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鎌倉幕府衰退の理由とは?
- 鎌倉幕府衰退の一つの理由としてよく挙げられるものには、均分相続(分割相続)があります。しかし、それだけではなく、人口増加や生産力以上の人口増加も大きな要因とされています。
- 鎌倉時代の世帯あたり人数は減少していたのか、子に均分相続させる場合の田畑の扱い、そして幕府衰退の根本理由としての人口増加と生産力の乖離などについて、考察を行いたいと思います。
- 資料によると、均分相続によって田畑が分割され、子孫を残さずに死ぬ子の田畑が耕作放棄されて困窮する御家人が増える一方で、人口は増加していたようです。そのため、均分相続だけでなく人口増加も鎌倉幕府衰退の理由とされています。
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- tanuki4u
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お礼
なるほど、分かってきました。 > 2,3男や庶子なり親族が仰山いましたので。 となると、幕府衰退の(根本)理由は、 均分相続というよりも生産力以上の人口増加という事になるのではないでしょうか? という疑問はどうなりますか? ひょっとして、鎌倉後期は親戚関係が遠くなってしまって 協力体制が築きにくかったという事情があるのでしょうか?