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聖書に詳しい方、教えて下さい。

かなり前ですが、アメリカのカーネギーホールで、「バトルとノーマン アメリカの魂を歌う」という黒人霊歌のコンサートがありました。(原題 Spirituals in Concert) その中の一つの歌で、「ある人がイエスに質問した。年を取った赤ん坊はいるか?」 「イエスは答えた。生まれ変わった人がそれだ」 と歌っているシーンがありました。「ある人」のことは「意地悪な人」と言っていたかもしれません。 聖書の一節だと思いますが、どのページか分かる方がいらっしゃいましたら、教えていただければと思います。

noname#177007
noname#177007

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  • E-FB-14
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回答No.2

今コンコルダンスで調べましたらそのような個所はありませんでした。 ただこれに近いようなところと言いますと、ヨハネ三章四節のところがそれらしきところです。

noname#177007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。なるほどここかもしれませんね。歌にするほど縮めると、上記のような歌詞になるのかも。ありがとうございます!

その他の回答 (2)

  • zebura23
  • ベストアンサー率30% (252/820)
回答No.3

聖書は 古代のさまざまな宗教や古文書の出典から引用されて編纂されています。 ですから当然、 初期のキリスト教の教えの中には輪廻転生、つまり生まれ変わりの教えが 存在していました。 しかし人々の心を支配するために教会にとって、 一番妨げになると考えられた教えが輪廻転生の教えでした。 そしてその教えが削除されたのはローマ時代で、 シーザーであったと言われています。 しかし現在、そういう真相を多くの人々が知るようになり、 キリスト教会が聖書にないとしてその教えを否定していても、 実際には多くの人々が、その真実を受け入れて信じるようになっています。

noname#177007
質問者

お礼

ありがとうございます。まさにこの一節が長年頭から離れなかった理由をご説明頂きました。子供のころ、日曜学校に通っておりましたが、イエス様が転生について語った部分は知らなかったので、歌に歌われたこの一節を探しておりました。 NO.2様のヨハネの福音書 3章が該当であれば、歌の歌詞/解釈は、現在ならではといえるかもしれませんね。ありがとうございます。

noname#175573
noname#175573
回答No.1

多分ですけどそんなところなかった気がします。 パリサイ人などに意地悪な質問をされた場面はありますが。 もしあったとしてもhatihoさんの持っておられる聖書と翻訳とかが違ったらページ数も違ってくると思います。

noname#177007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。何章何節と言って頂ければ多分分かるかと思います。

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    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。   * 《このようなもの》とは 端的には 情欲です。一般化して    《理想のようなもの あるいは 理念とその美 これらのたぐいを   みづからに心地よい観念としての想像をとおして その表象に自分   から依り憑いていく心の片向き つまりは その弱さ》です。  それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。  しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。  魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。  自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。  (アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この一節を解釈してください。アウグスティヌスを知らなくても ピンと来る方がいらっしゃるのではないかと思いました。   前編=《QNo.4091848:情欲は 罪ですか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4091848.html 》

  • イエスの指し示した経験行為とは 脱ナラワシ?

     聖書のイエスの話ですが ここでは そのイエスが指し示したおこないをめぐって その経験行為のみを問題とします。  たとえば 《愛》と言っても 必ずしも自明ではありません。  ▼ (マルコ福音 12:30)  『・・・心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:4)』。  ☆ そして   ▼(同上 12:31) 『隣人を自分のように愛しなさい(レヰ記9:18)』。  ☆ ここから どんな具体的な経験行為を思い浮かべるでしょう?  《神》は おのれの主観の内にしか見い出しがたいのなら その神をどのように愛するのか?  《自分を愛するように隣人を愛する》とは それが《神を愛する》ことと同じことだとすれば いくぶん具体的になってくるかとは思われる。けれども 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめばよいのか?  世に《ケノーシス(自己無化)》という言葉があります。それは 聖書の文章としては 次のくだりから出ているのだそうです。  ▼ (ピリピ書 2:6-8) ~~~~~~~~~~~~~  6: キリストは、神の身分でありながら、    神と等しい者であることに固執しようとは思わず、  7: かえって自分を無にして、僕の身分になり、    人間と同じ者になられました。    人間の姿で現れ、  8: へりくだって、死に至るまで、    それも十字架の死に至るまで従順でした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここからふと思ったのですが このイエスの存在のあり方が指し示すことは どうも《自己無化》というよりも・そして先ほどの《愛》の主題を考え合わせても  《脱自・自己脱出》というようなことではないか?   これは 何の脈絡もなくひらめいたものです。そしてこの脱自のさらに具体的な内容はと言うと それは どうも既存の社会にあって そこからは抜け出ることなく しかもその既成の慣習から自由になること。これではないか。  おのれを 従来のナラワシから自由な姿として――その姿の想像だけとしてでも――えがくことが出来るか?    ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。この想像上の世界から 話は始まるのではないか?    要領を得ないのを承知で ひとまづ このように問うてみます。

  • 聖書に詳しい方おねがいします!

    大学の帰国子女枠で受験しようとしてる者です。自己推薦書に、聖書の言葉を引用しようと考えてるのですが、以前一度聞いただけなので、正確に知りたいと思い投稿しました。たしか、「神は乗り越えることができる人間にしか試練をお与えにならない」という言葉だったと思います。もし書簡名もわかるなら、おねがいします。

  • 聖書学者の方にお尋ねします

    簡単な質問で恐縮ですが、教えてください。 現代の聖書学者は、ご研究とキリスト教信仰の関係をご自分でどう捕らえられているのでしょうか? ご研究と信仰とが衝突することはないのでしょうか?