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江戸時代の旅ブーム

江戸時代には旅ブームがあったってほんとうですか? 徳川幕府が整備した5街道は 旅につかわれていたイメージと 参勤交代のイメージ、どっちがつよいですか? 参勤交代はいつまでやっていたのですか?

noname#151022
noname#151022
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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代には旅ブームがあったってほんとうですか? 本当です。 戦いもなくなり庶民も平和に暮らすようになると、経済も安定し、庶民の貯えもでき、旅ブームが起こりました。 代表的なものは、 お伊勢さん参り: 「男一度は伊勢と吉原」と言われるように、お伊勢さん詣でが流行しました。 伊勢大神宮は日本人の信仰の大元(おおもと)であり、江戸のどの家にも神棚があってお伊勢さんのお札が祀(まつ)られていたほど、人々の心をつかまえていました。「一生に一度はお伊勢詣でをしたいもの」と人々は考えました。 神宮側からも年末になると、御師(おし)と呼ばれる下級の神職が江戸へきて、「伊勢暦」や「一万度の御祓(おはら)い」という「神札」を各家に配って回りました。お伊勢参りの宿泊の手配などもしてくれ、現代の「旅行社」などの役目をしてくれました。 古くから、日本では神社参りというと、男女の間が乱れても許される、と言われており、お伊勢参りでも、宿場の「古市」(ふるいち)に遊女がいて参詣を終えた男を、それこそ「男」にしてくれました。 富士講: 江戸の人たちにとって富士は常日頃仰ぎ見る存在でした。参詣旅行が盛んになった江戸時代中期以降、富士講が人気を集めたのはきわめて自然の成り行きであった。 元禄から享保のころの江戸にいた食行身禄(じきぎょうみろく=伊藤伊兵衛)という大行者は富士登山45回の大ベテランだったが、貧乏人の暮らしの苦しさを見て、食物を万民に公平に行き渡らせるべきだと幕府を批判し、享保18年(1733)、富士山に登って七合五勺の洞窟に籠り断食をして死亡した。 身禄の教えを受けた弟子たちが、遺骸の近くに身禄神社を建て、江戸市中に次々と「富士講」を成立させ、富士山登山と身禄神社への参拝を呼びかけ富士山詣では大流行になりました。 大山詣: 水泳などの水遊びが見られなかった江戸時代、領国橋きわの東河岸(ひがしがし)で水中に体をひたし、大きな木刀を掲げ、大声を出して祈念する大山詣の水垢離(みずごり)は、江戸の一名物であった。 大山というのは相州(神奈川県)伊勢原にある丹沢(たんざわ)山系の霊山で、江戸からだと富士を背にして美しい三角形の山容が望まれる。古くから「雨乞」(あまごい)の山として有名で、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)年間(749)、良弁(ろうべん)の開基と言われている。 参詣の時期は6月27日から7月17日までで、講の信者は江戸では庶民、とりわけ鳶(とび)の者や職人、芸能関係などと威勢の良い連中が多く、木太刀(きだち)をかついで行って納め、帰りには別の木太刀をもらってきた。 山岳信仰だから、女の登山は禁止されており、江戸からは3~4泊の気軽な旅であった。そして、帰りには江ノ島まで足をのばし「精進落とし」の宴を催す者も多かった。 まだまだ小旅行はありましたが、代表的なブームは以上のようなものでした。 >>徳川幕府が整備した5街道は 旅につかわれていたイメージと 参勤交代のイメージ、どっちがつよいですか? 江戸時代だけに限って言えば、確かに、五街道は参勤交代のために整備されたものです。 しかし、五街道は江戸時代以前から幾多の武将が戦のための主要街道として造られたものです。 >>参勤交代はいつまでやっていたのですか? 正確には、元治元年(1864)、14代将軍徳川家茂の時代頃までで、家茂の晩年と15代慶喜の頃になると「倒幕運動」が盛んになり、悠長に参勤交代などはできなくなりました。(しなくなりました)。各藩の幕府に仕えるという考えの違いもあり、参勤交代をしない藩が多くなりました。

noname#151022
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  • pri_tama
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回答No.2

>江戸時代には旅ブームがあったってほんとうですか?  約60年に1度発生する「おかげ年」では、伊勢神宮へ集団で参拝することが流行し、数百万人規模の参拝者を記録したそうです。  (当時の人口が2~4千万人ですから、10人に一人が参拝に行ったことになる…。)    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A  参拝へ向かう人の列は凄まじく、参拝客の列が途絶えず、街道を挟んだ向かい側の家に行く事すら出来ない程だったとか…。

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