• 締切済み

岡崎市役所は、なぜ事実を捏造するのでしょうか???

岡崎市役所は、岡崎が三河武士発祥の地を宣伝しています。 大久保の三河物語、幕府の柳営秘鑑、三河後風土記いずれも、徳川最古参の譜代=安祥譜代とあり、安城市が、安城松平家(徳川宗家)発祥の地であるわけだから、その家臣が最古参は当然ですね。捏造では???????

みんなの回答

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.3

 一つの事実に対し二つの側面から見た場合、二つの解釈が成り立つことは現代の裁判と同じである。原告と被告双方の主張を厳密に調べその結果を判断するのは第三者(どちらにも与しない中立的立場)としての裁判官である。  質問者は「捏造」に拘りたいようであるが、それは一方から見た場合の解釈でしかない。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.2

それも一つの説でしょう。 ねつ造ではなく単なる見解の相違。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • wy1
  • ベストアンサー率23% (331/1391)
回答No.1

若しそうお考えならば、岡崎市に直接質問すべきですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 岡崎市が三河武士発祥の地を宣伝しています

    大久保の三河物語、幕府の柳営秘鑑、三河後風土記に、安祥譜代、山中岡崎譜代、駿河譜代となってるのに、岡崎市が三河武士発祥の地を宣伝しています、捏造では?? 大久保の三河物語、幕府の柳営秘鑑、三河後風土記いずれも、徳川最古参の譜代=安祥譜代とあり、安城市が、安城松平家(徳川宗家)発祥の地であるわけだから、その家臣が最古参は当然ですね。

  • 西尾市の歴史は捏造か???????????

    西尾の由来は、西条や煮る塩ではなく、尾島城(小島・尾花)の西である可能性。 西尾城の前身とされる西条城は存在せず、徳川が奪取する以前、今川時代から西尾城である。 当然、鎌倉時代の足利氏が築城したわけがない。 西尾の中心部は、幡豆郡熊来郷である。クマク神社と同じ読み。 西尾市天竹町に、木綿など到来していない。日本後紀に三河漂着とあるだけ。 三河万歳は安城より古いと言いながら、なぜか徳川(安城松平家)に合流している。 八ツ面山は、戦国時代は荒川山と呼ばれていた。 西尾のお茶の歴史は鎌倉時代からの古いものであるとしながら、 平安時代の本朝文粋には、安城の別郷廃寺(薬王寺)に既に茶園があると記述されている。 三河三都・小京都・城下町と称し、悠久の歴史を誇るかのような宣伝をしているが、 古代の古墳時代は、安城の古井・桜井の古墳群に西三河の中心があったことが考古学の発掘調査で すでに結論が出ている。 名鉄西尾線は、前身が西尾線で、西尾鉄道の岩瀬がつくったと宣伝しているが、碧海電気鉄道の新安城~西尾が主体である。 岩瀬文庫は、国立国会図書館・国立公文書館に所蔵されていないような地元のあやしい本がいっぱいで、 デジタルアーカイブで一般公開されていないため、史料価値が検証不能。

  • 名古屋市から、愛知県庁を移動させるべきでは????

    名古屋市から、愛知県庁を移動させるべきでは????????三河から遠い。刈谷・安城・岡崎あたりに移動させるべき。

  • 愛知県へ引っ越します。教えてください。

    主人の転勤に伴い住み慣れた福岡を離れて愛知県へ行くことになりました。 行ったこともない土地で知り合いもいない状況です。 当初名古屋市内が勤務地だと聞いていてこのサイトでもいろいろ情報収集をして住む地区まで決めていたのですが、三河になることがわかりました。 三河ってどこ?三河市ってないけど?という状態から始まって、その地方一帯を三河と呼ぶことを知りました。 主人の職場は名鉄本線の東岡崎駅付近です。名鉄沿線で・・・と岡崎市か安城市で住居の情報を集めています。 今まで住んでいた福岡は適度に都会で適度に田舎で、中心地への移動もとても便利でした。 初めての土地だし、あまり不便なところに住むのも不安です。子供も今はいないので、慣れてきたら私も働きたいとも思っています。 当初名古屋で情報収集したこともあり、名古屋市に住むといろいろ楽しそうだなぁと思ってしまったりもします。名鉄沿線だと、急行がとまる鳴海(緑区)はどうだろうとか・・・主人は遠すぎるのではないかと言いますが。調べてみると岡崎や安城からも特急に乗れば名古屋駅までは30分以内で行けるようですね。岡崎が職場なのに名古屋に住むのは変でしょうか・・・どこがいいんでしょうか・・・ あれこれ考えているとよくわからなくなってきました。初めての土地で不安がつのります。何を一番大事に考えるかってとこがポイントだろうとわかっているのですが、もうそれがわからなくなってきた状況です。お盆前には一泊二日で行って住居を決めなければいけません。お力を貸してください。よろしくお願いします。

  • WIKIPEDIAの故城一片之月の史実捏造????

    wikipediaの安城市という記事で、故城一片之月が、岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける、と徳川実紀に記述されているのに、松平清康が「安祥城→山中城→岡崎城」と移住したと、捏造しています。自分は、正しい記述を挿入しているんですが、リバートしてきます。WIKIPEDIAは信用出来ないか???????? 東照宮御実紀巻一 その太郎清康君。これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日十三歳にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみ/\ならず。萬にいみじくわたらせ給へば。御内外様のともがらも。この君成長ましまさば。終に中國に旗挙し給ふべしと末頼母しく思ひ。なびきしたがふ事父祖にもこえ。信忠の御時に離散せし者どもゝ。ふたたび来りて旗下に属するやから少からず。」岡崎并に山中の両城主松平弾正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。清康君十四歳にてこれをせめんとて。元老大久保左衛門五郎忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻抜かれ。其猛威に乗じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおもひ。をのが最愛の女子をもて清康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひしかば、これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再び此城本家に帰せしなり)世には安祥の三郎殿と称し。その武威を恐れける。」享禄二年五月の頃西三河は皆御手に属しければ。是より東三河を打したがへ三州を一統さられんとの御志にて。牧野伝蔵信成が吉田の城を乗とらんとて。安祥を打立ち給ふ。 徳川実紀の記述から、安城にいたのは確実。岡崎領主古記の記述は誤り。 安城市史や岡崎市史が典拠とする岡崎領主古記は、江戸末期編纂の地誌で信憑性ゼロ。 なぜ捏造するんでしょうか?

  • 三河守から征夷大将軍へ

    鎌倉時代、足利家と三河国は因縁が深く代々三河国の守護職を勤め、矢作(岡崎)の地は足利氏の一大拠点とも言える土地でした。又、細川・吉良・今川・荒川・仁木等の足利一門も三河一円に拡がりそれぞれの地名を姓とし繁栄しました。尊氏の代には六波羅探題を滅ぼし天下を取りました。 戦国期に入ると三河国は足利一門に代わり松平(徳川)家が勢力を伸ばし、徳川家康の代に岡崎を拠点として三河を統一、東海を制し遂には天下を取りました。 これは単なる偶然でしょうか?それとも三河岡崎の地は天下人を輩出し易い条件が揃っているのでしょうか?

  • 豊田市、主にトヨタ本社、トヨタ記念病院周辺の朝の渋滞について教えて!

    安城市の西尾寄りに住んでいます。 豊田市に勤務する事になりそうで、車での通勤を考えています。朝の通勤ラッシュは相当な混み具合と聞きました。私の友達は、三河安城辺りから車通勤で2時間程かかるとの事です。私の家は、三河安城から渋滞の無い時間に普通に走れば15分西尾方面に進んだ場所です。 岡崎方面から248号線で行った方が良いのか、それとも新安城を越えて12号の道で行くほうが良いのか、見当が付きません。安城、西尾近辺から、豊田市へ通勤されている方、どの位前に出れば良いのか、どうか情報を下さい!よろしくお願いします。ちなみに、勤務先は8時30分始まりです。あと帰りも相当混むのでしょうか?

  • 酒井 忠次 と 小五郎 という名乗りについて

    酒井 忠次(さかい ただつぐ)の 幼名 は「小五郎」なのでしょうか? 酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、何歳ぐらいから何歳ぐらいまでの間、「小五郎」と名乗っていたのでしょうか? (⇩)下記のページによると、生涯 の所に、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。 と書かれています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1 生涯 の所に、 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。 と書かれていますが、質問があります。 酒井 忠次(さかい ただつぐ)の 幼名 は「小五郎」なのでしょうか? 幼名と通称は違うものなのでしょうか? 酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、何歳ぐらいから何歳ぐらいまでの間、「小五郎」と名乗っていたのでしょうか? 酒井 忠次(さかい ただつぐ)の幼名は、「小五郎」なのかどうか? 幼名と通称はどう違うのか? 酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、何歳ぐらいから何歳ぐらいまでの間、「小五郎」と名乗っていたのか? 等、 酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、いつぐらい から いつぐらい まで「小五郎」と名乗っていたのか? 等、 酒井 忠次(さかい ただつぐ)と「小五郎」という名乗りとの関係について、詳しく教えてください。 〔参考URL〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1#%E7%94%9F%E6%B6%AF 大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。

  • 「お前でも息子は可愛いのか?」

    徳川家古参の家臣であり、徳川四天王の一人に名を連ねる酒井忠次。 酒井家の石高は10万石であり徳川の譜代としては低い 忠次が家康に息子の家次の石高を増やして欲しいと頼んだとき家康は 「お前の様な奴でも倅がかわいいのか?」と吐き捨てて結局酒井家の石高は加増されませんでした… 家康の長男・信康が織田信長に切腹を命じられたとき後見人だった忠次は信康を助けなかった事を家康は根に持っていた と言う話ですが 酒井家の石高が低く抑えられたのは単に手柄を立てなかったからで 家康の逆恨みってのは作り話だと思うのですがどうなのでしょうか? 酒井家は家次の代以降 1度も転封や改易をされていませんし

  • 愛知県の学校群制度と表記9高校につき教えてください。

    愛知県の学校群制度と表記9高校につき教えてください。 現在香川県にいて働いていますが, 愛知県の教育というと結構話題になります。 独特の教育方針があるようで--。 それで聞きたいのですが, 1:1970年代から1980年代にかけてあった高校入試の学校群制度につきどういうものか教えてください。 ただし岡崎市内と豊橋内にあった制度だけでいいです。 2:下記9高校につき *現在の状況 *1980年代の状況 につき感じること教えてください。 ただし岡崎高校の現在の状況は香川県内でも聞くまでもなく有名ので、 1980年代の状況だけでいいです。 (1)岡崎高校 (2)岡崎北高校 (3)岡崎西高校 (4)安城東高校 (5)安城南高校 (6)豊橋南高校 (7)岡崎城西高校 (8)三河高校 (9)浪商高校〈大阪ですが--) 「○高校はバドミントンが強かった」「×高校はこういう進路が卒業生に当時多かった」といったことでかまいません。