労働価値説の現在的な価値とは?

このQ&Aのポイント
  • 労働価値説には現在的な価値はないのでしょうか?モノの価値は労働と言われていましたが、それだけではモノの価格を説明できません。
  • ワルラス達はモノの価値は効用によって決まると主張し、需要と供給のモデルを提唱しました。現在の経済学の教科書は主に彼らの理論で構成されています。
  • スミスやリカード、マルクスの労働価値説は現在では一つの思想史、哲学のポイントとして記憶されるだけであり、現代の経済学ではあまり重要視されていません。しかし、マルクスに興味を持つ人や関連書籍はまだ存在します。労働価値説は現代の経済学のスタンダードではなくなっています。
回答を見る
  • ベストアンサー

労働価値説に現在的な価値は無いのでしょうか?

モノの価値は労働だと、スミスやリカード、マルクスが言ったが、それだけではモノが売りだされるときの価格を説明できない。 そこでワルラス達がモノの価値は効用、すなわちモノを消費した時に感じる幸せ感で決まる、という考えを提唱し、そこから需要、供給曲線のモデルへと発展した、ということを経済史の解説として教わりました。 しかし、ということは、今のミクロ・マクロの教科書に載っている内容は、上記のワルラス達…以降の学者たち、マクロはケインズでしょうが、それらの学者たちの理論のみで構成されている、ということでしょうか? スミス、リカード、マルクス等は、思想史、哲学の一つのポイントとして記憶されるだけで、現在的な理論的価値って無いんですかね? モノの価値は労働、という発想も分かる気はしますし、一面の真実は捉えてはいるんじゃないか、と思うのですが…現在でも、マルクスに興味を持つ人はそこそこいますし、関連書籍も売れてますよね? モノの価値は労働説、労働価値説というんでしょうか?これはなぜ現在の経済学のスタンダードの一角すら担えないのでしょうか?それともミクロ・マクロのどこかに含まれてますかね? ほとんど含まれてないとすれば、なぜ労働価値説は堂々と研究されないのでしょうか? またそもそも、上記のワルラス達以降の展開で、限界効用説以降は限界効用一色になってしまったということですか?限界効用説に、経済関連の学者たちを総勢納得せしめるほどの効力がどこにあったのでしょうか?限界効用だけでは納得せず、別の理論を展開する学者などはいなかったのでしょうか?労働価値説がどうしても勢いを失わないといけない事情でもあったのでしょうか?

  • 経済
  • 回答数5
  • ありがとう数1

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • at9_am
  • ベストアンサー率40% (1540/3760)
回答No.3

> スミス、リカード、マルクス等は、思想史、哲学の一つのポイントとして記憶されるだけで、現在的な理論的価値って無いんですかね? そんなことはありません。 例えば市場理論の基礎中の基礎である需給モデルはスミス以後です。リカードの比較優位論(リカードモデル)は国際経済学の基礎として、これ抜きには国際経済学を語れない位に重要です。マルクスはマルクス経済学として今でも研究している学者が日本にいますし、数理マルクス経済学という一分野を築いていたりします。 それぞれに、発展してその基礎をなしている上、時々新しい経済学を提唱する時に理論的基礎付けとして用いられたりします。この意味では、セーという人が名前が挙がりますね。 > モノの価値は労働説、労働価値説というんでしょうか?これはなぜ現在の経済学のスタンダードの一角すら担えないのでしょうか?それともミクロ・マクロのどこかに含まれてますかね? 単純に言って、1時間働いて出来たものと10分働いて出来たものの差を見分けられない場合があるからです。 例えば、全く同じねじを、片や旋盤で手で作り1時間に1個作ります。片や自動旋盤で1時間に1万個作ります。全く見分けがつきません。 或いは一般家庭でも、食事を作るのに、慣れていれば15分程度で出来る料理が、慣れていない人がすると1時間以上かかります。 こういうことは、さして珍しくないと思います。 さて、こういった場合に、全く同じものなのに価値が全く違う、という不可思議なことを考えなければなりません。また、サボって意図的に長い時間をかけた場合に価値が上がるか、という問題もあります。 ということで現実に即さないため、現在の主流である実学としての経済学(実証経済学)とは相いれません。 もう一つの理由は、労働によって価値が決まる、ということが分かったとして、それとは全く関係のない価格で財は取引されることが普通なので、実証的にはあんまり意味がないということに気がついたためです。 限界効用説では、均衡における限界効用の比として財の価格が決まります。なので実証的にはこちらの方が望ましいです。

kgat0769
質問者

お礼

やはり結局労働価値説では現代の経済状況を説明できないことが多いわけですか…限界効用説の方が実証的に望ましいということですね。ありがとうございました!

その他の回答 (4)

  • aimaina
  • ベストアンサー率48% (70/143)
回答No.5

市場で売れる製品のために投入された労働の価値は、費用の一部として供給曲線に反映されていると考えればいいんじゃないでしょうか。それ以上でもそれ以下でもない。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.4

労働価値説は、学説というよりも、こうあるべきだ、 という思想に過ぎないと思います。 どんなに労働を費やしても、人がほしがらないモノは 売れません。 そんなことは、子供にも判ることです。 どんなに価値があっても、それが市場にあふれて いれば値は安くなります。 これも当たり前です。 これらは「事実」です。 そういう事実が間違っている、という「思想」でしょう。 つまり、当為と、事実を混同しているだけだと 思われます。 だから、破綻したのです。

  • simotani
  • ベストアンサー率37% (1893/5079)
回答No.2

ものの価格は基本的には需要と供給で決まります(同一品質の場合)。 デフレの場合、需要が減退します。それを最初は在庫処分という形で利益を圧縮して販売し、製造コストを回収します。 が、回収しても次を生産したら売らないと従業員の人件費とかが回らないので、何とか安値で売ります。 「海外から輸入すれば人件費が安くなる」と海外生産に移転します(自動車産業の場合は為替変動回避策でしたが)。此処からは品質も問題になります。やはり中国韓国や東南アジア製品は品質にまだまだ難があります。この難を低価格で売り抜けようとします。結果的には圧倒的な価格差で輸入製品が売れて国内産品が売れなくなります。 輸入製品に対抗する為に国内生産も人件費圧縮に動きます。それが日本経団連会長の「最低賃金を中国並に切り下げない限り日本での製造業生産の維持は困難になる」との発言に繋がりました。常用雇用から期間工に、或いは派遣労働に切り下げ、固定費から変動費にしていった訳です。 海外生産が有利になる事で日本式の「高価格高付加価値製品」より海外の「低価格低付加価値製品」が日本でも受け入れられるようになりつつあります。 極論云えば5万円以上するシステムコンポと1980円のAMFMラジオで1980円の方が売れるようになったと言えます。更にこれが輸入で998円で買えるようになったのです。勿論998円は音質もぎりぎりです。でも音質より価格優先なのです。そういう製品が売れるとなると30円位の小型スピーカーの性能で鎬を削るようになりますから、だんだん音質も良くなる。 以前は「最初は格安品で我慢し少しずつより高級品に買い替える」のが普通でした。ラジオからラジカセに、MDプレーヤーにと進んだものでした。が、今や「ラジオだけで満足」してしまうのです。とりあえず聞くのは深夜放送だからそれだけ聞ければ良い。となるのです。携帯電話も韓国製が日本製を駆逐し始めました。docomoが最新機種に韓国製を選びSHARPを排除したのは有名です。

回答No.1

私は貴方のように深い事はわからないですが、労働価値説は資本家を打倒するための方便として考えられたと解釈しています。労働者は長時間働いても低賃金しか手にはいらない。資本家は労働者や機械を使い短時間で大もうけする。 物の価値を判断するのに時間で換算するのだと思います。同じ8時間働いた人は同じ賃金だと言う事です。旧ソ連を例にとると、極端にいえば頑張って働こうが怠けようが同じ8時間労働なら誰もが同じ賃金だというわけで、粗悪品の商品ができあがる、といったぐあいです。 それでも(今も)自営業はともかく、人を雇用したり、会社勤務や公務員も時間で計算していますね。暇な時間はもったいないと思いますが仕方ないですね。個々の場所での給料は違うと思いますが。 結論:物の価値を労働時間で決めたが、労働時間で決められるものではない事がいっぱいある事がわかったのです。たとえば、年代もののワインやウイスキーは一本500円~数十万円以上まであるというぐあいにです。

関連するQ&A

  • 労働価値説は誤りではないですか?

    マルクスの労働価値説は誤りではないですか?ソ連の歴史を見ますとマルクスの労働価値説は誤りではないかと思いますが如何でしょう。 理屈で考えても汗流して労働して価値を生み出すというのは、おかしいと思います。「頭の良い人は知恵をだせ、頭の悪い人は汗を出せ。」と言うではないですか。それに、発明をして、技術進歩して、人間の労働力なしに生産することで経済が進歩してきたのですから、マルクスの労働価値説は誤りだと思うのですが、マルクスは経済学者として一流だと言う人が多いようで良くわかりません。 どなたか教えてください。

  • 労働価値説と剰余価値説

    マルクスは資本主義の崩壊を予言し、計画経済を提唱しましたが、これはどのような説に基づいて提唱したのでしょうか? 調べてみたところ、タイトル通り「労働価値説」または「剰余価値説」に基づいているのかと思いましたが、この2つの説の違いがわかりません。。。 どなたかご回答よろしくお願いします。

  • 経済学では「価値」をどう定義しているのですか?

    経済学でか「価値」をどのように定義していますか? 古典派経済学ではある財やサービスを生産するために投入された労働が価値を決める(労働価値)だとか、マルクス経済学では財やサービスを使用したときに得られる満足感が価値を決める(使用価値)、ある商品の使用価値がその他の商品の使用価値と交換される場合の比率が価値を決める(使用価値)と言っていた気がします。しかしどれも需要サイドや供給サイドからしか議論していない不十分な説明であり、19世紀の終わりに物理学者たちが財やサービスを追加的に1単位消費したときに得られる紅葉、すなわち限界効用という概念を導入して経済学を構築し直したと聞きました。つまり、新古典派経済学では人間が主観的に感じる限界的な効用のことを「価値」と呼んでいるのですか?また需要曲線はこの限界効用理論から導出されており、需要曲線と供給曲線の交点で財やサービスの量と価格が均衡することになっていると思いますが、敷衍するとこの価格のことを「価値」と呼んでいるのですか?(実際、貨幣は価値の尺度であるという言葉があると思います。貨幣は価格を表しているので、価格が価値なのでしょうか?)しかし、現実には貨幣の供給量などによって物価は大きく変わるため、財やサービスの価格もその時の経済状況によって変動します。モノは同じなのに他の条件によって価値が変わってしまうことに違和感があります。加えて、マクロ経済学のでは初期にGDPを付加価値の合計だと定義していますが、ここでいう価値の定義もあやふやだと思っています。 経済学では「価値」をどこでどう定義しているのか教えていただきたいです。

  • マルクスの労働価値説がなんやかんやで支持された理由って・・・?

     マルクス資本論の体系において、異なる使用価値を持つ諸商品同士が商品として――貨幣を媒介にするか否かにかかわらず――交換されうるのは、それらの商品それぞれが唯一の同質的なもの、すなわち抽象的人間的労働を含んでいるからだ、と説明されます。  しかしながら、現実の交換の領域では、ある人が手に入れる商品の中に、交換で手離す商品と同質的なものが含まれていようがいまいが、それぞれの人間の利己心と必要にしたがって交換は行なわれるわけですよね。その結果として、大量生産され、競争に晒される商品に関しては、ごくごく当然のこととして、非常に手間のかかった(大量に労働が投下された)商品の価値が相対的に手間のかかっていない商品の価値に比べて高くなります。このことは労働価値説を用いるまでもなく、事実である上に誰でも出来る推論です。  当然のことながら土地その他の資産やブランド品の取引きでは成立しない原理であるし、労働生産物に限ってもすでに出来上がった平均的な価格体系を後付で大雑把に説明する原理にしかなりえません。げんに多くの批判がされてきたとは思うのですが、これほど批判のしやすい理屈があれほどまでに支持された理由は何なのでしょうか?。「交換されあうもの同士が共通の尺度で測られなければならない」理由の妥当性が突き詰められて議論されたことはあったのでしょうか?。  マルクス経済学は労働者の視点に立った体系であることを自認する学問だとはいえ、労働全収権論を主張するために労働価値説を採用したなどと言えばマルクスは激怒するわけですよね。でも労働全収権論以外に理由がないのではないかと思えるほどに論理的な弱さがあります。労働価値説など用いなくとも、階級社会の弊害や資本主義の暴力性を批判することは可能です。労働力の価値と労働生産物の価値の乖離(剰余労働)というマルクスの専売特許を披露するため・・・だとしたら悲しすぎる理由です。  正解がはっきりする質問ではないかもしれませんが、これほどまでに破綻した理屈を学者や活動家が必死に守りぬいた理由の真髄部分は何だったのか?・・・ということが疑問になっています。マル系をガチでやっている方に面と向かって聞くと怒鳴られるか煙にまかれるかしそうなので、この場をお借りして、ガチの方もそうでない方も、見解をお聞かせいただければと思います。

  • 2月24日(火)の日経「大機小機――マルクス再考」を読んだ方

    経済を学んでいる学生です。 アダム・スミス、リカード、ミル、マルクスらの経済学の概要については、一応は勉強した(講義を聞いた)のですが、このコラムの意味が理解できませんでした。 特に最後から2つめの段落、「『効用か費用か』で現実を論ずることは限界に近づいている」という部分がさっぱりわかりません。 初心者にもわかるように説明していただけないでしょうか。アホな質問ですみません。

  • アダム・スミスの労働価値説は自由放任の主張と矛盾してないですか?

    アダムスミスは、自由放任こそ最善の見えざる法であって、それを解明することこそ経済学であると言っています。資本主義におけるもっとも有用な精神である、自由競争の概念ですね。 一方で、彼は労働価値説を唱えています。 彼は、自由放任の先に資本ではなく、労働を置いています。  これは自由放任は資本主義の心構えのはずが、なぜ労働価値説を唱えているのでしょうか。  自由放任を主張するならば、そのゴールに資本をおくべきではないでしょうか。

  • アダムスミスの理論を、ミクロ経済学またはマクロ経済学の立場から、「ミク

    アダムスミスの理論を、ミクロ経済学またはマクロ経済学の立場から、「ミクロ経済学(またはマクロ経済学)から見たアダムスミスの理論の問題点と解決法」のテーマで論じるとどういう切り口になるでしょうか? (つまり、過去の理論は現在のレベルからすると不十分・不完全なところがあるので、それを指摘し、現在ではそれがどのように補われているのか。)

  • マル経を現代風にバージョンアップできませんか?

    マルクス経済学は商品価値が労働投入量で決まる、と考えている時点で現在の主流派経済学と折り合わないそうですが、商品価値が限界効用で決まる、と考えても、 マルクス風に考えれば企業が労働者を搾取しているのは変わらないでしょうから、そういうところだけ調整すれば現代版のマルクス経済学を打ち立てることは可能なんじゃないんですかね? 微調整をいくらやっても考え方はマルクスに変わらないから、誰もやろうとしないだけでしょうか? それとも商品価値の問題を別にしても、どう転んでもマルクス経済学を現代経済に当てはめることができない、決定的な理由があるのでしょうか? というか世のほとんどの企業が労働分配率を合理的に決めている、労働者の取り分はこれ以上いじりようが無い、というのであれば、そもそも「搾取」という考え方が成立しませんよね?そういうことでしょうか? 労働分配率が合理的に、公平な考え方に基づいて決まっている、そういうことは決して無い、と私は思ってますが…

  • 「剰余価値説」への基本的疑問

     マルクス経済学などの剰余価値説では,「資本家は労働者から労働力を買い入れ,必要労働分だけ賃金を支払う。剰余労働により生産された商品(剰余生産物・剰余価値)により資本家は資本蓄積を行い,拡大再生産する」と述べていると思います。  しかし,「資本蓄積」を行うには,剰余生産物を換金しないといけませんが,社会の大多数を占める労働者は必要労働分しか賃金をもらっていないのだから,剰余生産分は必然的に売れ残り,換金されず,結局資本蓄積はできないということにならないでしょうか?サヨクの先生方は,「特に小泉改革後,搾取があまりに激しすぎて,資本蓄積の前提条件までも掘り崩している」とか言いますが,前提条件なるものは一体何なのでしょうか?  もちろん「資本蓄積が幻想」などということが空論であることは大企業の内部留保の実態を見れば分かりますが,「資本蓄積」なるものを理論的にどう説明すればいいのでしょうか?  明快なご回答をお待ちしております。

  • 労働は美徳?……「一日8時間労働制」なんて、とんでもない時代錯誤?…… 「一日3時間労働」くらいの社会は、実現しない?

     「労働価値説」というんでしょうか、「労働こそが価値を生みだす」と、むかしの教科書に書いてあったように思いますが、アダム・スミスやマルクスの時代にくらべると、ロボットマシンに代表されるようなハイテクを駆使して、いまや一人あたりの生産性は何百倍にも何千倍にもなっています。  このように世の中がガラリと変わっているのに、いまだに『一日8時間労働制=労働は美徳』という固定観念のもと、人間がせっせ、せっせと働いたんでは、いずれ社会が崩壊するのは当然……子供でもわかるりくつです。  モノを作りまくり、運びまくり、売りまくり、捨てまくり、それでもハイテクを駆使して次から次に、これでもかこれでもかとモノを作りまくり……あげくのはてはデフレ・スパイラルだとかなんとか、浅はかな評論家や愚かな大学教授といった連中が、ああでもない、こうでもないとヘリクツをこねくりまわし、メシのたねにしている現状!  ポスト工業化社会というんでしょうか、モノの生産・流通のシステムが高度に発達した日本のような社会では、『一日3時間労働制』といったものを、あらゆる政策の根底に据えないと、生きるに値する未来は開けないんではないでしょうか?  「労働価値説」的な固定観念をかなぐり捨てて、人間生活のありようの劇的な変革を目指さないかぎり、小泉さんほか、だれがどんな政策をかかげても、事態はわるくなるいっぽうだと思いますが……