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ゲーム開発 裏話・秘話

閲覧ありがとうございます。 私は、ゲーム開発における裏話や秘話を知りたいです。 最近、セガ上海の「ナイツ」移植の話を聞き、感動しました。 他にも話をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください。 ■現在知っている話 ・ナイツ移植時、SS版のソースコードがアセンブラで画像データが全滅し、  背景圧縮技術が天才技だったが、セガ上海社員がPS2で完全再現させた ・バルーンファイトのファミコン版の挙動がアーケード版より  優れていたため、アーケード版のプログラマ(任天堂社員)が、  ファミコン版のプログラマ(外注)にレクチャーを受けに行った  その外注プログラマが現任天堂社長の岩田氏 ・ナイトストライカーのメガCD版(だったはず)開発時、  タイトーがソースコードを全て消失していたため、下請け会社ビングの  開発者は、リバースエンジニアリングと攻略ビデオの映像から、挙動と画像を再現した。 ・ナムコのプログラマー深谷正一氏が31歳で急死されたことを悲しんだナムコのスタッフが  源平討魔伝のエンディングに深谷氏へのメッセージを入れた お願い致します。

noname#196688
noname#196688

みんなの回答

回答No.1

・ゲームウォッチは電卓で遊んで暇つぶしする人を見て横井軍平(開発者)氏が考案。 ・十字キーを初めて開発したのも横井軍平氏。ゲームウォッチのドンキーコングは折りたたみ式だったからスティックだと折りたためないため使えず、ただの4つのボタンでは操作してるとわかりにくく押しにくかった。そこで2つを合わせたような十字キーを考案したそうな。 ・そんな横井軍平氏は「枯れた技術の水平思考」という哲学を持っていた。要は、「ゲーム作りは技術ではなく中身だから、ハイテクな技術ではなく既に普及した技術で作るべき」ということ。 上述のゲームウォッチは当時普及していた電卓の技術の応用であり、安く作ることができた。 それに反し、当時の最新技術を用いた3Dゲーム機「バーチャルボーイ」は不人気で短命に終わった。 ハードのスペックに頼りがちな今のゲーム業界にも十分通用する考えだと思います。 参考:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%26%E3%82%A6%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%81#.E9.96.8B.E7.99.BA http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E8%BB%8D%E5%B9%B3#.E6.9E.AF.E3.82.8C.E3.81.9F.E6.8A.80.E8.A1.93.E3.81.AE.E6.B0.B4.E5.B9.B3.E6.80.9D.E8.80.83 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E3%82%AD%E3%83%BC#cite_note-0

noname#196688
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 横井さんといえば、64の開発に反対した人ですね。 ゲーム開発にまつわる苦労話、裏話をまとめた書籍があったら嬉しいです。。。

noname#196688
質問者

補足

ありがとうございました。 カテゴリが悪かったのか、私の質問内容が悪かったのか、あなたしか回答して頂けませんでした。締め切ります。

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