• 締切済み

最後の一文の真実をどう考えますか?

別の掲示板にも投稿させていただいたことがあるのですが、最後の一文、みなさんでしたら、どのように考えますか? 『真実はひとつ、です。 (神のみぞ知る、です・・・神が存在するなら) 事実は、その真実に関わった人間の数だけ存在します。 それぞれの人間が見たり聞いたりしたことは千差万別です。 人間の脳は自分に都合のいいように「見え方」や「聞こえ方」を 変えて情報を処理しているからです。 極端に言えば、同じもの(△)を見ていても、わたしには○に見え あなたには□に見えていることもあるのです。 ただそれを「△」と呼び合っているにすぎません。 けれど、それぞれがみているものは、それぞれにとって「事実」です。 ちゃんと見ているんですから。 けれど「真実」ではありません。 脳が勝手に情報を都合よく改ざんしているからです。 「真実」はありますが、突き詰めて言えば、誰にも分かりません。 「事実」を寄せ集めて最大公約数を求め、 より「真実」に近いものを納得しあうに過ぎません。 だから、関わり合った人間は常に「何か違う」「どこか違う」という 違和感を持ってしまうのです。 その違和感を突き詰めようとすればするほど、 主観が入り「事実」を曲げていってしまい、 最大公約数がどんどん小さくなってしまう・・・ つまりは「真実」から遠ざかってしまう、ということだと思います。 けれど、「真実」はあります。 確かにあります。』

noname#5622
noname#5622

みんなの回答

  • latipes
  • ベストアンサー率36% (63/173)
回答No.9

こんにちは  哲学は素人ですが, 気になる質問だったので, 私になりに考えてみました. 『我考えるゆえに我あり』という言葉があります. 真実というものを知ろうとしても知ることは出来ないけれど, 今,ここで考えている自分がいるというのは疑いようもなく真実であるというようなことであったと思います. (ここで私の解釈が間違っていたらすべてが間違いになってしまうのですが・・・.)  たとえ,ここで考えている自分がいるというのは 疑いようもないことであったとしても, 自分が存在しているということは, 自分がそう思っているだけかもしれない. 実は,自分は存在しないのかもしれない. 神は万人の創造者であり, その創造者である神だけが人の存在を同定しうる. したがって,真実は神のみぞ知る. 神しか知らないけれど, そして,どんな真実かはわからないけれど, 神だけは真実を知っているという事実はある. 真実は神のみぞ知る けれど真実はあります.確かにあります. なぜなら,神は存在するのだから. という感じなのでしょうか. もう1つの考え方は, 長い歴史の中で,真実は移り変わっていきます. 人の命には限りがあるので, 現在真実だと思われていることも 時間の移り変わりとともに移り変わり 真実ではなくなってしまう. しかし,神は永遠の命を持ち, 真実の行方を見守っている. 神だけが,その時々で移り変わる真実を知ることができる. (時間軸の中で真実を見ることができる) 神だけしか知ることはないけれど, また,真実は移り変わるものであるけれど, 真実があることは確かである. だって神は存在し, 神が存在しないなら, 私たちは存在しないのだから. と私は解釈してみました. いろいろ教えていただけると嬉しいです(*^-^*)

  • jmh
  • ベストアンサー率23% (71/304)
回答No.8

「真実が存在するという真実」は「神のみぞ知る」なので、「真実が存在するという事実」を確信したのだと思います。その確信は脳による情報改竄かもしれません。 しかし、「脳が情報改竄するという事実」は、脳による情報改竄かもしれません。 私は、少なくとも、「この文は間違っている」的なモノを感じました。

  • suima
  • ベストアンサー率32% (13/40)
回答No.7

>最後の文章の >「真実はあります。確かにあります」は、 >最初の文章の >「神のみぞ知る」 >ということにつながるのでしょうか? "つながる"というよりはただの反復による強調だと思います。 あと、その前の段落で「真実」から遠ざかるってことを書いてあるので、 もう一度「真実」の存在を示しておこうってだけかと。

noname#5622
質問者

お礼

回答いただき、ありがとうございました。

  • suima
  • ベストアンサー率32% (13/40)
回答No.6

#4です。 この文にそった考えで述べます。 (私の考えではありません)  まず前提として、「真実」は存在しています。 ただし、それを正しく認識できる人間はいません。 五感を通して入ってきた情報を、脳で処理して解釈する際に、 完全に「真実」のまんま認識されるわけではありません。 必ずズレが生じます。 >脳が勝手に情報を都合よく改ざんしているからです。 原文でいうと、この部分ですね。  そして、そのズレを通した「真実」が「事実」です。 このズレが一人一人違うので、各々が感じる「事実」は別のものになります。 そのズレの原因は、五感に不具合があったとか、価値観や体験など、様々なものが考えられます。  図にすれば、 「真実」→五感→脳の処理→「事実」  です。 五感に不具合があれば、「真実」はズレますし、 脳の処理の段階でもまたズレます。 と、ここまで解説です。 こんなもんでいいでしょうか? >>真実は神のみぞ知る。 >>けれど、真実は確かにあります。 >このように、答えが分からないことを例えて、 >矛盾させるものなのでしょうか? これは矛盾してませんよ。 変なところで省略したから間に『けれど』が入っちゃっておかしいですけど。  「真実」は存在しているけど、「真実」を正しく認識できるのは全能の神だけである。  我々人間を含めた全ての生物は、「真実」を正しく認識することはできず、 「真実」から少しズレた「事実」を感じている。

noname#5622
質問者

補足

最後の文章の 「真実はあります。確かにあります」は、 最初の文章の 「神のみぞ知る」 ということにつながるのでしょうか?

noname#15238
noname#15238
回答No.5

お邪魔します。こんなの好きです、参加させてください。 考えてみましたが、2点ほど異論のようなことに気が付きました。 一番目は、認識を視覚や味覚など一つの感官だけで考えているような気がします。 認識には、五感+@、見ると共に触れることも出来ます。 視覚(味覚だけ等も可)だけを単独で取り上げれば、このような表現も可能ですが、物質的な存在そのものには当てはまらないのではないでしょうか。 二番目、違和感。私たちが自分の認識しか所有できず、他人の認識を知ることが出来ない限り、そもそも違和感を感じることが出来るとは考えられません。 これは、真実の問題ではなく、「差異」言い換えれば「価値」の問題ではないでしょうか? この回答自体か、「フィルター」の存在を証明する的外れの回答かもしれませんが、修行不足をお笑いください。

  • suima
  • ベストアンサー率32% (13/40)
回答No.4

私は大体はこの文に賛成です。 以下の段落だけは納得できませんが。 >だから、関わり合った人間は常に「何か違う」「どこか違う」という >違和感を持ってしまうのです。 >その違和感を突き詰めようとすればするほど、 >主観が入り「事実」を曲げていってしまい、 >最大公約数がどんどん小さくなってしまう・・・ >つまりは「真実」から遠ざかってしまう、ということだと思います。 簡単に文をまとめると、 「真実」に人の目を通すと、「事実」になる。 人によって脳は違うので、その「事実」は人の数だけ存在する。 ということだと思います。  たとえ話として、 あるところに生まれつきモノが赤く見える人がいたとしましょう。 (赤いフィルターを通して見ているようなものです) さて、ここに青空が存在します。 (空が青いというのは、「最大公約数的な(仮の)真実」です) (青いという概念は人間が考えたものなので) 多くの人にとっては、空は青く見えます。 そして彼らは空を"青い"と呼びます。 これが「彼らにとっての事実」であり、「最大公約数的な(仮の)真実」です。  でもその人にとっては、空は紫っぽく見えるはずです。 それでも彼はその紫っぽいその空を'青い'と呼びます。 周りの人がその空の色を"青い"と呼んでいるからです。 彼にとっては、紫っぽい色が青色なのです。 これが「彼にとっての事実」です。 では「真実」として空は青いか? それは誰にも分かりません。 (有神論者の方は、神は知っていると言うと思いますが) 我々人類はみんなそういうフィルターを持っているかもしれないからです。 なお、上のたとえで、 >多くの人にとっては、空は青く見えます。 こう書きましたが、これは仮定です。

noname#5622
質問者

補足

哲学という分野の基礎(?)が分からないのですが、 真実は神のみぞ知る。 けれど、真実は確かにあります。 このように、答えが分からないことを例えて、 矛盾させるものなのでしょうか? また、そうではなくって、 今回の場合は、このように思う、みたいな事を 聞かせていただけると、嬉しいです。 ど素人に基礎(?)を教えて下さい。

  • zephyrus
  • ベストアンサー率41% (181/433)
回答No.3

これ、事実と真実が逆ではないのですか? 少なくとも、私にはそのほうが理解できる。 それでいくとこうなります。(全部が全部、逆というわけではありません)   ※ 事実はひとつです。 真実はその事実に関わった人の数だけ存在します。 自分の関わった経験や認識は人によって少しづつ違うので、完全に一致することはない。少しづつ真実は異なることになります。 その真実を寄せ集めても事実に近くなるだけで、完全な事実が再構築されるわけではない。 ひとはそれぞれ自分の真実と異なる、再構築された「事実」を前にして違和感を抱く。 その違和感をつきつめようとすればするほど、自分の抱いている真実に足を取られて、事実から遠ざかってしまう、ということはしばしばありうることである。 けれど、事実はあります。 現にそれは起こったのですから。   ※ このほうがわたし個人にとってはすっきりするのですが、いかがでしょうか。 質問の趣旨からはずれているぞと袋叩きに遭いそうですが(汗)。

noname#5622
質問者

お礼

レスいただき、ありがとうございました。 科学的に確実に起こったことが事実で、 それに対する思いは、それぞれということなのでしょうか。ありがとうございました。

  • gorou3
  • ベストアンサー率21% (35/166)
回答No.2

ここで言う「ある真実」は捨象された、単純な真実です。 それぞれの「事実」は、細かい要素が入ってくるわけです。 リンゴは赤い→その赤さは、オレンジ色が入っている。黄色い筋が入っている。光っている。黒い粒が見える・・・・ ああ、哲学は理屈っぽい。

回答No.1

「真実」を「おいしいカレー」に置き換えると・・・ 『おいしいカレーはひとつ、です。 (神のみぞ知る、です・・・神が存在するなら) カレーは、カレーを食べた人間の数だけ存在します。 それぞれの人間が感じた味やにおいは千差万別です。 人間の脳は自分に都合のいいように「おいしさ」や「満足度」を変えて情報を処理しているからです。 極端に言えば、同じカレーを食べていても、わたしには辛く感じ、あなたには甘く感じていることもあるのです。 ただそれを「カレー」と呼び合っているにすぎません。 けれど、それぞれが感じた味は、それぞれにとって「カレー」です。 ちゃんと食べているんですから。 けれど「おいしいカレー」ではありません。 脳が勝手に情報を都合よく改ざんしているからです。 「おいしいカレー」はありますが、突き詰めて言えば、誰にも分かりません。 「カレー」を寄せ集めて最大公約数を求め、 より「おいしいカレー」に近いものを納得しあうに過ぎません。 だから、関わり合った人間は常に「何か違う」「どこか違う」という違和感を持ってしまうのです。 その違和感を突き詰めようとすればするほど、 主観が入り「カレー」の味を曲げていってしまい、 最大公約数がどんどん小さくなってしまう・・・ つまりは「おいしいカレー」から遠ざかってしまう、ということだと思います。 けれど、「おいしいカレー」はあります。 確かにあります。』 けれど以降の部分は、私の解釈ではこうかな? 『だから、あなたにとっての、あなたが認識した「おいしいカレー」というのも存在するし、社会が定義し、社会の認識とした「おいしいカレー」も存在するの。』 すなわち、あなたの中の真実と、社会の認識における真実との2つは存在しうるのである。

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