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純粋形態と自然形態の混在から

空間デザインの設計においては 人工的なものと自然的なものとの調和が求められてきたように思いますが その内容は、時代の移り変わりと共に常に変化してきたように感じられます。 それらは美意識の変革の一端を示すものでもあったようです。 美そのもの、或いは、用と美、という面から捉える時において 現在までに示されてきたもの以上のデザインが現れる可能性はあるのでしょうか? もし、あるとするならば、どのようなものが考えられるのでしょうか? 次の時代の新しい創造力をお聞かせください。 参考例 ランドマークタワーと、その内部の水の流れや植栽 各地に残る城郭や寺社建築と、その周囲の景観 桂離宮の建築と庭園 慈照寺の池泉庭と、向月台・銀沙灘

みんなの回答

noname#145704
noname#145704
回答No.2

いくらでもあると思います。というのも、空間のオーガナイズは、私に言わせると、人やモノの、交流の在り方を設計することだからです。 たとえばマンションを例にとって、基本的な考え方を説明してみます。多くのマンションは、一階の踊り場の後、できるだけ、人間が触れ合わないように設計されています。しかし、この構造をちょっといじれば、人と人とが触れ合わざるを得ないような空間設計ができます。一案としては、強制的に、各階に設けた共有のリヴィングを通過しないと部屋に行きつけないようにしてしまうのです。あまりこれをやると、寮になってしまいます。事実、寮の設計とは、頻繁に寮生が遭遇せざるを得ないように設計されているのです(私が住んでいたのでよく知っているわけですが)。 同じ発想で、オフィスのビルの内部設計をいじってみたとしましょう。部署と部署が頻繁に出会うような設計に変えられるはずです。家屋も家族の中でのあり方を考えて、設計を変えられます。この調子で、人間と人間の交流の在り方に応じて、いくらでも無限にデザインが可能だと思います。 しかし、これは人の交流の在り方だけに限りません。自然との接触の仕方も設計できるのです。私の醜さを問うスレッドでバッシングしてしまった安藤忠雄の「住吉の長屋」も、そういった設計のあり方の一つだ、と思ったりします。トイレに行くたびに、枯れ井戸状の吹き抜けになった中庭を強制的に通らなければならず、素の空と出会わないとならないのですから。しかもその出会い方も、一風変わっています。空とは出会うが、壁面に窓などが一切ないお陰で、家を取り囲む周囲の雰囲気には出会わないでよろしいという出会い方です。コンクリートが切り取った空とだけで会えばよいのです。 このように、誰に・何に頻繁に出会いたいか?どのような形で出会いたいか?を考えるのが、一つの指針になると考えます。 たとえば私個人は、自然に出会いたいが、窓から客観的に観察するのではなく、粗暴な自然にもあってみたいです。となると、私の好みは、安藤忠雄的にも強制的に自然に遭遇する設計ということになるでしょうか。無駄に天井に穴があいているという施設など、ちょっと引かれます。東京の文化村の吹き抜けなど、私は好きですね。 逆にルーヴル美術館周辺の、ピラミッド型の明り取りこそあるが、空調に頼り、外界と遮断した密閉構造は、かなり悲しくなります。まぁ、あれもあれで、近未来的な地下街が周囲に広がっていますし、地上のカルーゼル広場をゴミゴミさせずに残した成功した例だと思います。けれども、もっと自然を取り込みたいのです。安藤は自然を取り込むということにかけては、なかなか面白いと思います。外光が、それがそのまま十字架になる教会なども、実は私の好みです。自然を取り込むという建築物が、私は好きです。いや、あまりやると安藤ファンだということになるので、やめておきたいと思いますが。わざと建物を欠損させ、自然の入りこむ隙を作ること――これが私の好みです。 ここまででひとまとまりのお話しになったので、純粋形態には、今回触れられませんでした。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 安藤忠雄氏の作品は興味深く拝見しました。 施主の希望であったスペイン式の空間をと、というのが基本線であったように思いました。 中庭を活かした設計を大胆に行った一例だと思います。 施主が「素の空」と触れ合えることが素晴らしいと思います。 雨の日こそが、その実感をもたらしているようです。 そこには、視覚だけではなく、聴覚や触覚も含めた、常に変化する自然との触れあいがあると思います。 純粋形態的な空間の中で享受する自然の恵み・・・そんな感じでしょうか。 私がこの作品からふと思いついたのは その外観からですが・・・ピラミッドです。 どちらも直線の組み合わせによる単純で力強い形は純粋形態的なものです。 この建築はコンクリートの打ち放しで、色彩もグレーのままです。 なぜ、着色を施さないのか、といったところにも設計の狙いがあると思います。 仮に、色付けをした場合には、人の住む感じではなくなってしまうと思います。 コンクリートの打ち放しで、時間の経過と共に、コンクリートの色が変化してゆくところに、人の感覚に合うものがあると思えます。 ピラミッドですが こちらは、創建当初は石灰岩の化粧石に覆われて、白く輝いていたそうです。 完璧な四角錘の形状で、しかも、真っ白な色だったわけです。 通常では、有り得ない形と色をもった巨大な代物なのですが ここには、純粋形態的な人工物にふさわしい「白」という色彩があったように思います。 有機的で複合的な要素をすべて排した、単純な形状と色彩の極至のようです。 直線という、人の理性を象徴するものには「白」が相応しい・・・という事になるのでしょうか。 そして、このように形造られたものには「用」というものは不要なのかもしれません。 「用」という人的利便性を備えたものとして造られたものではないように思います。 ピラミッドという純粋形態が、どのような自然形態と繋がりを持っていたのかは不明ですが そこには必ずそうしたものがあったと思います。 片方だけというのは無い気がします。 スフィンクスもありますが、とてもそれだけではない感じがします・・・ 少し取りとめのない話になってしまいましたが 純粋形態と自然形態、人工と自然との対照的な美の調和といったものは沢山あると思います。 そのへんを見ながら、これからのデザインの可能性を探っていきたいと思っています。 また、お願いします。 ありがとうございました。

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回答No.1

「~以上のデザイン」と言われますが、たとえばおたふく 顔の天平美人は、「美人」ですか? 美は嗜好であって、時代によって変転する生育環境や 社会的風潮に応じて変わるものであり、常にその時代の ものが最良なのです。 演歌好きにロックは雑音に過ぎません。 そこにおいて、物質的効率性が優先され、機能美が もてはやされた近代においては、「用と美」の調和が 必須の課題であったかも知れませんが、中世以前の 精神性(あるいは不可視な要因)が重要であった時代 には、壁画や様式装飾のように、機能的必然性は キャンバスとして、任意の意匠が施されました。 “機能美”自体が、流行に過ぎないのです。 ひるがえって、そうした“目的をもった物体の表面に付加 される視覚的作意”が、人の意識にとって好ましいのは、 人の脳には、1感覚(先行感覚=情報性の高い媒体)の 刺激に対して、過去の五感の相関した経験を総和して、 ニューロネットが励起される、という脳内での環境再構成 のメカニズムにおいて、「過去の経験」は、常に自己の 本能的性向が反映されるからです。 子供は、カラフルな色やにぎやかな音など、何でも刺激を 喜んだものが、経験を積むにつれ、落ち着いたバランスを 好むようになるのは、そうしたメカニズムによります。 それは、人間の認識の不完全さによる曖昧な部分を、 経験的直感でカバーしようとするものだと言えます。 認識がより深まって、事物の表面だけを見て、その原理的 要素や環境的位置づけが把握できるならば、先述のような “経験的あてずっぽ”は不要になり、宮沢賢治が達観した ような、“生きる事自体が芸術(「農民芸術概論綱要」参照)” になるでしょう。 (残念ながら、現代人はお金や地位に操られる“目隠し された馬車馬”=歯車として、認識低下しているので、 そうはならないようですが)

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 >目的をもった物体の表面に付加される視覚的作意 この言葉は有益なものと思います。 作意に気付かないまま、作意に覆われて生活しているのが普通です。 大半の人はデザインという作意に気付いていないのだと思います。 そこに、デザインの持つ力、人への影響力、或いは危険性といったものすらあるように思えます。 目まぐるしく変わる、流行のデザインの仕掛け人の作意は 常に新しいものを求めてやまない人の心理を的確に捉えているのだと思います。 空間デザインも同様ではないでしょうか。 過去に試されて成功した作意が、未来において形を変えて登場する、といった事もありうるように思います。 そうした可能性を、ふと思いついた質問でもありました。 Pさんは建築関係のお仕事をされていますので、「視覚的作意」という実務の面からのお答になったものと思います。 部屋に籠って図面を描いていても、常に人と対峙しているという緊張感があるのかもしれません(勝手な想像ですいません) 過去の作意をどこまで読み取れるかが、次のデザインを生みだす大きな要素でもあると思います。 また、どのような傑作であっても過去のものは過去にすぎないものです。 過去の傑作よりも、今と未来における拙い創造の方が素晴らしいようにも思えます。 また、ヒントがあったら下さい。 ありがとうございました。

noname#156094
質問者

補足

ありがとうございます。 多様性の変遷の中において最良は見出す事ができる・・・という事でしょうか。 予測のつかない未来においての最良は、現在からは決定することはできない・・・という至極当然の事でもありますね。 しかし、私は最良のみを求めている訳ではありません。 ロックはあまり好きではありませんが その躍動するドラムの音そのものは好きです(年がいもなくですが) 新しいものを生みだそうとする力強さが感じられるような気がします。 新しさは最良とは限らない 最良とは限らない新しさ・・・を教えてください。 過去の最良が示すものは、結果であると共に、未来への可能性を含むものでもあるはずです。 それと 純粋形態と自然形態の混在のデザインにおいて 純粋形態に用いられる色彩には「白」が多いと思われます。 その辺の理由についてもご教授願えれば幸いです。

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