評価されるようになりました。 日本社会は「単一民族の社会」ではなく,「同質性の社会」でもなく,そして,「均質性の社会」ではありません。ひとりひとりが,「違っている」こと,さらには,「違っている」ひとりひとりが,「“WA”になって踊ること」のできる<社会>こそ,これからの日本社会において必要とされている,目指すべき社会像であると,わたしは考えます。 「多様化」した日本社会においては,そのコミュニケーションの「あり方」が,たびたび問われています。ひとりひとりの「多様性」が「尊重」されることの重要さが強調される一方で,日本社会における<多様性>とは,「上っ面だけの<多様性>であり,社会の構成員にたいしては,“同化が強制”される」ことも指摘されています。(たとえば,テッサ・モリス‐スズキらによる日本批判。) 皆さんにとって,「多様化」した日本社会における,コミュニケーションの「あり方」とは,どのようなものでしょうか? わたし自身は,ひとりの「外国につながる日本人」という立場から,「ホンネ」と「タテマエ」に頼らない<コミュニケーション>の「可能性」を問うことが,いまの日本社会にとって必要であると考えます。

  • マイノリティの問題解決に向けて

    ひとりの台湾系日本人として,わたしは日本社会に存在するマイノリティの「問題」に向きあってきました。 マイノリティの「問題」を解決するにあたり,わたし自身が考えたことは,マイノリティ自身の,うそ,いつわりのない,「ほんとうの心の内」を明かすことが解決法のひとつであると,わたしは考えるようになりました。 「ほんとうの心の内」を明かすことで,マイノリティの人々が「日本人と共に歩みたい」,「日本人と同じ価値観を分かちあっている」,「日本をまもりたい」,「日本の将来のために,何かをしたい」,「日本社会のなかで受けいれられたい」,「日本人から認められたい」などの「特別な気持ち」があることを,多くの人々が理解できるはずです。 「ホンネ」で語ることが,マイノリティの問題解決につながるのでしょうか? 参考までに: わたしは台湾系日本人で,日本教育を受けた経験があり,日本語でコミュニケーションをすることが可能です。 それと同時に,わたしは台湾にたいする「特別な思い」があります。わたしは,「台湾は東アジアに存在する国民国家のひとつ」であると考えています。台湾の将来については,「危惧」することがいくつかありますので,「台湾という国民国家がなくなってほしくない」という「特別な思い」があります。 台湾への「特別な思い」を強調することが多々ありますが,わたしはそれと同時に日系人の歴史に向きあい,日系人との「対話」に取りくんでいます。 歴史を学ぶことは小さい頃から好きなことではありましたが,滞米生活を機に日系人の歴史に向きあうようになりました。 (言葉は悪いのですが)「半分しか日本人でないわたし」が日系人を歴史に向きあったのですが,そこには「もうひとつの理由」がありました。それは,わたしがみずからの「日本のアイデンティティ」に真摯に向きあっていることを,日本人に「証明」したいという「強い気持ち」です。 多くのマイノリティにとっては,日本ににたいする「(良いイメージの)特別な思い」があると,わたしは考えています。それを,マジョリティが理解すること,さらには,マイノリティ側の人々がそれを「説明」することが,いまの日本社会には必要だと思います。 マイノリティだって,「皆と仲良くなりたい」と思っているのです。

  • アイデンティティを「伏せる」ことが強要される日本

    わたし自身は外国につながりをもつ日本人ですが、多くの日本人は、「外国につながりをもつ日本人のアイデンティティ」を、どのように受けとめているのでしょうか。 (1) 外国につながりがあっても、日本のアイデンティティも分かちあっているのだから、日本のアイデンティティを「最重要視」あるいは「最優先」してほしい。 (2) 外国のアイデンティティと、日本のアイデンティティ、これらを「両立」できるようにしてほしい。日本と当該国の友好のために、何らかの「貢献」をしてほしい。 (3) 少なくとも、日本社会で生活をしている限りは、外国のアイデンティティを表向きにしてほしくない。日本のアイデンティティにのみ向きあってほしい。 (4) 日本社会で生活をしているわけだから、外国のアイデンティティと向きあうべきではない。完全に日本社会に「同化」することが望ましい。 (5) その他 先日、ある地方公共団体の市会議員が、このようなことをインターネット(ツイッター)をとおして主張しました。 “日本という一つの国で同じ教育を受け、同じ言葉、同じ法制度で生活する中で アイヌであることをわざわざ証明する必要もないのが現状です。” わたし自身は外国につながる日本人であり、アイヌではありません。 しかしながら、外国につながる立場から、このようなコメントは、外国につながる人々の尊厳を著しく傷つけるものであると、受けとめています。 “日本という一つの国で同じ教育を受け” たとえば、この部分については、わたし自身は日本教育を受けた経験があり、そこでは管理教育とう名の「同化の強制」が存在しました。わたし自身、みずからの日本教育時代は、教育そのものが嫌だったことや、心無い日本人からの嫌がらせ、イジメ行為に耐える日々でした。外国につながりをもつ立場の人々のなかには、日本の教育制度、日本の社会制度に「疑問」をもち、それらを批判する人々は少なくありません。多くの日本人が考えているほど、日本社会、さらには、日本の教育制度は、いまだに多様性の包摂という点において、さまざまな問題をかかえています。 “アイヌであることをわざわざ証明する必要もない” この市会議員のコメントは、アイヌにたいする「不理解」のあらわれだと、解釈することができると思います。そして、このようなコメントは、外国につながりをもつ人々にたいしても、当てはまるものではないでしょうか。“わざわざ証明する必要もない”という言葉から、アイヌの人々のみならず、外国につながる人々にたいしても、みずからのアイデンティティについては、それを証明すること―たとえば、具体的にはそれについて語ること―を控えるべき、してはならないというのが、この市会議員の「ホンネ」なのかもしれません。 わたし自身は、「半分しか日本人」という立場です。どんなに頑張っても、「ガイジンの血」がはいっている以上、「半分しか日本人」です。それでも、ほかの、大多数の日本人以上に、日本のことを学び、日本社会のなかで受けいれられるための「努力」を積み重ねています。アイヌの人々についても、同様のことがいえると思います。 さらには、「半分しか日本人」という立場ですから、残りの半分は、外国のアイデンティティです。日本のことを、外と内から、客観的にみることができます。そういった「アドバンテージ」があるので、日本のこと、日本人について、さまざまなことを学ぶことができました。そして、日本について学べば学ぶほど、日本にたいして「特別な思いいれ」をもつようにもなりました。わたしなりに、「愛日」という言葉で、このことを説明しています。(愛国ではなく、日本のアイデンティティを大切にするという意味の「愛日」です。)きっと、多くの日本人からみると、わたしは、ある種の「知日的存在」にみえるのかもしれません。 今回の、この市会議員の「失言」は、外国につながりをもつ立場からすると、みずからのアイデンティティの「否定」につながりかねない、極めて危険な発言だと、受けとめています。 わたし自身は、外国のアイデンティティを分かちあいながらも、日本のアイデンティティを大切にしています。この市会議員は、わたしのような存在のことを、あまり理解していないのだと思います。

  • 「話しかけにくい人」から脱却するためには

    ・いわゆる「話しかけにくい人」の特徴 「話しかけにくい人」から脱却して,「話しかけても,会話ができそうな人」になるためには,どのようなことが必要なのでしょうか? そのためには,たとえば,「聞くことに徹する」役に専念すべきなのでしょうか? わたし自身は,多くの人々からみれば,「話しかけにくい人」なのかもしれません。 わたし自身が「人嫌い」だからというわけではありません。絶対に。 基本的に,わたしは人好きです。 「話しかけにくい人」とされている理由は,わたし自身の個人的な関心事,個人的な好み,そして,興味をもつ話題など,そういったものが,「同じ世代の人々と異なる」からです。 ・「話題は豊富」だけど,「同世代の人々と話せない。」 別に,同世代の人々に関心がない,というわけではありません。わたし自身にとっては,同世代の人々は,他人と「合わす」ために,無理やり自分自身を「改造(実際には,いわゆる“魔改造”といってもいいのかもしれません…)」しているようにみえるのです。ひとりひとりが,おのおのの「話題」なり「人生のテーマ」があるのですから,それらについて語りあえることこそ,人々にとって大切なことであると思います。「表面的なもの」でしかコミュニケーションがとれないことは,非常に残念なことです。何かしら,「内容の濃いもの」,あるいは「<コク>のあるもの」を,多くの人々が求めているにもかかわらず。 ・「学校で学ぶもの,教わるもの」が好き たとえば,わたし自身が関心をもっていることは,日系人の歴史(「99年の愛」というドラマがありました),17世紀のバージニアの歴史(「ポカホンタス」という映画がありました),アメリカのアジア系の人々の歴史,口述で過去の歴史と向きあうオーラル・ヒストリー(日本では主に戦争体験や,同和問題に関連したものがおこなわれました),東洋哲学(儒教と日本社会,など)や社会心理学(アッシュの実験,ミルグラムの実験,ジンバルドの実験,カルト宗教,など)にかんすることなど,さらには,わたし自身が台湾系日本人であることから,日本社会の多様性(いわゆる,多文化共生にかんするトピック)など,どちらかというと,いわゆる「学校で教わるもの,学校で勉強するようなもの」がとくに多いです。 また,クラシック音楽にかんする知識も,いろいろともっていると思います。ピアノを弾くこともあるので,ピアノにかんするトピックもOKです。そのほかには,鉄道や飛行機といった,乗り物の知識も,少しばかりあります。 それ以外のトピック,たとえば,テレビで放送されているドラマ,夜のラジオ番組,漫画雑誌に連載されている作品,芸能人にかんする話題などについては,そういったものにも関心はあるものの,ひとつひとつの内容にたいして,わたし自身詳しいわけではありませんし,そのような話題だけで誰かとずっと話をすることが出来るかといえば,それは難しいことです。

  • 純日本人にこだわる「理由」とは?

    いまの日本社会において、社会の構成員であるための条件として、いわゆる純日本人であることを強調する人々がいますが、そのメリットには、どのようなものが挙げられますか? ここ最近になって、純日本人という言葉を使う日本人が増えてきました。両親ともに、日本生まれで、日本育ち、日本国籍であり、外国との「つながり」が一切ない(と自負、あるいは確信)ことが主な条件であるとされます。 ひとりの外国に「つながり」をもつ日本人として、純日本人という考え方や、それを強調する人々にたいしては、つねに疑問をもっています。わたし自身は、異質な存在ではありますが、日本語を母語とし、日本の歴史を学び、日本事情を深く理解し、日本社会にたいしては「特別な思い」をもっています。それは、わたし以外の、非常に多くの外国出身者や、外国に「つながり」をもつ人々にとっても、同じことです。 外国に「つながり」があることは事実ですが、日本のアイデンティティを受けついでいることも、事実です。日本のアイデンティティを受けついでいることが正当に評価されずに、異質であることを理由に、差別や偏見、イジメのターゲットにされるということは、あってはなりません。

  • 日本が嫌いな人間の「正体」とは,日本人!?

    日本人のアイデンティティを分かちあっている人々が,みずからのアイデンティティに「向きあう」ことはありますか? 参考までに: 「半分しか日本人じゃないけど,それでも,わたしは日本人。」 日本教育時代,わたしは,強く意識することはなかったけれども,「日本」というものが,わたしのなかに宿っていることを,知っていました。 台湾系日本人という,特殊なバックグラウンドをもっていることから,わたし自身は,家庭というバイカルチャーの空間と,日本社会(たとえば,日本教育などに代表される)という,モノカルチャーの空間を,行き来するための「術」というものを,身につけなければなりませんでした。わたしなりの,「ショセイジュツ」のようなものでもありました。 そして,幸運にも,アメリカで教育を受けるチャンスにめぐまれ,アメリカ時代を経て,みずからの台湾と,日本のアイデンティティを肯定的に受けとめることができました。日本教育時代,わたしは,正直なところ,みずからの日本のアイデンティティを歓迎したくなかった時期がありました。それは,日本が悪いとかではなく,日本社会の閉鎖性というものの影響もあったのですが,大きな問題としては,当時の日本教育が,いわゆる「管理教育的な空気」であったからです。こういった,「特殊な空気」によって,「日本を嫌いになる日本人」がつくられるのではないかと,そのようにおもったときもありました。 日本事情について論じるにあたっては,「日本が嫌いな日本人」という「面白い考え方」があります。日本社会には,いろいろな理由があって,「日本」が嫌いで,「日本」を貶めたい,そのようなものの見方をする日本人がいる,という主張です。そういった主張がされるたびに,なぜか,外国につながる人々や,外国出身者が,「スケープゴート」にされます。ひとりの台湾系日本人として,外国につながりをもつ日本人として,みずからの民族的出自を理由に,「スケープゴート」にされることは,許しがたいことです。 「日本が嫌いな日本人」という「面白い考え方」について考えるとき,わたしは,これまでの日本の社会制度や,日本社会における人間関係のあり方にこそ,「問題」なり「病巣」があると考えます。外国出身者とか,外国につながりをもつ人々のせいで,日本社会がおかしくなったのではなく,日本人の「心の構造」にこそ,「日本が貶められているという言説」にかんする「ヒント」があると,わたしはおもいます。 わたし自身は,「半分しか日本人」ではないけれども,日本は好きです。そして,「日本が嫌いな日本人」をみるたびに,不思議に思うことは,「みずからの首を絞めるのが大好きな日本人」という,「異常な姿」です。これについては,日本社会の「問題」とは,その原因というものが,「みずからの首を絞めるのが大好きな日本人」という,「日本人の問題」がその根幹にあると,わたしはおもいます。 ある著名な作家が,“「反日」日本人”,という「興味深い考え方」を紹介しましたが,このような「問題」については,外国がどうのこうの…,ではなく,「日本人が日本人(日本)と向きあっているか否か?」こそ,大きな「ヒント」であると,わたしはおもいます。 わたし自身は,「半分しか日本人」ではないけれども,このような,「ゆがんだ精神性」を日本人がもっていることについては,「とても残念なこと」です。

  • 日本人の「悪しきメンタリティ」

    日本人は,いつになったら,「わかっちゃいるけどやめられない」から「脱却」できるのでしょうか? ***** 「わかっちゃいるけどやめられない」 これは,ある流行歌の歌詞の一部です。多くの日本人にとって,これは,「流行歌の歌詞の一部」であると認識されています。しかしながら,この歌詞にある言葉こそ,日本人の「悪しきメンタリティ」を表していると,わたしはおもいます。 たとえば,いまの日本社会においては,社会構造の変化によって,経済構造や社会保障制度などの「改革」がさけばれています。そういった「改革」が,遅々として進まず,多くの人々が,「改革」の必要性を理解しながらも,現状の維持に「しがみついている」姿は,日本人の非常に醜い姿です。 このような言葉からうかがえることは,ある著名な作家が指摘したように,タテマエ(わかっちゃいる)とホンネ(やめられない)という,日本人の悪しきメンタリティです。 わたし自身は,外国につながりをもつ日本人です。そのようなバックグラウンドがあるので,わたし自身は,みずからの日本のアイデンティティと,深く向きあっています。日本人にたいする深い愛情がある一方で,このような悪しきメンタリティから「脱却」できないことにたいしては,日本人にたいする「強い不信感」をいだいています。

  • 日本社会が求めている「絆」の「本質」が知りたい

    質問: 現在の日本社会においては「絆」の大切さがさけばれていますが,その一方で「キャラ化する人間関係」に代表される,「絆」とは大きく異なる,「上っ面だけのつながり」が指摘されています。 ほんとうに日本社会に活きる人々は「絆」を必要としているのでしょうか?ペシミスティックな考え方ではありますが,じつは現代日本社会においては「絆」を必要としない社会になってしまったのだと考えるときがあります。 *質問文はここまでになります* 以下,質問を考えるための「ヒント」を,いくつか提示します。 (1) 「絆」の定義 ここでいう「絆」とは,「信頼関係で結ばれた人間関係」のことを指します。そして,ここでいう「信頼関係」とは,いくつかの「リスク」を克服することによって構築されたものであるとします。 (2) 「他者の理解」 「絆」が重要視されていない社会においては,「他者の理解」が不必要となる可能性があります。なぜならば,「他者の理解」は「絆」をつくるうえで重要な要素になるからです。「他者」を「理解」すること,「他者」とのあいだに「分かちあえるもの」を見つけることによって,「人間関係」がつくられはじめ,いくつかの「ハードル」を克服することによって,それは「絆」に発展すると,わたしは考えます。 (3) 「便利な社会」の一方で… 産業や経済の発展により,多くの人間(とくに,経済先進国等においては)にとっては,日々の生活が過去のそれと比較すると,大変便利なものになりました。「便利な社会」は一見すると,理想のようなものではありますが,「便利が過ぎること」によって,「他者の存在」が無視されることがあります。 たとえば,日本全国津々浦々に小売店が存在しますが,そのなかには24時間営業のものも少なくはなく,「店に行けば何か買える」,「誰かに物事を頼む必要などない」状態をつくる一因となります。 日本社会において「他者の理解」がおろそかにされつつある理由のひとつには,このような「便利な社会」の「弊害」があると,わたしは考えます。 (4) 「異質性の排除」 いわゆる「行動する保守」の活動が報道されるようになりましたが,これらの組織の活動において重要とされることは,「いかなる異質性を排除する」ことにあると,わたしは考えます。「異質性の排除」とは,「他者の排除」でもあります。「他者」を「排除」することは,「他者の理解」の対極の行為であり,そのような風潮が現在の日本社会において浸透しつつあることは,「他者の理解」がもはや日本においては「不必要」であることの「証左」であると,わたしは考えます。「タテマエ」では「絆」と主張しつつ,その「ホンネ」とは,「異質性」をひとつ残らず社会から叩き出すことを「正義」であると勘違いしてしまっているのが,ペシミステイックなものではありますが,「日本社会の現状」であると,わたしは考えます。 *異質性の排除においては,「ホームレスにたいする暴行事件」がその顕著な例です。たとえば,関東地方のある都市で起こったホームレス暴行事件では,暴行をした容疑者たちが,ホームレスを社会から排除することは「社会正義」にかなっているという「主張」をしました。 (5) 「拝金主義のようなもの」との関連性 「婚活」,「恋活」,「合コン」,さらには,「街コン」,「女子会」,「オフ会」,「カップリング・パーティー」など,日本社会においては「絆」をつくるための「チャンス」がたくさんあるとされます。インターネットの質問掲示板等においては,「出会いがないので困っています」などという質問をよく見かけますが,それにたいする回答は「出会いなどどこにでもある」といったものが多数を占めます。 上に挙げた「チャンス」のなかには,「ほんとうの出会い」につながるものも,あるのかもしれません。しかしながら,上に挙げたものの「本質」,「資本主義の一部」であって,「拝金主義のようなもの」でもあります。たとえば,「女子会」を例にすると,女性同士の「アクインタス」をつくるということであれば,何らかの「効果」はあるのでしょう。しかしながら,その現実は「女性に飲食店でお金を少しでも多く落としてもらいたい」ということだと,わたしは考えます。「婚活」,さらには,「カップリング・パーティー」もそうです。これらは「商売の一環」であり,「絆」をつくるためのものではないと,わたしは考えます。 (6) 東日本大震災による影響 東日本大震災によって,日本社会には「絆」の大切さが,さまざまな方向性をもったかたちではありますが,再認識されるようになりました。たとえば,先の震災を「社会の危機」として受けとめ,友人のみならず,近隣に住む人々との「絆」を再評価した人々がいましたが,それは大切なことであると,わたしは考えます。その一方で,いまだに先の震災を「社会の危機」であると受けとめることができずに,表向きには「絆は大切」といいながら,「(被災地の状況は)対岸の火事である」といった認識をもっている人々がいます。さらには,この震災にたいする「復興」を,「未来のための復興」ではなく,「2011年3月11日午後2時45分に戻すことが復興である(つまり,持続可能性を求めていないこと)」と認識している人々がいます。 (7) 「対話」の欠如 「絆」の大切さがさけばれている一方,「他者との対話」の大切さもさけばれるようになりました。「対話」という言葉を強調すると,まるで宗教団体のようなイメージをもたれますが,「持続可能な社会」をつくるためには,「必要不可欠な要素」であると,わたしは考えます。「他者」とのあいだに「積極的な対話」を設けて,そこから「お互いが分かちあえるもの」を見出すことは,「絆」をつくるための「大きなチャンス」であると,わたしは考えます。

  • 「単純なレッテル」に群がる日本人

    ここ数年,日本社会においては,「単純なレッテル」が,他者を理解するための「手がかり」と化していますが,このようなことの「問題性」を,日本人はどのくらい理解しているのでしょうか? ***** 他者を理解しようとすることは,容易ではありません。しかしながら,それは出来ないことではなく,実践できるものであり,実践することに,「大きな意義」があります。 そして,他者を理解しようとするうえで必要なことは,「単純なレッテル」に頼る日本人が多くいることです。たとえば,特定の政治信条をもつ人々にたいして,「右翼だ!」や「左翼だ!」などの「単純なレッテル」を他者にたいして貼りつける日本人は,少なくありません。 このようなことは,政治信条ということのみならず,趣味や嗜好においても,みられます。たとえば,特定の趣味や嗜好をもつ人間にたいして,「キモい!」,「犯罪者予備軍だ!」などという「単純なレッテル」を貼りつけることは,日本社会においては,よくあるものです。 「単純なレッテル」を他者に貼りつけ,他者を罵り,その人物の人格やキャリアを「否定」する。「単純なレッテル」という,ある種の社会現象のようなものからうかがえる日本社会とは,「単純な思考」が歓迎される社会であることと,さらには,「単純なレッテル」を「利用」して,多くの他者を「排除」,「排斥」する,「不幸をもたらす社会」だということです。