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日本の宗教政策

neil_2112の回答

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  • neil_2112
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回答No.3

いま現在の寺のイメージで中世の寺を見ることは厳禁です。中世の寺院の数は今よりも極端に少なくて、都に近い少数の巨大寺社が、官僚機構である公家、武家と並んで一大勢力を誇っていたのです。 いわゆる巨大寺院ができ始めるのは10世紀以降と見ていいと思いますが、これは高額の納税に耐えかねた人々が農民・商工民を問わずに、税率の低い寺社にどんどん流入するようになったからです。また院政期には公家のあいだでの一種の流行として寄進が行われました。結果、多くの寺領荘園が生まれましたし、商工業座の発展が促されたわけです。 イメージとして重要なのは、当時の寺院というのは今のようなはっきりとした「境内地」という区分がなくて、本来の境内のまわりに寺と不可分に形成された門前が広がっており、ここに半僧半俗の有髪の者や悪党と呼ばれる武力を常とする僧侶、乞食や遊行の者を始めとして、金融から土木、芸能、服飾などありとあらゆる業態の人々が寺院に関係しながら起居していたことです。 中世の比叡山は典型的にその形をとっていました。武家や公家から土木工事の発注を受けることもしばしばで、このことからもわかるように門前を含めた全体がいわゆる「寺院都市」として、学問・武力・産業を全て網羅した都市として一体的に機能していたとのです。その中にあっては、学問と密教的な呪術をこととする寺の本領は、ごくごく一部にしか過ぎない些細な機能でした。 寺院が誇るこういった圧倒的な力に対して、権門側は何も施策を打たなかったわけではありません。 例えば、鎌倉初期には自由出家を認めない、という禁令が出されています(自由出家というのは比叡山が始めたもので、簡単に言うと公務員である僧侶の資格認定を、国に代わって寺が自前でやり出したものです。私度僧とはまた別)。 自由出家が問題だったのは、権門のメンツよりむしろ経済的な理由で、自由出家したものの私有地が結局寺領に編入されてしまって寺を肥やすことになるからです。同じ理由で鎌倉時代には勝手に寺社に土地を寄進することが禁じられもしました。 しかしこれらの施策は機能しませんでした。結局、既に寺院が産業コンプレックスとして力を持ちすぎていたために、「一旦仏のものとなったものは永久に寺のもの」という寺側の論理を打ち崩すだけの実行力が無かったこともありますし、そもそも寺院都市は農地開発の土木作業から徴税吏に至るまで人材とノウハウを全て手中に持っていましたから、土地の支配権がいずれ寺に傾くのは自明の理だったのです。 (途中をはしょりますが、こういった巨大勢力に対抗する施策がいざ現実的に履行されるのが織豊を経て江戸時代になってからです) 家康はまず寺院法度を公布します。これは各宗派ごとに内容が違いますが、おおむね本寺の権限を強化して、末寺には本寺の命令に絶対服従を命じたり、本寺の承認なく勝手に末寺が住職を選ぶことを禁止する、何か問題が起これば本寺が処分する権限を与える、といった点は共通しています。 その狙いは要するに、力のある京都の寺院を宗派内の権力関係を強化することで押さえ込む、ということです。幕府にとってこれが何より喫緊の重要課題だったからです。 例えば天台宗の場合には、中世以来権力を握ってきた比叡山延暦寺の上に関東の(川越)喜多院を置いて、関東の本寺による延暦寺のコントロール体制を作ろうとしたのです。 これに次いで、徐々に寺請制度が形づくられていきます。 16世紀頃からでき始めてきた地方の小寺は、ほとんどがお堂や祠のようなものだったり大家の軒先に僧が住みついたような程度だったのですが、この寺請制度ができることで小寺の経済基盤が確立し、現在の原型が作られました。 寛永10年には各宗派に命じて「諸宗寺院本末帳」を作らせます。この本末帳に記載された寺でないと檀家をとることが許されないわけです。その直後、幕府は各藩に対してキリシタンを徹底的に調べさせ、いわゆる「寺請証文」というものの提出をさせるわけです。寺請証文とは、誰それはうちの檀家であってキリシタンではない、という内容を寺院住職の名前で証明する文書ですね。 寺院の側では、当然この寺請を背景にして檀家との関係を強化していきます。離檀すれば寺請証文がもらえなくなり、今で言えば戸籍にあたる宗門人別帳にも記載されません。つまり“帳はずれ”、いわゆる非人の扱いとなるからです。 島原の乱の直後、寛永15年から幕府は特にキリシタン対策として、この寺請証文を作ることを寺に義務づけます。檀家の名前だけを書けばよいような雛型を作り、全国の寺に徹底して触れ流したのです。庶民は常にこれを所持し、厳密にはこれが無ければ結婚も旅行もできない、というスタイルがここで確立します。 つまり、幕府による寺請制度の確立はこの年、寛永15(1638)年とみるべきです。(ただ、全国の実態が制度に伴うようになるのはまだ半世紀以上要します) その後、寛文5(1665)年には「諸宗寺院法度」が出されます。それまでの宗教統制は全て、各宗派別個に行われていましたが、ここで初めて全宗派共通の施策がとられるのです。 この法度が“民衆管理の制度の確立”である、という回答がありますが、これは残念ながら誤りです。中身はその逆で、本寺の権限を弱めることと、民衆の離檀も可能にする、というのがこの法度の中身だからです。具体的にはっきりと「檀越之輩、何寺たりといえども其の心に任すべし(後略)」とあって、寺檀間での争いの場合には檀家の好きにさせよ、としているのです。 これは以前の法令とむしろ逆の内容です。家綱がこんなものを出すことになったのは、家康の時代に本寺の権限を強化した結果、本寺が政治的・経済的に強大になり過ぎたのでその力を今度はそぐ必要ができたこと、それから寺請をめぐって寺と檀家の騒動が多発して檀家側の訴訟が大量に寺社奉行に持ち込まれるようになったので、一定のガス抜きというか、寺請制度にある程度の歯止めが必要になったためなのです。 つまり、はっきり書いておきますが、幕府の制度としての寺請確立に向けた施策は1638年で沙汰やみとなります。それ以降は、それぞれの宗派の本山が「末寺掟」といったものを独自に作って末寺を統制するようになっていくのですし、各寺院のほうでも独自に檀家を抑えていくようになります。幕府によって一旦スイッチが入ったシステムが、ほぼ自律的に動き始めるわけです。 余談ですが、その際の有名な史料に「御條目宗門檀那請合之掟」というものがあります。あたかも幕府の法令のような体裁を整えた偽公文書を寺がわざわざ作って、「檀那寺以外で葬式をだしてはならない」とか「いい加減な仏事を行う者はよく調べよ」といった事柄を檀家に周知していくのです。 寺のイメージもろとも書こうとしたために長くなりましたが、質問者氏の問題意識とずれているかも知れません。必要な部分だけ活用してください。

akk5999
質問者

お礼

お礼を言うのが遅くなって申し訳ありません。 御三方の回答はとても参考になりました。 ありがとうございました。

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    金融論・国際経済について文章を作ってみました。 ご意見や感想をよろしくお願いいたします! 世界の金融を支配している勢力に問題があります。 「日本の一部上場大企業も大手銀行」も「株式を持たれて経営権を握られていて」既に支配されてしまっている状況。 小泉・竹中売国政治によってやられてしまった。 世界全体の国々が 「私企業に支配されて民衆が奴隷化される状況になりつつある」。 中世 = 領主間との主従関係=「封建制」 近世 = その後、ヨーロッパ各国では、国王が強くなり、 秩序ある中央集権国家を作る。 日本でも、織田信長、豊臣秀吉、その後の江戸幕府が、 秩序ある集権的な国家を作る。 今現在の世界は 近世に逆戻り =多国籍間で活動する巨大私企業=国王化する時代に 今後の秩序がどの様になるのかは不明であるが。 現在ある国の行政機構はそのまま残して民衆をコントロールする。 国家が巨大私企業の傀儡化(操り人形)。 アメリカは既にその様になっている。 国内法律も国際条約が優先されて無効化している物が世界に存在するし、そのようにして無効化される