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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:三人称の文章には客観性が必要と言うのは何故?)

三人称文章における客観性の必要性とは?

rkd4050の回答

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  • rkd4050
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回答No.5

 この批評は、にわか知識をつぎはぎして適当に書いているだけで、意味を成していません。分からなくて当然です。なので無視して結構です。  なお、いい批評かダメな批評かの区別は、その批評が指摘する箇所を直したらどの程度作品が改善されるかで判断するといいです。  人称については、この作品は三人称で書かれていますが、視点の処理については特に問題のある文章だとは思いませんでした(問題は別にあるのですが、それは後述)。三人称で書く際に、客観的に書かなければならないという決まりはありません。  小説の技術をわかった気になっている人に限って、人称について口うるさく言うものですが、彼らの言うことは実践的でも論理的でもありません。ろくに小説を読んだり書いたりしたことのない連中なのでしょう。三人称を客観的な書き方で統一するだけで小説の質が上がるなら誰も苦労しません。  人称(視点)は、どの視点から物語が進行しているかがわかるようになっていれば、特に細かい部分に気を遣う必要はありません。  一人称の場合は特定の誰かの視点でほぼ固定されるので、気を遣わなくてもわかりやすいという利点がありますが、三人称の場合は切り替えが自由なので、その分、的確な視点切り替えが必要になります。  TVゲームをプレイされるなら、客観視点のゲームではカメラワークが非常に大事、ということは理解できるだろうと思います。カメラが壁にめり込んでキャラが見えなくなったり、カメラが激しく切り替わりすぎてキャラがどっちを向いているのかわからなくなったせいでミスったら腹立ちますよね(笑)  つまり、どんな状況でもプレイヤーが的確に操作できるようにカメラワークを工夫することが客観視点のゲームでは重要なのですが、三人称視点の小説でもそれは同じです。そのポイントさえ押さえておけば、三人称の地の文に誰かの主観が入ったりしても何ら問題はありません。  この小説の問題点は、人称の問題ではなく、読者のことを考えていない点です。  これもゲームを例にするとわかりやすいのですが、冒頭で何十分にも渡って延々と物語の設定だとか操作方法の説明なんかが流れたらうんざりしますよね。もう説明はいいからとりあえずプレイさせてくれよ! と思いますわな。  そんなわけで最近のゲームでは、とりあえず冒頭からいきなりストーリーを進行させ、簡単なレベルをプレイさせながら、少しずつ操作説明や世界観の説明などをプレーヤーに理解してもらうように工夫がなされています。  小説でも同じで、読者は設定や架空の世界の歴史が読みたいのではなく、魅力的なキャラクターの言動やストーリーが読みたいわけです。  だから、冒頭からキャラクターを魅力的に動かし、その中で必要な説明を読者にストレスを与えずに少しずつ流し込んでいく工夫が必要になるのです。その工夫が成されていないから、前半は読むのが苦痛で、まあ、後半の会話文がたくさん出てくるあたりでようやく読みやすくなるわけですね(もっとも、この会話文は魅力的とは言い難いですが)。  小説は、読者にどう読まれるか計算して組み立てる必要があるのですが、この小説の作者にはそもそも「読者」という観点がなく、ただ書きたいように書いているからダメなのです。  人称について知りたい人には、アガサ・クリスティをお薦めすることにしています。読みやすくて面白くて、その上様々な視点技術を使っており、非常に実用的です。  三人称だと『そして誰もいなくなった』、『ゼロ時間へ』、一人称だと『アクロイド殺し』、『ABC殺人事件』がおすすめです。

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