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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。)

ゴータマ・ブッダのなぜ阿呆であるか?

NemurinekoNyaの回答

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回答No.15

こんばんは。 ☆☆☆ ★ ニルワ゛-ナの文字通りの解釈は 無意味だとさえ考えます。ねむりねこさんも 生のため・生ゆえにというご見解だったと思いますが。 ☆はい、わたしは、「宗教は《生のため・生ゆえに》必要だ」と考えています。より良い《死後》のためのものだとは、まったく考えていません。 ですから、ゴータマ・ブッダの《生(命)軽視》《肉体軽視》の考え方は大嫌いです。 わたしの考え方とは根本的に相容れません。 「夫(それ)、仏法、遥(はる)かにあらず。 心中にしてすなわち近し。 真如、外(ほか)にあらず。 《身を棄(す)てて、何(いづく)にか求めん》。 《迷悟》、われにあれば、すなわち、発心(ほっしん)すれば、すなわち到(いた)る」 (空海・般若心経秘鍵) この部分の現代語訳は、以下のアドレスで。 http://www.kurusonzan.or.jp/ShingonMikkyo.htm 今ある《からだ》と《こころ》を離れ、この二つを棄てて、仏教(宗教)などありえない。 これが僕の根幹をなす考えです。 《自灯明》と《法灯明》つながりで、《理趣経》の一節を、ねむりねこ語で紹介。 「日々、よく読んで、《自分の頭》でよく考えれば、 お父さんとお母さんからもらった《今のからだ》のまんまで、 最高の《さとり》を得ることができるさ、きっと」 (般若理趣経) ということなので、僕としては、 《自灯明》は《いま現勢態としてある、ココロとカラダ》と考えたいです。 これが、  ★★ ナーガルジュナの《アートマンの考察》なる見解にもとづき 《客塵煩悩》をも容れた《わたし》を それ(ヒトなる生物)としての主体と見て立てるものです。    と述べましたが これを焦点としては どうでしょうか? に対する、僕の返答です。 ◇僕のもっとも根底・核心にある密教(真言)の部分、あんまり、他人(ひと)には見せたくなかったのですが... ☆☆☆ ☆ ~~~~  寡聞なわたしの知識によりますと、実在したゴータマ・ブッダの説いた  布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)  に、何かそれを匂わせるような記述があるらしいです。  《真のアートマンはあると言えるし、ないとも言える。  ことばでは表現できない。  ヨーガによって感じるしかない》  みたいなことを言っているとか、いないとか....  ~~~~~~~  ★ できましたら ここら辺を解き明かしておきたいように思います。《わたし》とはどういう行為主体としての存在であるのか? だと思います。 ◇《わたし》の行為主体は、《客塵煩悩》を容れた《わたし》だと思います。 サーンキヤは仏教でないので、仏教の唯識的立場で言うと 《わたし》《わがもの》という観念を抱く《自我意識》、すなわち《末那識》にとらわれた現勢態・動態の《こころ》ってことになるのではないでしょうか。 《自性清浄心》は形而上的な存在、《非思考の庭》の存在なので、ひとまず別にして.... 《中論》の18章の別の現代語訳を紹介すると、 「2 我が存在しないとき、いずれに我所(わがもの)があろう....  3 わがものの観念をはなれ、我慢を離れる人は、存在しないのである。    わがものの観念の無と、我慢の無を見る人は、見ないのである」 (中論の頌・大乗仏典 中村元編 筑摩書房) 我慢とは、《末那識》の心作用の一つです。 第八根本識《阿頼耶識》を《真我》と錯誤し、それを《常楽我浄》と思い、《我癡・我慢・我見・我執》の心作用(心所)が発生する。 龍樹は自我意識を心の作用の一つとして捉えたけれど、唯識は、執著性を強調するために、その心作用を《末那識》と名付けて、別建てにした。 そんなところではないでしょうか。 サーンキヤで《アハンカーラ》と呼んだものを、《末那識》と呼んだのではないでしょうか。 布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)の現代語訳は http://yusan.sakura.ne.jp/library/buddha_pottapada/ で見ることができます。 現代語訳が正確かどうか分からないので、あくまで参考程度に。 いちおう、四禅・無色四禅の説明もあるようですし.... ☆☆☆  ☆ ~~~~~~~~~~~~~   《無種子三昧》あるいは《無想三昧》といわれる深いヨーガによって、  物質的存在の形成力(サンスカーラ・行)の原因を消滅させないかぎり、《プルシャ》は物質的存在にとらわれたままです。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    であってよい。無明を《わたし》の内に含んでいても構わない。という《わたし》説です。いかがでしょう? ◇だと思います。《無明》を内包しない《わたし》は存在しえないので。 いたら、それは《人間》ではない!! それに、大乗のめざすべき最高の人格は、悟りを得た《ブッダ》ではありません。 衆生とともに、一緒に泥田を這い回る《菩薩》なので。 そして、誰もがその《菩薩》になれるというのが、大乗の教えだと思うので。 (唯識は違いますけれども....) ☆☆☆ ☆~~~~~~~~~~~~~   《ブッディ》(サーンキヤの学習)と《ヨーガ》によって、《プルシャ》が《プラクリティ》から展開された物質的存在から解放される、それが《解脱》であるとする   ~~~~~~~~~~~~~~~  なる《彼岸》を何ら立てない。という意味です。  これは まさにゴータマ・ブッダが《苦》や《無明》を最初の最初に立てたその説に真っ向から対立しようとする見方になると思います。 ◇はい、この世から隔絶した、どこか遠くにある《彼岸》なんていりません。 わたしの核心部分、密教(真言)なので。 《真如、外に非ず。身を棄てて、何にか求めん。》!! です。 「《身体性》の欠如した仏教なんか、いらない」とさえ思っていますので。 そのため、ゴータマ氏弁護に苦労しています(笑い)。 なかなか、わたしの考え方と繋がらないもので。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ご返答が遅くなりました。  でも ここを訪問なさる方々は すでに今回のご回答で納得されたものと思います。  空海に通じている方は ここでいままでにお二人知っています。  ぼんのうさん( bonnnou03 )さん と へたのすけさんです。  そのとき《加持祈祷》について本を一冊読んだこともありました。  けっきょく日蓮風に言って 境智冥合なのだと思いました。ただしその実修は分かりませんが。  ▲ 真言密教について-(序の口)   http://www.kurusonzan.or.jp/ShingonMikkyo.htm  ▲ (《わたしたちはおのおの ブッダである》) ~~~  つまり、仏様だけが仏なのではなく、我々も同様に仏であり、本来仏たる資質を備えている。そして、たとえスケールは違っていても、我々も他の人に代わってもらうことのできない独自な仏としての役回りを持っている。  だから、「仏と我々の身体・言葉・心の三種の行為の形態が、不思議な働きによって感応しあう時、速やかに悟りの世界が現れてくる。(三密加持)」と説きます。  ~~~~~~~~~  ★ そう言えば ぼんのうさんさんが 高野山で僧侶が外国人に話をしていて 《 We are buddhas. 》と言っていたことを聞いたと 言っていました。これを思い出しました。  ▲ (《梵我一如》≒《境智冥合》(?)の展開?) ~~~   ▲ 三密加持とは、  以我功徳力=我々の功徳の力  如来加持力=仏の救済の力  及以法界力=両者の出会いの場としての全宇宙のあらゆる力  この三つが融合しあうことをいいます。   ▲ 加持とは、  「加」とは、仏のお力(ご加護)が修行する我々の心に映ることであり、  「持」とは、修行者の心が仏のお力(ご加護)をよく感じること」です。  ~~~~~~~~~~  ▲ (なんぢ 煩悩よ) ~~~~  真言密教では、次のように欲をとらえています。  「この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない」  「もし、欲が邪魔になるなら、もっと大きな欲で制すればよい」  「例えば、御仏と同じ一切衆生を済度するという大欲が我々に持てれば、  目先の小欲は制することができる、欲の浄化とはそういうことだ」  「将来、大欲があったお陰で今日の自分がある、と言えるようになれる」  ~~~~~~~~~~~~  ★ これに対しては 次のわたしの質疑応答でお応えしたいと思います。    ○ 【Q:なぜ情欲を劣情とするのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5922822.html    ☆ 《自灯明》は《いま現勢態としてある、ココロとカラダ》と考えたいです。  ★ そうですね。わたくしの場合は 《わたし》になりますが これはいわゆる現存在として《いま・ここなる〈わたし〉》ですから 同じことのように思います。  たぶん ひとことつけ加えれば 《自然本性》が前提になるということですが たぶん《客塵煩悩 自性清浄心》を――間接的に――前提とされるのかも分かりません。  《自然本性》は けっきょく《身と心》であり 心は 精神であり 精神は《記憶・知解・意志》の三つの行為能力を持つというかたちです。その中軸を成す《意志》は 特に身つまり感性の持つものごとにかんするわきまえの能力――これが ココロでもある――にさからってはたらく場合がある。これを 善(感性善)の損傷行為として 悪とよぶ。  ここで自己宣伝のごとく この自然本性のあり方を解釈したものを提示します。《〈かみ〉の似像(にすがた)》としてのヒトなる存在です。  ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式的理解――    ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ 僕のもっとも根底・核心にある密教(真言)の部分、あんまり、他人(ひと)には見せたくなかったのですが...   ★ ちょうど正反対の露出狂であります わたしは。  ☆ 《わたし》《わがもの》という観念を抱く《自我意識》  ★ 正直にしかも唐突に述べますが 《自我》という言葉 これはどうにかなりませんか? と思っているのですが どうでしょう? 《わたし・われ》でしかないと思うのです。  《 das Ich 》というから 漢語を使うというのかも知れません。でもそれなら《わたしなるもの》くらいでいいのではないでしょうか?  一人称のイッヒを使っている意味が 《自我》だと隠れてしまう。(文字では つながってはいますが その慣用からは どうも別の意味合いがつきまとうように感じられます)。  つまり 何か別の意味内容を帯びた概念になった感じをあたえてしまう。いっそ《おれ意識》と言えば早いのかも知れませんし。   ひょっとして 現代人は 《自我》と《われ》とは別だと思っているのではないでしょうか?  《自我の確立》などというのは くそくらえだとすら思います。《わたし》なんです どこまでも。《他我》などとさえ言うようになりました。他人と書いて《ひと》 あるいは 《ひとさま》でしょう。  《自分・自己》でじゅうぶんだと思います。  ・ ナーガルジュナの翻訳 これら二つどちらについても正直に言えば もっとこなれた日本文に出来ないかなと思います。意味は取れますが。  サイトのご紹介のあった《布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)》は 参考程度になるのでしょうか 掲げます。  ■ (ブッダ on アートマン) ~~~  「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、  つまり、真我なるものは、存在するのですか。  それとも、真我なるものは、存在しないですか。」  「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。  無我を観じられないと、真我を感じられない。  これは、確めるべきであり、語るべきではない。」     (布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ) 第五章)  ~~~~~~~~~~~  ☆ ~~~  それに、大乗のめざすべき最高の人格は、悟りを得た《ブッダ》ではありません。  衆生とともに、一緒に泥田を這い回る《菩薩》なので。  そして、誰もがその《菩薩》になれるというのが、大乗の教えだと思うので。  (唯識は違いますけれども....)  ~~~~~~  ★ 《無住処涅槃》と解していいのでしょうか?    これで まとめに入れましょうか?  ただし よいまとめ方が いま考え浮かばないのですが。

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     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • ブッダの性愛観は 間違っていませんか?

      ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。  ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~  814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、   ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの    教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。  815  師(ブッダ)は答えた、   ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。    これはかれのうちにある卑しいことがらである。  816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、    車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫    と呼ぶ。  817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと    を見て、性の交わりを断つことを学べ。  818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。    このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。  819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、    虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。  820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、    ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。  821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま    もり、性の交わりに耽ってはならない。  822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ    とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら    ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。  823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを    渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ    を羨むのである。  と。  (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  疑問点です。  1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。  つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?  2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。  つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • ブッダの美女マーガンディヤー事件

     いま得られている資料をかかげます。ご見解をおしえてください。  ▲ 【資料1:求愛をことわる】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。  ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。    「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。  釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。  しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。  その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。  このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。  (『徒然草2001 法則編』     http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆【資料2:その後の悲劇】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』によると。マーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーワ゛ティーに敵愾心を燃やす。しかも その遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかった。とうとう サーマーワ゛ティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中の侍女たちもろともを焼き殺したと言う。  《このサーマーワ゛ティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記すところ。  僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴が伝える。    僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら   生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで   に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い   つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて   いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても   魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で   何の生命もなかった。サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても   永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから   すでに聖者の位を得て死を迎えている。    (寂聴:前掲書《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158)  さらに結語として。    人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で    はかってはならないのだろう。     (同上 p.159)  わたし(=質問者)の考えですが ブッダあやまてり ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 【資料3:ブッダに好意的な議論】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【とびらの言葉】その第3回です。  http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/tobira-bk01.htm  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。